五
闇の中、女の悲鳴が響いた。茫然と炎を見つめる瞳が、いましめが解けた孝仁が桜から身を放すのを目ざとく捉えた。
「……お前か」
低く、地を這うような声を絞り出す。
孝仁が避ける間も、紅姫が駆け付ける間すらなかった。
衣の重さも感じないような素早さで女は孝仁にとびかかり、その身体ごと燃え盛る幹に押しつけると細い指で首を絞める。
「孝仁から離れよ!」
「だめだ、紅姫」
髑髏を掲げた紅姫は主の制止にまなじりを吊り上げた。
「桜を、わたくしの桜をよくも!」
華奢な体つきからは想像もできないほどの力はもはや人のものではない。怒りに染まった顔は美しくも鬼女のようであった。
「あなたは、どうしてこんなことをするんですか」
熱さと息苦しさと、首に食い込んだ爪の痛みに顔をしかめて孝仁は女の腕を掴み、切れ切れに言葉を紡ぐ。
「あなたはもう、死んでいるのに。それなのに、なぜ、こんなものに囚われているんですか」
「うるさい。咲かせ続けなきゃいけないのよ。それなのに!」
炎を羽織った花弁が無数に舞い、美しい着物を焦がしても、女はもはやそれにかまう余裕すらないようで、黒髪を振り乱して絶叫する。
孝仁の意識が途切れそうになったとき、ふいに女の力が緩んだ。夢中で相手を突き飛ばし大きく息を吸うと、うまく呼吸ができずに激しくせき込んでくずおれる。
駆け寄った紅姫は孝仁を燃え盛る桜から引き離した。
「い、いったい、何が……?」
「わからぬ。そなたがなにか仕掛けたのかと思ったが」
孝仁は答える代りに首を振った。このまま何もせず絞め殺されるくらいならと思いはしたが、それを行動に移す前に解放されたのだ。呼吸を整えて女を見れば、うずくまってぽろぽろと涙をこぼしていた。黒光りするものを大事そうに拾い上げるのを見て目をしばたたく。
「櫛……?」
小五郎天狗からもらった螺鈿の櫛であった。懐に入れてずっと持ち歩いていたのだが、なにかの拍子に落ちたらしい。
うわごとのように何かつぶやき続ける女の着物は桜襲から単へ変わり、同時にむせかえるような妖艶な香りもすっかり消えていた。
呼吸を整え女のそばに片膝をつくと、孝仁は柔らかな口調でたずねた。
「あなたの名前を教えていただけますか」
見上げてくる顔は天女のものではなく、化粧気がなくあどけなさが残る娘のものだった。泣き濡れた顔でしばし孝仁を見つめたあと、震える唇を動かした。
「わたくしは、参議の大臣の大君、桜子様づきの女房で若狭と申します」
「女房殿が、どうしてこんなところにいらっしゃるのですか」
孝仁の言葉に若狭はふと視線を落とし、そっと手の中の櫛を撫でた。
「桜子様をお守りするためです」
そう言って遠い幻を見ているかのように視線を彷徨わせた。
「幼いころからお身体が弱く病弱でらした桜子様。ずっとお傍にいると約束したのに、病を得たためにそれすらできずにはかなくなって……」
まばたきをするたびにこぼれ落ちる涙をぬぐうことも忘れたように、若狭はぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。
「それでもお傍を離れがたく、お屋敷のこの桜を標にこれまでとどまっておりました」
「どうして桜の木だったんですか?」
「桜子様はご自分と同じ名前のこの木をとても大切にされていました。春になり、花が咲くのを毎年心待ちにされて、散るころには悲しみに暮れて。だからずっと咲き続ければきっとお喜びになると、そう思ったのです」
そこで一度言葉を切り、悲しげに嘆息した。
「わたくし一人の力では咲かせ続けることができなかったのですわ」
「それで都の公達を誘い込んだのですね」
唇を噛み嗚咽をこらえて若狭は頷いた。
「いけないことだとはわかっていたのです。けれど、どうしても桜子様の笑顔を見たかった。こらえきれなかったのです!」
でも、といとおしそうに櫛を撫で、
「もういいのです。桜子様の御心をいただきましたから」
燃えてしまった桜の代わりに、とほほ笑んだ。
「この櫛は、かつて桜子様が大切にされていたものです。だからもう、いいのです」
若狭はすっと立ち上がると孝仁に深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。橘の少将にも、あなた様にも」
上げたときにはもう泣き腫らした顔ではなかった。
名残惜しそうに一度桜を振り返った彼女を孝仁は眩しそうに目を細めて居住まいを正した。
「お送りします」
「ありがとう」
両手を合わせ真言を唱える孝仁の声が低く伸びると、若狭の姿がゆるゆると消えていき、さあっと風が抜けた。
「逝ったか」
様子を見守っていた紅姫に頷いて見せると、安堵したように肩の力を抜いてぐるりを見回した。どうやら都に戻れたらしいのだが、
「ところでここはどのあたりでしょう?」
月明かりの中、見覚えのない景色に首を捻る。行きの経路の通りであれば右京のどこかだと思うのだが。
「さてな。誰ぞ捕まえて聞いてみるか。……いや、その必要はなさそうだの」
急に不機嫌そうにつぶやいた紅姫は右手の方角に視線を向けた。
一拍のち、突風とともに甲高い声が降ってきた。
「そなたらいつまでほっつき歩いているつもりだ!」
ばさりと翼を打ち広げ、仙太は空中で仁王立ちをしていた。
それを一瞥して紅姫は無言で狐の姿に戻ると孝仁の肩に跳び乗った。
「すみません、上から仕事を言い渡されまして」
「それならそれで、知らせをよこすとかあるだろう。皆心配していたのだぞ」
肩を怒らせる仙太に孝仁はすみません、ともう一度謝った。
「次からは知らせを入れます」
「うむ。わかればよい」
「孝仁が謝る必要などどこにもない。そもそもあの鳥頭が人前に姿を現したゆえにこうなったのだ」
「なんじゃと!」
孝仁の肩の上から紅姫が言えば仙太が声を荒げる。そうして繰り広げられるであろう口喧嘩にうんざりしながら孝仁はどうしたものかと嘆息した。