二
長雨があがり、ようやく夏が訪れようとしていたある日、帰宅した孝仁を迎えたのは予想だにしていない人物であった。
細面の整った顔立ち、腰まで伸びた黒髪を緩く束ね、簀子に片膝を立てて座っていた。
「遅かったね」
紅を塗ったように赤い唇に笑みを浮かべてくつろぐ姿は、まるでこの屋敷の主のようである。
「ご無沙汰しております。小五郎様におかれては、お元気そうでなにより……」
しばし立ち尽くし、その後慌てて頭を下げる孝仁を片手で制して、
「うん。鮎がたくさん獲れたから持ってきたんだ」
今焼いてもらっているからまあ座りなよ、と自らの隣を示す。
なりこそ人ではあるが、相手は山をひとつあずかるほど高位の天狗である。人間である孝仁に否やと言えるはずもなく、おとなしく腰を下ろす。
ほどなく、焼けた鮎を載せた皿を千寿が運んできた。彼女も一見ただの女房に見えるが、よく見れば額のはえ際に親指の先ほどの角が生えている。だがそれは片方だけで、もう一方は折れたように小さなこぶのようになっている。
「孝仁、帰っておったのか」
「はい。つい先ほど」
と答えると、千寿はわずかに眉をひそめ嘆息した。
「いましがた仙太を遣いに出したのじゃ。せっかく小五郎様にお出でいただいたのに酒もないでは済まされぬ。そなたに買うてきてもらおうと思ったのに」
どうやら入れ違いになってしまったようである。
「僕は別に気にしなくていいって言っているんだけど」
焦げ目のおいしそうな鮎をつまみあげて小五郎天狗は苦笑を浮かべた。
「そういうわけにはいきませぬ」
「まったく、難儀だなぁ」
大きくため息を吐いて小五郎天狗は鮎の腹にかぶりついた。とたんに相好を崩す。
「うん、旨い。孝仁も食べなよ」
差しだされた鮎を押し頂いて、孝仁はそれを口に持っていく。ぱりっとした皮の焼き目とその下の身のふんわりとした食感、特有の香りが口の中で一体となり何とも言えぬ美味である。
「やっぱり鮎はこの時期が一番だね」
小五郎天狗は食べる手を止めずにしきりに頷いていたが、ふと何か思いついたように千寿に瓶子に水を入れてきてほしいと頼んだ。
言われたとおりに千寿が水を入れた瓶子と盃を二つ、盆に載せてくると、小五郎天狗は瓶子を持ち上げ軽く揺すった。そうして盃に白く濁った液体を注ぎ、片方を孝仁に勧める。
「さっきは気にするなって言ったけど、やっぱり酒が欲しくなるね」
軽く肩をすくめて盃を飲み干した。
つられるように孝仁も盃を持ち上げる。口に近づけると甘い芳香が立ち上り、それがただの水ではないことを主張している。一口含めばするりと喉を滑り落ちていき、甘い余韻だけが残った。
しばらく余韻にひたるように目を閉じる孝仁とは逆に、小五郎天狗は盃を重ねていく。
「ところで小五郎様、今日は何用でいらしたのですか?」
ちょうど瓶子が空いて千寿が奥に引っ込んだ頃合いを見計らって孝仁は尋ねた。
小五郎天狗はちょっと目を細めると、
「突然だなあ。弟子の様子を見に来ただけだよ」
「その割にはあっさり仙太を使いに出されたようですが」
「人聞きの悪い」
くっと喉の奥で笑ってから、懐から取り出したものを孝仁の膝に放り投げた。
手にとって見れば螺鈿が施された掌ほどの櫛であった。ところどころ漆がはげているのところを見ると古いものらしい。
「この櫛がなにか?」
「拾ったんだけど使い道がないからね、あげる」
にやにやと笑いながら言われると何か裏がありそうで孝仁は知らず眉を寄せた。
「この櫛をどうすればいいのですか?」
「好きに使えばいいよ」
戻ってきた千寿から瓶子を受け取って、先ほどと同じように揺すり水を酒に返事させると盃に注ぐ。
