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週刊三題  作者: 長岡壱月
Train-22.January 2014
108/500

(3) 憤書

【お題】本、燃える、役立たず

 ある所に一組の若い夫婦が居た。

 男の名は颯太で、女の名はたえといった。夫は地方の大学で教鞭を取る学者、研究者であり、

妻はそんな夫を支えてきた。

 だが今まさに、この二人は瓦解をきたそうとしている。

 その日二人は──彼女が彼に呼び出される格好で──自宅の書斎で相対し、日頃ぶつけ合

うことすら少なくなった自身の感情を持て余そうとしていた。


「──説明してくれるね?」

 壁一面にずらりと並ぶ本棚の前に立ち、颯太は軽く首を傾げた格好でそう妻に問うた。

 しかしそこに愛嬌というものは感じられない。腕はしっかり組まれ、トントンと静かにリ

ズムを刻んでいるし、何よりその表情はくすりともしない“先生”のそれだ。

 妙は最初、ばつが悪いのか黙っていた。

 何度か俯いた視線の先、床の木目と彼──から逸れた背後の本棚へと眼がうろうろする。

 そこにはいくつか空きがあった。びっちりと詰められていた筈の夫の蔵書。その所々がま

るで虫に食われたようにぽつんぽつんとなくなっているのだ。

「……」

 言いかけて、噤む。

 さて何と弁明すればよいのやら。

 妙には分かっていた。普段から感情を露わにすることの少ない夫だが、怒る時はちゃんと

怒る。……というより“叱って”くるのだ。

 呼び出して、その第一声。既にこれらを自分がやったことは見破られているのだろう。

「大体は、あなたの想像している通りだと思うけど……」

「分かってる。でも僕は、君の口から“何故”を聞きたいんだ」

 だから言わずとも認めてしまえば──そんな引け腰が先ず口に衝いて出る。

 だがそんな彼女の態度を、颯太は許さなかった。声こそ荒げてはいないのだが、間違いな

く怒っている。辛うじてその表情が、本棚の隙間をなぞる時にだけ顰められる。

「どうして、勝手に僕の蔵書を持ち出したんだい?」

 まるでノイズが音量を増すように、胸がざわつくのを感じた。

 妙はぎゅっと目を瞑っていた。

 喋らせる気だ。全部分かっていて、それでも私に。

 瞑ったのに、視える。家にいてもびしりとワイシャツとズボンを着こなし、酷く怜悧な眼

でじっとこちらの返答を待っている彼の姿が。

「……仕方ないじゃない。うちにはお金がないのよ」

 瞑ったままでないと言えなかった。

 相変わらず瞼には夫が佇む姿が焼きつくが、それでも存在をすぐ近くに感じる。

 妙は答えた。ふるふると小さく首を横に振り、何とかこの冷た過ぎる夫の追及から逃れよ

うとした。

「なのにあなたはこんなに本を抱え込んでる。少しぐらい売ったって何ともないでしょう?

だから、足りない時は……それで」

「お金を工面してきた、ということか」

 颯太は自ら言葉を引き継ぎ、やがて静かに嘆息をついた。

 そっと妙は目を開ける。いつの間にか夫はこちらからは背を向け、じっと自身の本棚──

いわばコレクションとでも言うべきそれらを眺めている。

(仕方……ないじゃない……)

 今度は心の中で。妙は呟く。自分自身に免罪符を発行しようとする。

 そもそもに彼がいけないのだ。有能な研究者で将来的には教授就任間違いなしとまで言わ

れたホープだったのに──やっと准教授。

 自分の眼が悪かったのか? いや、違う。彼が浮世離れし過ぎているのだ。

 端的に言うと、彼は出世の類には恐ろしいほど無頓着だった。ただひたすらに自身の研究

に没頭し、そして事実これまでも多くの実績を上げてきている。

 だが恐ろしいほど無頓着なのだ。それ以外、研究──自身の興味以外のものにはまるで眼

を向けようとしない。結果、人付き合いが悪いだの何だのというコミュニケーションの問題

が積み重なり、出世街道から外れてしまった(元々本人にそんな気はなかった訳だが)。

 だから頓着してくれない。

 研究成果で得たものよりも、それ以上に失って──放棄しているものが多過ぎる。その最

たるものであるこの家の収入のことを、結果全部自分が何とかしなければならない──。

「理由は分かった。だけど感心しないな。ここには研究に使っている資料もある。生活費に

換えたいというのならば、一言言ってくれれば──」

「言って、あなたは聞いてくれたの!?」

 だから憤っていた。

 あくまで淡々と語り、説明し、諭そうとしてくる颯太。だから妙は腹立たしかった。

「お金がないの! 足りないの! 分かってないでしょ? 暮らしていくには光熱費も食費

も何も、お金が掛かるの! あなたみたいに好きなことだけやっていればいい人間なんて殆

どいないのよ!?」

 ちらと彼がこちらを見ていた。何も反論しない。解っているのか、それともやはり自分の

世界のことだという認識が無いのか。

 ──自分が馬鹿馬鹿しくなった。何故、私は彼を好きになったのだろう?

