最終話 枕元に綺麗なお姉さんがいた
夢を見ていた気がする。
ひとりの女性が泣いている夢を。
その人の手を取って、大きなダイヤモンドの指輪を捧げた夢を……。
「――あけましておめでとうございます、日向さん」
「綾音さん……?」
目を開けると、枕元に正座している女性がいた。その人は薄紅色の色無地を身にまとい、綺麗な髪を後ろでまとめている。本当に……美しいな。
「はい。あなたの妻、春木場綾音ですよ」
「……あ、あけましておめでとうございます」
「照れてるんですか? 可愛い旦那さんですねっ」
綾音さんはニッコリと笑った。隣を見ると、綺麗に整えられた布団がもう一組。そうか……この人は、これからずっとこの家に住むんだな。和室が狭いと感じるなんて、随分と久しぶりだ。
「ほらっ、起きてください。顔でも洗ってきたらどうですかっ?」
「はーい……」
「もーっ、シャキッとしてくださいっ! シャキっと!」
元気な声に押されて、ゆっくりと身を起こした。昨日はドタバタしていたから、そのせいですっかり熟睡してしまった。まだ眠気が取れてない気がする。
「そうだ、お雑煮っ!」
綾音さんは慌てたように立ち上がり、台所の方に向かった。それを追うようにのそのそと立ち上がり、居間に入ると……こたつの上に重箱があった。大晦日が過ぎて、今日は一月一日。お正月というわけだ。
昨日のことを振り返ってみる。綾音さんのご両親に許しを得たあと、俺たちは大急ぎで結婚の準備を整えた。婚姻届の残りの欄を埋めて、最低限の道具を綾音さんの車に積んで……仙台に帰ったのだ。
この重箱に入っているおせちは、もともと綾音さんの母親……いや、お義母さんが正月用に仕込んでいたものを分けてもらったもの。お手伝いさんが何人もいるのに、毎日母娘で料理をしていたというのだから驚きだ。だから綾音さんの作ったご飯は美味しかったんだな。
「こらーっ、早く顔洗ってきてくださいっ!」
「分かってますって」
雑煮を運んできた綾音さんと入れ替わるように、洗面所に向かって歩きだす。新生活、というより以前の日常生活を取り戻したという気分だ。綾音さんが妻になって、これからも……ずっと一緒にいるんだ。
家族がいるって、こんなに幸せなことだったんだな。両親と三人で暮らしていた頃なんてほとんど記憶にないけど、きっとこんな感じだったんだろうな……。
「ん」
そういや……アレ、まだ箪笥にしまってあるはずだよな。せっかくの機会だし、着てみるとするか。
空気が冷えた廊下を歩きながら、昔を懐かしんだ俺であった。
***
こたつの前に隣同士で座り、二人で食卓を整える。目にも鮮やかなおせち料理に、澄んだ汁の入ったお雑煮、そして徳利に入った日本酒。
「その半纏……どうしたんですか?」
「ん?」
箸を並べていたら、右隣の綾音さんが首をかしげていた。俺の着ている物が気になったらしい。
「昔、父が家の中で羽織っていたんです。母がずっと取っておいたんですよ」
「それを、どうして……?」
「両親に悪いかと思って、今まで着ていなかったんですけど。……自分も、父みたいに立派な夫にならないといけませんから」
「日向さん……」
こたつの天板に乗せていた手に、綾音さんがそっと左手を重ねてきた。柔らかな温もりに、心が静かに溶かされていくような気がした。
「大丈夫ですよ。日向さんはもう立派な旦那さんです」
「そう……ですか?」
「私の夢、叶えてくれたじゃないですか。昨日のこと、一生忘れませんから……」
綾音さんの薬指には、陽の光を反射した結婚指輪が輝く。これも自分が買っておいたものだ。預金を全部下ろして、年末でも開いている店に駆け込んで、一番高い指輪を買って……なんだか、遠い昔の話みたいだ。指のサイズが合っててよかった。
「でも、本当に良かったです。もう綾音さんには会えないと思っていたので……」
「いきなり実家に来るなんて非常識なんですからねっ!」
「綾音さんには言われたくないんですけど!?」
「こんな身一つで嫁入りなんてっ、駆け落ちみたいなもんじゃないですか~!」
「嫌でしたか?」
「いいえ、さいっっっこうに幸せですっ!」
とびきりの笑顔に、思わずこちらが照れてしまう。眩しいから不意にそんな顔を見せないでほしい。でもなあ、たしかに昨日は大変だった。やれ荷造りがどうとか、婚姻届の証人欄がどうとか……。
お義母さんが「せっかくだから」と母屋にいたお客二人に証人になるよう頼んでくれたのだけど、後で聞いたらそれぞれ山形の財界と政界のとんでもなく偉い人だったらしい。額縁に見合った豪華な婚姻届になってしまったな、と苦笑いしたのを覚えている。
「あっ、忘れてた」
「何がですか?」
「せっかく綾音さんの実家に行ったのに、猫ちゃんと会わなかったなって」
「へっ?」
「飼ってるんですよね? 連れてこなくてよかったんですか?」
「えっと……それは……」
何気なく聞いたつもりが、綾音さんが固まってしまった。そんなに変なことを聞いたかな。
「あ、綾音さん?」
「……ごめんなさい。それ、嘘だったんです」
「う、嘘?」
「その、毎晩家に帰る口実を作りたくて……」
「ど、どういうことですか?」
「それはっ、その……」
真っ赤な顔をそむけて、言葉に詰まる綾音さん。どうして家に帰る口実が必要だったんだろう?
