第5話 ポニーテールとエプロン
「戻りましたっ!」
綾音さんは一度家を出て行った後、大きなレジ袋を持って帰ってきた。車の中に置いていた荷物を取ってきたらしい。
「その袋、何が入ってるんですか」
「まあまあ、お楽しみにしていてくださいっ。お台所、借りていいですかっ?」
荷物を置きながら、綾音さんが横を向いた。その視線の先には、古い流しとこれまた古いコンロが据え付けられた台所。調理器具は一式揃ってはいるものの、あまり使うことはない。
「ええ、もちろんですけど……。いろいろ古いですよ」
「大丈夫ですっ!」
ニッコリとほほ笑みながら、綾音さんは靴を脱いで玄関から上がった。そしてヘアゴムを口にくわえて、長くて綺麗な髪をまとめはじめる。流れるような美しい所作に、思わず目を奪われる。
「どうしました?」
「いえ、その……なんでもないです」
綾音さんが髪をまとめ終えると、麗しいポニーテールがなびいた。どこにしまっていたのか、折りたたまれた薄ピンク色のエプロンを取り出し、身に付けている。よく似合うなあ……。
「ひゅーがさん」
「はいっ!?」
「向こうで待っていてください。ちょっと時間かかりますから」
「わ、分かりました」
「まだ眠いようでしたら、お布団で寝ていてもいいですよ」
「いやいや、流石にそれは……」
「寝ぐせっ、ついてますよ?」
クスっと笑いながら、綾音さんは自分の頭の上を指さした。俺は恥ずかしくなって、何も言えなくなる。
「……じゃ、じゃあお言葉に甘えて。隣の和室で寝ていますから」
「は~い!」
赤くなった顔を隠すようにして、綾音さんに背を向けたのだった。
***
せっかく綾音さんが台所に立ってくれているのに、スヤスヤ寝てしまうのはどうも気が引けたのだけど……睡魔には抗えなかった。襖越しに聞こえる炊事の音を子守歌に、布団に転がってうたた寝している。
「……」
ふと、昔を思い出す。こうやって、母親が朝飯を支度する音で目を覚ましていた頃もあったなあ。今となっては……懐かしい思い出だな。
「お嫁さん、か……」
まさか二十一歳にして求婚されるとは思ってなかったけど。自分のために食事を用意してくれる人がいるのは幸せなことなんだろうな。ああ、本当に……。
……。
「――さん、ひゅーがさんっ」
「……?」
あれ……もう出来たのかな。いや、俺が寝ちゃってただけか。
なんだか良い匂いがする。かつお節……味噌汁かな。あとはご飯の炊ける匂い? 腹が減ってくるなあ。そして、さっき嗅いだ高級シャンプーの――って、あれ!?
「あっ、起きました?」
「なんで布団入ってるんですかっ!?」
めっ、目の前に綾音さんがいるんだけど!? いつの間にか同衾してる!? なんで!? なんで何事もなくニコニコ笑ってるの!?
「こうしたら起きるかな~って思ったのでっ! 可愛い寝顔ですね~っ」
「あっ、綾音さんっ!?」
「新妻に起こされる気分はどうですかっ?」
「まだ結婚してないですけど!?」
「も~、寝坊助なんですから。私のことは寝かせてくれなかったくせに~」
「在りもしない情事を捏造するのはやめてくださいよ!?」
「さっ、いいから起きてくださいっ」
「えっ?」
綾音さんは布団から出て、すっと枕元に正座した。背筋をピンと伸ばすと、服のシワが一斉に消える。そして俺の顔を穏やかに見下ろすようにして、一言。
「朝ごはん、ご用意出来ましたよ」
優しく微笑むその姿は、本当に……新婚ほやほやの花嫁に見えていた。
***
「いっ、いいんですか!? こんなに……」
「いいんですよ~。何を遠慮されているんですか?」
こたつの上に並べられた品々を見て、思わず感嘆する。一つ一つの粒が立っている白飯に、湯気が立つ様が食欲をそそる味噌汁。中央には美しく焼かれた鮭の切り身が鎮座して、他にもおひたしや漬物の小鉢が並ぶ。
「これ、どうやって……?」
「いつもボイスチャットで、朝はあんまり食べないんだって仰ってたので。せっかくお宅に伺うなら……と思って、仕込んでおいたんです」
「えっ、ええっ!?」
「冷めないうちにどうぞ召し上がってください。お椀とか勝手に使ってしまいましたけど、大丈夫でした?」
「だ、大丈夫ですけど……」
「古い台所って仰ってましたけど、ちゃんと綺麗に使われてるじゃないですか。全く問題なかったですよ」
単にほとんど自炊をしないから汚れる理由がないだけ、という気がするけど。もともと使っていた人間が真面目に手入れしていたってのもあるかな。とにかく、いただくことにするかな。
「じゃあ、いただきますね」
「はい、どうぞ~」
両手を合わせると、向かいに座っている綾音さんが右手を出して「どうぞ」と促してくれた。俺は味噌汁のお椀を手に取り、そっと口につける。……あっ、美味い。
ほのかに香るかつお節に、芳醇な味噌の味わい。こんな美味しい味噌汁を飲んだのは久しぶりかもしれない。もとの材料も良い物なんだろうけど、それ以上に綾音さんが腕利きなんだろうな。