 当時から、彼は期待の学生として周囲からの熱視線を受けていた。マイペースなのはあの

頃からだったけど、特にそういったプレッシャーに押し潰されているような感じではなかっ

たように思う。

『僕達が知っていることは、世界全てからすればほんの僅かだ。だけどいつかは到達できる

と信じている。僕は、その蓄積の為に人生を捧げたい』

 夕暮れのゼミ教室でそう珍しく思いを語ってくれた時のことを思い出す。

 茜色に染まって演出されていたからか、それともまだ自分が若かったからなのか。

 気付けば彼に惹かれていた。支えてあげたいと思うようになった。

「……」

 なのに、このざまだ。

 妙は、再びそっと視線を逸らして本棚を撫でている颯太をぼうっと眺めながら思う。

 内なる憎しみが、二重三重に螺旋する。

 一つは、あまりにも無頓着すぎるこの夫への。

 もう一つは、そんな彼に幻想を抱いていたかつての自分に。

 そして何よりも……あの頃からすっかり変わってしまった今の自分自身に。

「生活水準を落とすことは、できないのかい?」

「──ッ」

 だから、余計に苛ついた。口元に手を当て「ふむ……」と思案した後に振り返り、そんな

ことを真顔で言ってくるこの夫にまた苛々した。

「落とせるものは落としてるわ。だけど限度ってものがあるでしょう? ご近所さんや大学

の皆さんへの体面ってものがあるじゃない。あんまりみすぼらしい身なりや生活をする訳に

はいかないでしょう?」

「……僕は別に構わないが。学会に出る時以外はそうめかし込む必要性はないのだし……」

「あなたはよくても私達がよッ!」

 とことん鈍感だった。妙は思わず怒気を含んで叫んでいた。

 やはり無頓着過ぎるのだ。研究にさえ支障が出なければ、如何だっていいと考えている。

そんな姿勢が周囲の「常識」から煙たがられ、出世コースを逸らせたというのに……。

「……。勝手に古本屋に売りに行っていたことは謝るわ。でも、そもそもあなたがもっと普

段からちゃんとしててくれればここまで手を打たなくてもよかったのよ」

 だから素直に謝れなかった。謝るだけなら一方的に損ばかりで癪だった。

 ふむ……。するとまた口元に手を当て颯太は妙をみる。その眼はやはり怜悧──かつては

それがスマートで素敵に見えたのに──で、悪意もなければ容赦もない。

「だがどうなのだろう? 君の使っている化粧品も、グレードを落せばそれなりに資金は浮

くのではないかと思うのだが」

 ぐっ!? と妙は眉間に皺を寄せ、心持ち数歩後退った。

「そ、それは本とはまた違うでしょう? 自分の肌との相性だってあるし、それにこっちは

ちゃんと収入にもなってるんだから……」

「スナックの店員だね。以前にも聞いた。……だが、先程君が言ったような体面を気にする

ならば、あまりお勧めできない職業かもしれない。偏見は、どうしてもあるからね」

「──」

 沸々。ぐらり。

 だから、胸奥で怒りがとぐろを巻いた。ダンッと、妙は一見静かな怒気を孕みながら数歩

彼の方へと進み出ていく。

「先方の都合もあるだろう。すぐにとは言わないが、僕も大学に相談してみよう。確か事務

局は人手が不足気味だと──」

「余計なお世話よッ!」

 ズガンッと、妙は記憶を思い出すように目を細めている颯太のすぐ横で、その本棚に拳を

突っ込むと力任せに腕を振るった。

 当然、そこに収められていた蔵書は弾かれて飛び出す。ばらばらと頁を荒ぶらせて床の上

に落ちる。颯太が不意に言葉を途切れさせられ、目を丸くしている。

「誰の為にまた働き出したと思ってるの? あなたの所為でしょうが! あなたがその大層

な肩書きの割りに稼いでこないから──こうやって本ばっかり無駄に高いものばっかり取り

寄せてくるから赤字になるんじゃない!」

 爆発する感情。彼女は叫びながらも尚、本棚を荒らす。

 右腕左腕、両方を使って掻き出すように蔵書の山を握ると、力任せに投げ棄てる。

 夫が何やら言っている。だが構うもんか……。

 妙のその身体は、もう情動が主導権を握ってしまっていた。

「止めるんだ! 此処には貴重な文献だって──」

「ならさっさと先に差し出しなさいよっ! 二束三文じゃ足りなかったんだからっ!」

 そう言うが妙には専門書の貴賎など分かる筈もない。片や専門の道を進み続けた者、片や

特に熱心になった訳でもなく、その男にプロポーズをさせて学者夫人に収まっていた者。

