氷河期世代は十字架を降りたい
その日、会社の給湯室に天使がいた。
羽がある。
輪っかもある。
だが、手にはクリップボードを持っていた。
「田村健一さんですね」
「違います、と言ったら帰りますか」
「帰りません」
「じゃあ田村です」
天使は事務的にうなずいた。
「あなたは本日付で、世代の罪を背負う者に任命されました」
「嫌です」
「即答ですね」
「即答しますよ。仕事中ですよ」
「こちら、任命書です」
天使は紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
氷河期世代代表贖罪担当者 任命通知
「待ってください」
「はい」
「私はバブルしてません」
「存じております」
「ジュリアナも行ってません」
「存じております」
「土地も株も転がしてません」
「存じております」
「じゃあなんで私が」
「世代調整の都合です」
「最悪の行政みたいなこと言うな」
私は通知書を見た。
背負う罪の一覧があった。
バブル崩壊後の雇用調整。
新卒採用抑制。
非正規雇用拡大。
自己責任論。
少子化。
年金不安。
介護負担。
人手不足。
若者への配慮不足。
ハラスメント加害予備軍。
「多い」
「代表ですので」
「代表にした覚えがない」
「世代とは、そういうものです」
「嫌な言葉ですね」
天使はクリップボードをめくった。
「あなた方は、上の世代から『我慢しろ』と言われました」
「言われましたね」
「そして下の世代には『配慮しろ』と言われる立場になりました」
「なりましたね」
「つまり、十字架です」
「雑に神学を使うな」
天使は真顔だった。
「罪を犯した者ではない。だが罪の結果を背負う。かなり近い構造です」
「キリストに怒られろ」
「怒られるのは人類の方です」
「強いこと言う」
私は通知書を机に置いた。
「そもそも契約してません」
「はい?」
「私がバブルの罪を背負います、という契約書に署名してません」
「社会構造上の負担です」
「便利な言葉ですね」
私は通知書の末尾を指差した。
「ここ。署名欄がありません」
「任命通知ですから」
「契約ではない」
「そうです」
「じゃあ拒否します」
「拒否権はありません」
「王政か」
天使は少し困った顔をした。
「みなさん、そう言われます」
「そりゃ言うでしょう」
「ですが、誰かが背負わなければなりません」
「それ、背負わせる側の理屈ですよね」
給湯室のポットが鳴った。
私は紙コップにお湯を入れた。
インスタントコーヒーを混ぜる。
「私は救世主ではありません。ただの中年会社員です」
「ですが、あなたは氷河期世代です」
「それは属性です」
「はい」
「属性で役割を固定するな」
天使は黙った。
「私は困ったことがあります。損もしました。割を食った自覚もあります。でも、それを理由に、他の誰かの罪まで背負う契約をした覚えはありません」
「しかし、社会は」
「主語が大きい」
天使が少しだけ身を引いた。
「誰が、何を、どこまで、いつまで、私に背負わせるんですか」
「……」
「終了条件は?」
「終了条件」
「はい。どこまで背負えば終わりですか。年金ですか。少子化ですか。若者のメンタルですか。上司として怒らないことですか。親の介護ですか。人手不足の穴埋めですか」
天使はクリップボードを見た。
「記載がありません」
「でしょうね」
私はコーヒーを飲んだ。
薄かった。
人生みたいだった。
「背負うのは、まだわかります」
「わかるのですか」
「現実として、背負わされることはあります。親の介護も、税も、職場の中間管理も、若手への配慮も。逃げられないものはある」
「では」
「でも、それを美談にするな」
天使は黙った。
「勝手に十字架を置いて、勝手に背負わせて、あとから『あなたはよく耐えています』と言うな」
「……」
「耐えることと、納得することは違います」
天使は、初めてクリップボードを下げた。
「田村さん」
「はい」
「では、あなたはどうしたいのですか」
私は少し考えた。
若い頃、面接で何度も落ちた。
正社員になれなかった友人がいた。
結婚を諦めた友人がいた。
親の介護で消えていった同級生がいた。
それでも、誰かが悪いと叫び続ける元気もなかった。
気がつけば中年になっていた。
上には逃げ切った人がいる。
下には守られるべき若者がいる。
真ん中に、私たちがいる。
「十字架を降りたいですね」
私は言った。
「逃げたいのではありません」
「では?」
「背負うものと、背負わされている物語を分けたい」
天使は少し目を細めた。
「私はバブルの罪を犯していません」
「はい」
「でも、バブル崩壊後の負担は受けました」
「はい」
「私は少子化を望んでいません」
「はい」
「でも、少子化の時代を生きています」
「はい」
「私は若者を壊したいわけではありません」
「はい」
「でも、若者に怒鳴れない時代の管理職になりました」
「はい」
「なら、せめて言わせてください」
私は通知書を天使に返した。
「罪ではなく、負担と書け」
天使は通知書を見た。
「罪ではなく、負担」
「そうです。罪なら贖罪になる。負担なら設計の話になる」
「設計」
「誰が、何を、どこまで背負うのか。どこで終わるのか。どう分けるのか。どう軽くするのか」
天使は小さく息を吐いた。
「神学行政部には、嫌われる提案ですね」
「でしょうね」
「ですが、正しいかもしれません」
「キリストにもそう伝えてください」
「怒られます」
「人類が?」
「主に神学行政部が」
天使は通知書に赤ペンで何かを書き込んだ。
件名が変わった。
氷河期世代代表負担整理担当者 任命通知
「悪化してませんか」
「贖罪ではなくなりました」
「担当者にはされたままなんですね」
「世代調整の都合です」
「最悪の行政」
天使は少しだけ笑った。
「田村さん」
「はい」
「十字架は降りられないかもしれません」
「でしょうね」
「ですが、十字架に貼られたラベルは剥がせるかもしれません」
私は通知書を受け取った。
軽くはなかった。
だが、少しだけマシだった。
罪ではない。
負担だ。
贖罪ではない。
整理だ。
救世主ではない。
ただの中年会社員だ。
給湯室の外では、若手社員が電話で謝っていた。
その声は少し震えていた。
私は一度だけ深呼吸した。
怒鳴らない。
背負いすぎない。
でも、放り出さない。
それくらいなら、できるかもしれない。
天使は給湯室の窓から帰ろうとした。
「出口、そっちじゃないですよ」
「天使なので」
「便利ですね」
「属性です」
「属性で逃げるな」
天使は少し笑って、光の中に消えた。
机の上には通知書が残った。
私はその紙を見て、小さくつぶやいた。
「バブルしてないんだよなあ」
誰も返事をしなかった。
それでよかった。




