序
参議の屋敷の庭は春そのものである。
手入れをされた庭に桜の木が配置され、さらにその下に山吹が植えられており、黄色と薄紅の鮮やかな色彩が客達を驚かす。そのほかにも春の花々が数多く集められていた。
その庭で花見の宴が開かれるのは例年のことで、貴族の中にはそれをたのしみにしている者も少なくない。
夜空には円い月が浮かび、さらにかがり火が焚かれ庭を明るく照らしている。
春の夜風はまだ冷たく、ほろ酔いの公達は酔い覚ましがてらに庭を散策していた。華奢な枝が隠れるほどに花を付けた桜を見上げながら歩いていたせいか、宴の場から離れていたらしい。人の気配が少なくなってしまった。
さすがにあまり奥まで入るのは気が引けて引き返すために踵を返したとき、視界の隅でふわりとなにかが揺れた。視線を巡らせば、月夜に白い花弁が一片、二片と舞っている。
はて、庭の桜はまだ散るほどではないはずだがと首を傾げ、花弁が流れてくる方へふらふらと足を運ぶ。
つかの間月が雲間に隠れたのか視界が闇に覆われ、ふたたび月が出たとき、
「なんと……」
思わず息を呑む光景が目の前にあった。
手を伸ばせば届きそうな高さに花をつけた細い枝が重そうに揺れている。白銀の光の下、ぼうっと浮かび上がるその姿は圧倒されるほどの存在感を放ちながら、風もないのにその花弁がはらはらと散る様はいかにも儚げだ。
「誰かいるの?」
まばたきをするのを忘れて見とれていると背中に声がかけられた。
ぎくりと肩を震わせ、おそるおそる振り返った先の御簾に人影が見えた。
「そこにいるのは誰?」
もう一度声がかかり、御簾が揺れたと思うと人影がすべり出てきた。同時に微かな風に乗って桜に似た雅な香が鼻腔をくすぐる。月の光を弾く艶やかな黒髪、卵型の白い顔の中、すっとした一重の瞳や紅い唇がなぜか薄闇の中でもはっきりと見えた。
「ねえ、誰なの?」
訊ねる声にわずかに不安が混じりはじめたのに気付いて彼は慌てて声を上げた。
「花見の宴にお招きいただいた藤原為茂と申します。花に誘われて迷い込んでしまいました。姫君の寝所とは知らず失礼をしました」
「お客様でしたのね。ここは屋敷の外れでめったなことでは人が足を踏み入れることのない場所ですわ」
くすりと笑みをもらし、話すその声はいつまでも聞いていたくなるほど耳に心地よい。しかしあまり長居はできなかった。宴の席を離れてずいぶん経つのだ。
辞して戻ろうとした為茂の背に向かって姫君は、
「どうかもう少しだけお話を聞かせてください」
天女のごとき美貌に微笑みを浮かべ鈴の音の声で引き留められて、為茂は抗うことができなかった。誘われるままに対の屋に上がり、ねだられるまま様々に話をした。
「どうかまたいらしてください。お待ちしております」
東の空が白みはじめた頃に慌しく帰り支度をする為茂へ艶やかな表情を向けた。