「どうですかっ?」
綾音さんは両手の上に顎を乗せ、るんるんと楽しそうに俺の様子を見守っている。一応味の評価を聞いてみただけで、俺が美味そうに味噌汁を啜っているのは見て分かるんだろうな。
「美味しいです。とっても」
「ですよねっ! 私っ、腕によりをかけて作りましたもんっ!」
「お料理、得意なんですか?」
「そうですねえ、昔から厳しく教えられていたので。でもっ、最近は好きでやってます」
「へえ……」
特殊な家、と言ってはいたけど、厳しい家柄ってことなんだろうか。別に家がどうであっても関係ないけど、気にならないかと言えばそれも嘘になる。それにしても、この味噌汁は啜らずにはいられない。
「……本当に美味しいなあ」
「気に入っていただけましたっ?」
「ええ、とっても。飲んでしまうのが惜しいくらいに」
「ひゅーがさんっ」
その時、窓から光が差し込んだ。太陽に照らされた綾音さんの顔は本当に綺麗で、思わず息を呑んでしまう。ハッとして何も言えないでいると、綾音さんは穏やかな声で言葉を紡いだ。
「――結婚したら、毎朝作ってあげますからね」
見惚れる、というのは今の自分の状態を指すのだと思った。昨日まで一人ぼっちで住んでいたボロアパートに、女神がやってきた。そうとしか形容出来ないような、不思議で――夢のような光景だった。
「……あの、綾音さ」
「あーっ! 帰らないとっ!」
「へっ?」
綾音さんは柱に掛けてある時計を見て、慌てて立ち上がった。わたわたと上着を羽織り、急いで身支度をしている。
「ど、どうしたんですか?」
「今日は午後から家で用事があるんですっ! ごめんなさいっ、今日のところは帰りますっ!」
「は、はあ……」
「明日もちゃんと朝から来ますからっ! お寝坊しちゃダメですよっ?」
嫁に来ているのに「家に帰る」とはどういうこっちゃ、とは思ったものの、実際帰らなければならないんだろうから仕方ないな。
しかし、この仙台から車で帰って午後までに着くような地域は限られる。山形、あるいは福島、それとも宮城県内のどこか……。まあ、あまり詮索されたくないみたいだし、考えるのはよしておくか。
「今日はありがとうございました! これからよろしくお願いしますねっ!」
「はっ、はいっ! こちらこそ、朝食まで作っていただいて――」
「冷めちゃいますから、気にせず食べてくださいっ!」
「じゃっ、じゃあ……」
忙しく荷物をまとめる綾音さんを見ながら、茶碗に盛られた白米に箸を伸ばす。うーん、まるで芸術品のように美しく炊かれているな。じゃあ、さっそく――
「じゃあね、ひゅーがさん! また明日――」
「……つや姫。産地は山形県」
「へっ?」
俺の一言で、綾音さんが足を止める。その様子を見て、俺はハッと口を押さえた。しまった、つい言ってしまった。昔から母親が食べ物にはこだわっていたから、思わず――
「い、いま山形って……」
「いや、その……米の産地が山形だって言っただけで、綾音さんは――」
「いまっ、私が山形県から車で一時間かけてここまでやって来たって言いましたよね!?」
「そんなこと言ってないですけど!?」
綾音さんが慌てたようすで俺のもとに駆け寄ってきて、こちらに顔を寄せる。というか、この人……自白したよな!?
「あ~どうしましょう! ひゅーがさんのえっち! せっかく隠してたのに……!」
「だっ、だから何も言ってないですって!」
「も~私はおしまいですっ! どうせ実家のこともバレちゃうんです~!」
「バレるって……そんな、ただ住んでいる県が分かっただけで――」
「だって都道府県が割れたら住所なんかすぐ分かるじゃないですか!?」
「えっ?」
「えっ?」
俺と綾音さんは顔を見合わせる。……ちょっと待て、都道府県が分かった程度で住所を割り出せるはずはないよな。ツ〇ッターの画像だけじゃ限界があるし、この人、いったいどんな手段を……?
「綾音さん、どうやって俺の住所を――」
「わーっ! 聞かなかったことにしてくださいっ! だめっ! 乙女の秘密ですっ!」
「世の中の乙女に謝った方がいいですよ!?」
「言っておきますけど、非合法な手段は使ってないですからねっ! ○○を××してほにゃほにゃしただけなんですっ!」
「放送禁止用語!?」
「じゃっ、帰りますからっ! ちゅっちゅっ!」
「だから投げキッスで誤魔化さないでくださいよおおおおっ!!」
引き留めもむなしく、綾音さんは玄関から出ていった。……さっきこの人に見惚れていた時間を返してほしい。
「ふう……」
ため息をつきつつ前を向くと、鮮やかな朝食が並ぶ。……いろいろな意味で非現実的な人だったけど、俺のために作ってくれたこの一汁三菜は紛れもない現実だ。本当に、俺と綾音さんは結婚生活を送ることになるんだな。
「……うまっ」
少し冷めていても、綾音さんの味噌汁は美味しい。ほのかな幸せを感じながら、明日からの生活に心を弾ませたのだった。