 彼女は泣いていた。いつの間にか自分でも意図せず、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。

 慌てて颯太はこの妻の強行を止めに掛かった。それでも痩せぎすの身体ではエネルギーを

迸らせる女性一人止められず、突き飛ばされ、その間際に彼女の頬を伝うそれを目撃するし

かない。

「何でよぉ……もっと幸せな暮らしが出来る筈じゃなかったの……? あれだけ天才って言

われて持ち上げられたのに、何でこんな思いをしなくちゃいけないのよぉ……」

 そうして、何度目かに払った腕を最後に、妙はその場に座り込んでしまった。えぐっと嗚

咽を隠すこともできず、悔しさでどんどん泣き腫らす。

 颯太はただ呆然として──それでも表情は相変わらず淡々としているようにみえて──そ

の後ろに立ち尽くしていた。

 妙は肩を震わせる。自分の中でのた打ち回る感情と戦うことで精一杯になっていた。

 本の瓦礫が出来上がっていた。他ならぬ自分がやらかしたことだ。

 中には落とされた衝撃で表紙が折れたり、途中から敗れてしまったものも少なくない。

 愛し、結婚までした人の蒐集品。その研究の為に傍らに置かれたもの達。

 なのに、憎い。

 結局、未だに彼の考えていることはよく分からず、彼の傍らにいるのはじぶんでは

なくこの紙とインクの塊なんだと思うと──悔しくて悔しくて。

「……?」

 そんな時だった。ふと妙の俯き、涙で霞んだ視界の端に、周りとは毛色の違う代物がある

のに気付いた。

 ゆらっと指先を伸ばす。引き寄せてみたそれは……古びた一冊の手帳だった。

(あ……)

 キィンと耳鳴りがするように、妙の中の記憶が蘇ってくる。

 それは彼のスケジュール帳だった。かつてまだ自分達が付き合っている頃、大学の講義も

二人のデートも、同じようにメモしては見せ合って笑った、あの頃の……。

(私と……颯太……)

 そこからはみ出している厚紙を、ついっと引き出してみる。写真だった。

 今の自分達よりも若い。あの頃の自分達と、友人達。色んな時、色んな場所、色んな思い

出の瞬間を写して閉じ込めた写真たち。

 その中の彼は相変わらず淡々とした表情かおだけど、そのすぐ横で私は満面の笑みを浮かべて

いる──。

「……」

 だが次の瞬間、それをひょいっと奪い取られた。他ならぬ颯太だった。

 あっ、小さい声を上げて妙は振り返る。そして驚くべき光景を目の当たりにした。

 哀しんでいた。あの颯太かれが、確かに明確に喜怒哀楽をみせている訳ではないけれども、全身

に哀しみを漂わせていたのだ。

「……そうだったのか」

 しかし、彼はごちたのだ。彼女があの頃の思い出に束の間浸っていたその間に、彼は彼女

自身が今し方吐き出した言葉を重く重く受け止めていたのだった。

「やっぱり……僕に人を愛するなんて、無理だったんだな」

「えっ?」

 妙が短く驚きの声を上げる。

 そんなことは。いや、もしかしてその言い方は──。

「すまない。僕の所為で、君のじかんをそんなにも縛っていたなんて」

 握られていたのは古びたスケジュール帳だった。かつては二人が時間を共有した、思い出

の品である筈だった。

 だが、齟齬は少しずつ明らかになり始める。

 たえはただ思い出していた。苦にならず傍らにいた日々があったことを。もう大分前になる

筈のそれを、大事に取ってくれていた──のかもしれないという目の前の事実と併せて。

 そうたはただ悔いていた。物の道理は解っても、人の道理こころまでは中々理解できないこの欠落者

の自分が、所詮伴侶など求めるべきではなかったのだということを。

「ちょっ──!?」

 そして刹那、妙は自分の目を疑った。酷く狼狽した。

 点けたからだ。手帳をじっと手に取って何をしていたかと思えば、彼が胸ポケットに入れ

ていたライターを取り出すと、いきなりこの思い出に火を点けたからである。

「な、何を」

「本当にすまなかった。でも僕らはまだ三十代。やり直しは……効く筈だ」

 当然ながら、あっと言う間に燃えて灰になるスケジュール帳。

 それを息で吹き消し、床に落としてすぐに上着で包んで揉み消し灰にしてしまうと、

「ま、待って、颯」

「──別れよう」

 彼は、自身の過ちを悔いる暇もない彼女に向かって、言う。

                                      (了)

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