「……から」
「えっ?」
「はっ、恥ずかしくてお泊り出来なかったからっ!!!」
「……へっ?」
もしかして……俺と一緒に寝るのが恥ずかしかったって言いたいのか……?
「私だって、最初は泊まるつもりだったんですっ! でもっ、でもっ……!」
「で、でも?」
「年上だからっ、その……リードしないといけないのかな、とか……!」
「ちょっ、それって――」
「ああああもう言わせんなっ! このばかっ!! いくじなしっ!!」
「えっ!!?」
なんか久しぶりに罵倒されてる!? 懐かしい気もするけどやっぱり理不尽!!
「だいたい日向さんが悪いんですよ!!? お風呂入りませんかとか、枕が変わると寝られないタイプですかとか、変なことばっかり聞いてきたくせにっ!!」
「そんなこと聞きましたっけ!?」
「昨日だって! こっちはすっごい緊張してたのに隣でぐーすかぐーすか寝てるから引っ叩こうかと思ったんですよ!?」
「いっ、いいじゃないですか疲れてたんだから!」
「だめに決まってますっ!! 新婚初夜って言葉を知らないんですか!!?」
「知ってますけど必須事項ではないですからね!?」
せっかく良い雰囲気だったのに、猫の話を聞いてしまったがためにぶち壊しだな……。でも、やっぱり綾音さんはこうやって元気にはしゃいでいる姿が一番似合っている気がする。愛おしいお嫁さんだなあ。
「まったくっ、これじゃすぐ倦怠期にっ……!」
「綾音さん」
「はい!?」
勢いよくこちらに振り向いた綾音さんの顔に、そっと手をあてる。本当に綺麗な人だ。吸い込まれてしまいそうな瞳に、ほのかに紅く染まった頬。そして……口紅で鮮やかに彩られた唇。
「急に、何を……」
「綾音さん。世界中の誰よりも――あなたのことを愛してます」
「えっ――」
次の瞬間、綾音さんを強く抱き寄せ……唇を奪った。ほのかに甘い味がして、脳がとろけてしまいそうになる。綾音さんは少し驚いたようだけど、何も言わずに俺のことを抱き返してきた。
一瞬、二人だけの世界に閉じこもって……ゆっくりと現実に帰っていく。唇を離して腕の力を解くと、綾音さんは顔を真っ赤にして口元を手で覆っていた。
「ばか。お雑煮、冷めちゃうでしょ……」
「やっぱり綾音さんは可愛いです。良いお嫁さんですね」
「ちょっ、調子乗んなっ! 年下のくせにっ!」
「その年下と一緒に寝られなかったのはどこのお嬢様ですか」
「うるさいっ! 言っておきますけどっ、私が先に老けても返品不可ですからね!?」
「しないですよ。ずーっと愛蔵品です」
「あ~っ、今の録音しておけばよかった~っ!」
初めて会った時から変わってないな、この人……。いや、変わらないってのはありがたいことか。どうか、これからもずっと愛おしいお嫁さんであり続けてほしい。
「お酒も冷めちゃいますよっ!」
優雅に袖を揺らしながら、徳利を手に取る綾音さん。ついつい見惚れていると……いつの間にか、右手におちょこを握らされていた。
「もー、ぼーっとしないでくださいっ!」
「すいません。綾音さんがあんまり綺麗だから……」
「そっ、そう言えば許されると思ってるんですかっ!?」
「許してくれないんですか?」
「許す、けど……」
恥ずかしそうに頬を染めながら、綾音さんが徳利を傾ける。透明な日本酒がゆっくりおちょこを満たしていくとともに、手にほのかな温かみを感じる。
「ごめんなさい、お屠蘇は忘れてたんです」
「別にいいじゃないですか。それより、綾音さんと一緒に飲むのは初めてですね」
「そうなんですっ! や~~っと飲めるんですよ~っ!」
徳利を受け取り、代わりに綾音さんのおちょこにお酒を注いであげる。山形から通ってきていた頃は、車の運転があるから酒を飲めなかったんだよな。こうして朝から飲めるのも結婚したおかげというわけか。
「じゃあ、いいですか?」
「はい」
綾音さんに合わせて、おちょこを掲げる。着物とよく似合うなあ。こんなに綺麗な人と結婚したなんて……自分でも未だに信じられない。
「あの、日向さん?」