「女性に贈るとかね」
いよいよ孝仁は困った顔をした。
「さすがにそれは問題があるかと」
「そうかな?」
と小五郎天狗が首をかしげた、そのとき。
「孝仁、このたわけ者!」
甲高い子供の声が耳をつんざくと同時に突風が巻き起こった。
風を従えて舞い降りてきたのは翼を背負った山伏姿の子供であった。大きな瞳を怒りに染めているものの、その形とわずかに上を向いた鼻がやんちゃ盛りの童子そのものであまり威圧感を感じない。
「おかえりなさい、仙太。ご足労かけてすみませんでした」
ひと抱えほどの甕を両手で持ちながら肩を怒らせる子供の様子に頓着することもなく、孝仁は言った。
その隣で小五郎天狗が面白そうに成り行きを眺めながら手酌で酒を飲んでいるのを見て童子はかっと目を見開いた。
「おぬしは何をのんきに言うとるかーっ!」
叫ぶと同時に背中の翼がばっさばっさと羽ばたき、あおられた風で庭の草が地面にはいつくばるようになびく。
「小五郎様が呑んでおられるというのに酌をせぬとは無礼にもほどがあろう!」
そこに直れ、その根性たたき直してやるとまくしたてる仙太に向かって、小五郎天狗は穏やかに声をかけた。
「ところで、その甕はどうしたんだい?」
見たところ酒のようだが、と問えば、先ほどまでの剣幕など嘘のように畏まって、
「は、譲っていただいたのです」
なんでも、遣いにでたものの孝仁に会えず、どうにか酒を調達できぬものかと頭をひねっていたところに牛車が通りかかったという。しかも折よく酒を積んでいるらしくわずかに香りがする。
これは好都合とばかりに仙太は牛車の行く手に人型で降り立つと酒を譲ってほしいと頼んだ。
「なかなかに気のいい人間で、快く譲っていただけました」
それなりの重さがあるだろうに軽々と持ち上げると、それを小五郎天狗のすぐそばに置いた。蓋を開けるとくんと甘い香りが漂う。
「ぜひ、小五郎様に献上したくぞんじます」
子供の形に似合わず畏まったかと思うと、
「まったく、すくうものがないと注げぬではないか。ほれ、早う杓を持ってまいれ」
急に態度を大きくして千寿に指図する。あきれ顔の千寿から杓を受け取ると甕に差しいれ、大事そうに中身をすくった。
「ささ、まずは一献」
こぼさないように慎重に盃に注ぐ。
それを一息に飲み干すと、小五郎天狗は満足そうに笑みを浮かべた。
「うん、美味しいよ」
その一言で仙太は目を輝かせた。興奮したせいか、またしても翼をはばたかせている。
単純だなあと二匹目の鮎に噛り付いた孝仁は突きつけられた杓に顔をこわばらせた。
「孝仁、おぬしも食うてばかりおらずにほれ、ご相伴にあずかるといい」
「……ありがとうございます」
あまり酒に強い方ではない孝仁には正直ありがたくはなかったが、せっかくの上機嫌に水を差すのも悪いと思い、礼を言って杓を受け、一口含む。
とろりとした舌触りは上質なもので、ふわりと鼻を抜ける香りは甘く儚くそれでいて後をひくが同時に軽いめまいのようなものを感じる。
「小五郎様、酒はまだ存分にございますぞ」
「うん、ありがとう」
底なしの天狗二人が仲良く酌み交わしているのを横目に、孝仁は鮎を齧りながら櫛に視線を落とした。ただの古ぼけた櫛に見えるのだが、小五郎天狗がわざわざ山を下りて持ってきたものである。何かしら曰くつきに違いないが、なんら思い当たる節もない。
「こら、孝仁。何をしかめつらしい顔をしておるか。ほれ、呑まぬか」
すっかり出来上がった仙太は、盃では足らぬと椀になみなみと酒を注ぐと孝仁に押しつけた。
一種の暴力かと思うほどむっとする芳香に顔をひきつらせて、孝仁は今夜は寝れないかもしれないと覚悟を決め、一息にあおった。