一
吹き抜ける風がじっとりと肌にまとわりつく。
見上げた空には雲ひとつ浮かんでいないのに、今にも雨が降りそうなほど空気が重い。雨さえ降れば多少は涼しくなるだろうに、晴れ続きで蒸された湿気はよけいに暑さを増長させる。
ふう、と息を吐いて藤原孝仁は滲んでくる汗を拭った。帰ったら水浴びでもしようかなどと考えながら朱雀門を抜けたところで足を止めた。
長雨も間近のこの時期に似つかわしくない濃密な花の香りが鼻を刺激した。
焚きしめた香なのではないその匂いに孝仁はあたりを見回すが、退出する貴族たちの牛車がまばらにいるばかりである。
気のせいかと思いなおし再び歩き出そうとしたとき、先ほどよりも強くはっきりと感じた。
ちょうど朱雀門を一台の牛車が抜け出てきたところであり、匂いはそこから漂ってくるようだった。
「孝仁、いかがした」
縫いとめられたように身動きもせずに牛車を見送っていると誰もいないはずの背後から声がかけられるが、孝仁はそれに疑問を持つことなく押し殺した声で懇願した。
「紅姫、今の牛車を追ってください」
「それはかまわぬが、いかがした」
「あとで話しますから、今はお願いします」
「承知した」
言い終わると同時に小さくつむじ風が巻き起こる。
常人には捉える事の出来ない純白の毛並みが牛車の後をかけていくのを確認して、孝仁は今度こそ歩きだした。
日が沈みきったころ、孝仁の屋敷に白い狐が現れた。
「おかえりなさい、紅姫。どうもすみませんでした」
簀子で出迎えた孝仁がそうねぎらうと、狐は瞬き一つで少女の姿に変じた。そうして無言のまま白い腕をすっと伸ばす。
その手に水の入った椀を渡してやると、少女はためらうことなく一気に中身を乾した。
「何かわかりましたか?」
早速聞いてくる孝仁に、紅姫は赤い瞳を向けた。
「あれは近衛少将、藤原為茂の車だ」
近衛少将、と孝仁は口の中で反すうして、
「他にわかったことは?」
「とくになにが、あの男がどうかしたのか」
問われて孝仁はそっと目を伏せた。どうかした、というほどではないのだが。
「いえ。……ただ、花の香りがしたので少し気になったんです」
その言葉に紅姫はわずかに眉をひそめた。
「なにか気になることでもありましたか?」
「いや。屋敷の中もざっとまわったが、花のにおいなどちっともせなんだ」
「そうですか」
肩を落とした孝仁に向かって、
「気になるのであれば占でもしてみるがいい。もしくは誰ぞ知り合いにでも聞いてみろ。なんぞわかるかもしれぬ」
「そう、ですね。考えておきます」
なんとなく腑に落ちない表情で曖昧に頷いた。