「はい?」
「こういうのは、旦那さんからじゃないと……」
おちょこを持ったまま、もじもじとしている綾音さん。乾杯の発声をしてほしいらしい。
「別にどっちでもいいじゃないですか」
「ううん、私がそうしてほしいんですっ」
「でも……」
「立派な旦那さんになるんじゃなかったんですか~?」
「わ、分かりましたよ」
からかうような声に押され、ぽりぽりと頭をかく。こほんと咳ばらいをしてから、ゆっくりと息を吸った。
「綾音さん」
「はい」
「大変なこともあると思いますけど。これからよろしくお願いします」
「だめっ!」
「へっ?」
「優等生すぎますっ! 私なんかに一千万の指輪買ってくれたくせにっ!」
「えっ、ええっ!?」
「もっと! 日向さんらしくっ!」
綾音さんはむーっと頬を膨らませて、不満そうにしていた。俺らしく、なんて言われてもなあ。でも早くしないと、せっかくお燗したお酒が冷めちゃうしな。
「じゃあ、テイク2ということで」
「ちゃんとしてくださいよっ?」
この先、俺たちの人生には何が待っているのだろう。収入のない大学生と、先行き不透明の小説家。結婚式も披露宴もなく、おまけに新居はこんなボロアパートときた。客観的に見れば寂しい門出かもしれない。
でも、俺は自分たちが不幸だとは微塵も思っていない。むしろ、この世で一番幸せな夫婦だと思っているし……綾音さんだって同じ気持ちだと思う。ボロアパートでもいいじゃないか。二人だけの正月を迎えられたことを、大いに喜ぼうじゃないか。
「……綾音さん」
「はい」
「正直に言えば、僕はまだ不安です。あなたを幸せに出来るかどうか、未だに自信がありません」
「日向さん……」
自分の気持ちを打ち明けると、綾音さんは心配そうに俺の顔を覗き込んできた。父さんみたいに、他人を守れる人間になれるだろうか。母さんみたいに、最期まで他人を想うことの出来る人間になれるだろうか。不安なことはたくさんある。
「でも、僕は信じているんです」
「えっ?」
「綾音さんは僕のことを幸せにしてくれるだろうって、信じてるんです」
「……嬉しいこと、言ってくれるじゃないですか」
「だから……」
俺はおちょこを掲げた。夢のような一か月を過ごして、今日からそれが現実になる。どんなに素晴らしくて、有難いことだろう。きっと大丈夫だ。この人となら――きっと大丈夫だ!
「あなたも、僕を信じてくれますか」
自分の気持ちを、真っすぐな言葉として紡ぎ出した。綾音さんは、俺の瞳をじっと見つめて……優しく微笑む。俺たちはおちょこ同士を重ね合わせ、小さな音を響かせた。
「日向さん」
「はい?」
酒に口をつけようとしたら、綾音さんが俺の名を呼んだ。窓から差し込む陽の光に照らされたその姿は、神々しいとすら感じる。
「私、信じられないです」
「へっ?」
「あなたが私を幸せにしてくれる、なんて信じられないんですよっ」
「ど、どうして……?」
予想外の返事にただただ戸惑っていると、綾音さんはクスッと笑った。まさに至福といった雰囲気で、おちょこに入った酒を一気に飲み干して……いたずらっぽく口を開く。
――これ以上の幸せなんて、あるわけないですからっ!
満面の笑みにこっちが恥ずかしくなって、酒を一気飲みする。ああ、美味い酒だ。人生で一番美味い酒だろうな。
俺たちの夫婦生活は、まだまだ始まったばかり。辛いこともあるだろうけど、今日だけは。今日だけは、誰もが羨む素晴らしい前途を思い描いても……罰は当たらないよな。
「綾音さん、午後になったら僕の両親に会いに行きましょうね」
「はいっ、もちろん!」
俺はもう一人じゃない。父さん、母さん、ここまで育ててくれてありがとう。そして綾音さん、末永くよろしくお願いします。
なんだか、こたつがいつもより暖かい気がした。
この物語はこれでおしまいです。
多くの方に読んでいただき、作者としても大変嬉しく思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




