(2) 廃駅幻景
【お題】駅、川、太陽
日差しは確かに穏やかだったが、それが即ち“人に寄り添っている”という訳でもない。
陽の光は、良くも悪くも平等に場に注がれていた。
錆び付き朽ち落ちる寸前になっている、もう駅名も読み取れない看板。
かつての堅固さを失い、彼方此方に痛ましいヒビを抱えているコンクリートのホーム。
すっかり薄汚れ、強い雨風が来れば簡単に崩れてしまいそうな、古びた木造の駅舎。
しかし……そんなもう別の意味で陽の目を見ないであろうこの場所にも、列車は辛うじて
残されていた。
とは言っても、それは二両編成のかなりガタが来た旧式の代物。
外装は彼方此方の塗装が剥がれ、そこから露出した金属部分が錆び付いており、全体とし
てこの車両の“老齢さ”を一層に感じさせるかのようだった。
廃墟──いや、放棄されて久しい地方の駅。
仮に誰かがこの場所を訪れたならば、この跡地をそう判断することだろう。
「──……」
それでも、静かに彼はホームに現れた。
すっかり古ぼけ薄くなった紺色の駅員服を身に纏い、深々と帽子を被ってその表情を隠し
ている。まだ年若くも見えるが、格好と周囲の風景からすればもっと壮年だとも取れる。
それは酷く“透明な世界”だったのだろう。
周囲はひたすらに静かな空間だった。周囲はひたすらに生の息遣いがなかった。
それでも陽の光だけは静かに注いでいる。ホームの上に立ち、駅員──車掌が前後とを安
全確認し、誰もいないそこで手信号を振るっている。
「──……! ──ッ!」
いや。ヒトはいた。
車掌が手信号の動作を終えた、それをまるで合図とするように、ボロボロの木製の改札を
通ってとぼとぼと乗客と思しき人々がやって来たのだ。
ある者は小さくあどけない子供。
ある者は歳若い青年や女性。
ある者は物腰柔らかそうな老婆で、またある者はやつれた中年男性。
遠くの空へと残響するように、彼らの足音や声は、放たれてはすぐに霧散するようにして
サァッと遠退いてゆく。
映る世界は酷く透明だった。そして何処かそんないち風景であるが如く、彼らもまた薄ら
とした存在であるかのようにも見えた。
車掌がぞろぞろと歩く彼らを車両の中へと案内する。
朽ちかけたように見える列車。外装がそうであるように、内装もまた相当に年季が入って
いる。だがそれでも、受ける印象は何処か懐かしくて……そして弱々しく、儚い。
一人は、幼い男の子だった。
あどけない笑顔でばたばたと車内を走り回り、やがて座席の一角に辿り着く。
膝立ちでその両の瞳に映していたのは──列車を取り囲む、辺り一面が鈍色の水だった。
ただ湖というには小規模で、川というのは浅過ぎる。
鈍色の水は濁ってこそいたが、目を凝らしさえすれば水面下──古びた枕木が並べられて
いるのがちゃんと確認できる。
──その子供は、全身がずぶ濡れだった。
一人は、疲れ切った様子の中年男性だった。
草臥れた灰色のスーツに千切れたネクタイ。まるで全身が随所で砕けているかのような、
酷く疲弊したよろよろの足運びで、彼は傍らを駆け抜けてゆく幼子に振り向く余裕すらなく
どうっと座席の一角に腰を降ろしていた。
ざわざわと、遠く透明な乗客の雑音が聞こえている。
それらからまるで逃げるように、彼は視線を大きく落とすと、ぶるぶると先程から震え放
しの両掌を──疲弊の皺だらけの掌を見つめる。
「遠くに、行きたい……」
彼はそう、誰にともなく呟いていた。いや、弱々しく懇願していた。
「どうして私は──“まだ居る”んだ?」
一人は、やけに血走った眼をした若い青年だった。
周りには見向きもせずつかつかと車内に踏み入れると、ドスッと握り棒のある座席の端っ
こに陣取って苛々と両脚を揺すっていた。
「お兄さん、何処に行くんだい?」
しかしそんな苛立ちの様子に、気付いていなかったのか。
ふとこの青年に一人の老婆が話し掛けていた。
「……何だよ」
苛と、あからさまに眉を顰めて、彼は彼女を睨み付けていた。
だがそれでも老婆の方は気付いていないのか、或いは意識に見えていないのか、変わらぬ
スローテンポで話を続けている。
「あたしはねぇ、先に待ってるおじいさんに会いに行こうと思っとるんよ~」
「……そうかよ」
ジャケットの両ポケットに手を突っ込み、貧乏揺すり。
青年はもう老婆とは視線も合わさず、只々苛々として忙しくなく視線を泳がせていた。
「それでぇ、お兄さんは何処に行きたいんだい?」
しかし老婆からそんな質問が飛んできた時、彼はキッと彼女を睨み返して答える。
「会いたい奴が、いや……会わなきゃいけない奴がいるんだよ」
しかしその眼は、先程以上に憎悪に血走ったものになっていて。
──青年のジャケットやジーンズは、撒き散らかしたような赤色に染まっていて。
一人は、瞳に力を失った若い女性だった。
元は清楚だったとみえる小奇麗な淡水色のワンピース。しかしそれらは所々で無残に裂け
てしまっており、彼女がふらふらと車内を歩くその一歩一歩につけて、その眼のようにか弱
く静かに揺れている。
「……」
今にも倒れそうな足取り。
それでも何とか、彼女は座席の一つに腰を降ろしていた。
だがぼうっと、力ない瞳で虚空を見つめているさまは変わらない。
──強いて他に観察すべき所を挙げるなら、彼女が無意識に両脚をぎゅっと閉じ、片手を
破れている所為ですっかり緩くなってしまっている胸元に当てていることぐらい。
「……あの」
「? どうかなさいましたか?」
そうしていると、車掌が彼女の前を通りすぎようとし、はたとそのか細い声に呼び止めら
れる。車掌は目深に被った、隠れた表情で彼女に向き直ると、穏やかな──しかしどうにも
平坦な声色で問い返した。
「……ここ、何処だろう? 私、誰?」
相変わらず、彼女の瞳には力はなかった。
それでも訊ねる声色は酷く純粋で──いや、何処かに感情を落としてきたかのようで。
「……大丈夫ですよ。貴女の行き先もちゃんと当便に含まれていますので」
しかし対する車掌は数拍だけ黙り込んだだけで、ややあって口元にフッと微笑を描くと、
そう彼女に返答をする。
やがて、列車にエンジンが点っていた。
ガタガタと古びた機体に動力が満ちてゆく。鈍色の水面に何度となく波紋が刻まれては消
えてゆく。何処か透明な乗客を乗せ、古びた駅から列車が走り出し始める。
サーッと、思いの外列車は静かに水面の上を走っていた。
徐々に機体は、段階的にそのスピードを上げてゆく。
列車独特のモーター音が、内装越し座席越しに、乗客達に伝わっている。
車内は、何処となく不気味なくらいに静か──退廃的な静けさの中で、時折列車の動きに
合わせて揺られていた。
そんな中、ザザッと古めかしいノイズが混じり、この列車のレバーを執る制服姿の運転士
は、それらの操作を片手に車内アナウンスを流す。
『本日は、ご乗車ありがとうございます。この列車は、終点“黄泉ノ口”まで各駅停車を致
します。お出口は運転席後方左側、です──』
(了)