三
翌朝、出仕した孝仁は同僚から気になるうわさを耳にした。
「橘の少将が物の怪に襲われたらしいぞ」
と一人が言えば、
「その話なら聞いているぞ。身の丈六尺のたいそう大きな鬼だったそうな」
「わたしは怪鳥と聞いたぞ」
「童子の姿が突然変じたとか」
「酒を奪っていったんだと」
「気が付いたら屋敷にいたとか」
口々に己が聞いた噂を交換しあう。
その中になんとなく心当たりがあるような話が交じっている噂に孝仁はひきつり笑いを浮かべて曖昧に頷いた。
「それにしても皆詳しいですね」
「今朝がた上の方に祓除の依頼がきたからな」
そこで誰に回ってくるかを予想しあっていたというからのん気なものである。
「で、大本命は孝仁殿ではないかと大方の予想だ」
ぽん、と肩を叩かれて孝仁は面食らった。
「な、なんで僕なんですか」
根拠はと聞けば、同僚の一人がさわやかな笑顔を向けた。
「こう見えて夜は皆忙しいからな」
ちょうど始業の鐘が鳴ったのを幸いにと、同僚たちは愕然とする孝仁から視線を外しながら激励の言葉を送り各々の机に座った。
案の定、終業間際に上司から呼びつけられ話を振られた孝仁は、朱雀門を抜けたところで遠い目をしてしばし立ち尽くした。さきに呼ばれた幾人かがこぞって孝仁を推薦したと聞けば面倒事を押しつけられた気分になっても仕方ないことと言える。
「顔色がすぐれぬがいかがした」
声のする方を見れば、珍しく隠形することなく紅姫が赤い瞳をこちらに向けている。気遣わしげなその視線に孝仁は目を細めた。
「なんでもありません。ちょっと寄るところができまして」
「ふうん」
気のない返事をした紅姫はそれきり言葉を発することなく孝仁の後ろをついていく。しばらくの間つかず離れず歩いていると、ふいに行く手に先回りをした紅姫が口を開いた。
「そなたどこへ行く気だ?」
「橘の右近少将のお屋敷ですよ。寮に依頼が届きまして、上からの指示で行くだけですが」
それがどうかしたのかと孝仁が聞けば、紅姫は鼻の頭にしわを寄せて何か考えているような仕草をした。
「……覚えておるか、長雨の前、花のにおいがしたとそなたが言ったこと」
「ええ。忘れてはいません」
「あの時、そなたが追えと言った貴族がその近衛少将だ」
孝仁は目を見張り、苦笑を浮かべた。
「それはまた、すごい偶然ですね」
ちょうどいいからそちらも少し調べてみましょうと告げると、紅姫は無言で頷いた。
四条にある少将の屋敷の門をくぐった孝仁はむせかえるほどに濃い香りに顔をゆがめた。
「孝仁、いかがした」
気配を消した紅姫がそっと声をかけてくるが、わずかに首を振ってこたえる。
出迎えた女房が不思議そうな視線を向けていることに気付き、用向きを伝えると少将に目通りを乞う。陰陽寮からの正式な遣いであるためかすんなりと案内されるのだが、息苦しさを覚えるほどの香につい足取りが重くなる。
「匂うのか?」
小さく聞いてくる紅姫に頷いて、
「匂わないんですか?」
「まったく」
なんて羨ましいと孝仁は思った。たとえ元が花の香であっても、限度がある。頭がしびれてくるほどの濃さは暴力にも似て、しかも奥に進むにつれて匂いは強くなる一方であった。
紅姫と同じく匂いに気付かないのか、もしくは慣れているだけなのか、案内の女房は平然と渡殿を進み、母屋の一角、几帳で仕切られた先を孝仁に示す。
庇に座ってかしこまると中へと声がかけられた。そろそろと母屋に入れば狩衣姿の青年が脇息にもたれていた。整った顔立ちは頬がこけ青ざめて見る影もないが、それ以上に孝仁が不思議に思ったのは纏った狩衣の色目。この夏の盛りに藤の重ねとはかなり季節外れである。
陰陽師殿、と声をかけられて我に返り慌てて頭を下げる。
「失礼いたしました」
集中して柏手を打ち、神呪を唱え始める。しばらくすると充満していた匂いが少しずつ薄れていくのが感じられた。
「さすがに陰陽寮の方だ。ずいぶんと楽になった」
どこかほっとした様子で少将は口元を緩めた。
それをみとめて孝仁は何気なしに口を開く。
「少将殿は怪異に遭われたと伺いましたが」
「ああ。六条のあたりで鴉がいきなり大男になって、酒を出さねば殺すと脅されたのだ。思い出すだに恐ろしい」
ぶるりと身震いをして閉じた扇をあごに当てた。その表情から鑑みるに本当に恐ろしかったに違いない。
「しかしこれで物の怪も退散しますでしょう。どうぞお心安らかに」
表情を引き締めて平伏した視界の端で少将が頷くのが見えた。