第37話 本心
綾音さんは両手で顔を覆ったまま、声にならない声を漏らしていた。指の隙間からぽろぽろと綺麗な水滴が零れて、畳に落ちていく。
「私にっ、こんなっ……! ここまでっ……!」
父親の方は、何かを悟ったように……目を閉じた。この二人は理解しているのだろう。俺がいま綾音さんの前に掲げている物の価値を。この一瞬に全てを懸けた、俺の確固たる意志を。
「綾音さん、左手を」
「はいっ……」
跪いたまま、柔らかな手を取った。指輪をそっとつまんで、薬指に通して滑らせていく。自然光を反射して輝くその石は、綾音さんという人格そのものを表しているような気がした。
「きれい……」
綾音さんは自分の左手を眺めたまま、ただただ幸せそうに微笑んでいた。本当に、この人を選んでよかったと思う。指輪に負けないくらい美しい笑顔に、自然とこちらの頬も緩んでしまう。
「……貴様、どうやってそんな物を」
黙っていた父親が、静かに口を開いた。どうして俺がこんな代物を綾音さんに捧げることが出来たのか、気になったのだろう。俺はその場に立ち上がり、父親の方に向き直る。
「大した話ではありません。店に行って購入しました」
「その指輪……明らかに高品質な金剛石だろう。一千万円はくだらないはずだ」
「仰る通りです」
流石の目利きだな、実際の購入金額とほとんど一致してる。まあ、かつてボイチャで「結婚するなら貯金が一千万円くらいある人じゃないと」なんて言ったのは俺の方だし。これくらいの誠意を見せないと、結婚なんて言えるはずないよな。
「なぜ貴様がそれほどの金を持っている? 綾音、お前か?」
「そっ、そんなわけないです! 私だって不思議に思ってますっ! なんで、こんな高価な指輪を……」
袖崎家の人間からすれば、一千万円なんてはした金なのかと思っていたけど……流石にこんな若者が持っていたら不思議に思う額ではあるらしい。良かった。これなら、自分の覚悟を証明することが出来る。
「僕が幼い頃に亡くなった父の保険金と、母が必死に働いて貯めてくれたお金です。当面の生活費とは別に、何かあったときのためにと母親が遺しておいてくれました」
「そんな大事なお金を、私のために……?」
「聞いていただけませんか。僕の両親の話を」
「……勝手にするがいい」
父親は俺から目をそらした。父さん、母さん、二人の想いは無駄にしない。俺の両親は素晴らしい人間だったと、胸を張って言わせてもらう。この人が――安心して、綾音さんを送り出せるように。
「僕は父の顔を覚えていません。何故だかお分かりですか」
「貴様が幼い頃に死んだからではないのか?」
「いえ、違います。僕が最後に会った時……父には顔がなかったからです」
初めて、父親が動揺した気がした。やや目を見開いて、一瞬だけ息を詰まらせたように見えた。
「……それがどうした」
「父は工事現場で働いている時に、事故に遭遇して……部下を庇ったそうです。その人は無傷で助かりましたが、父はほぼ即死でした」
「……」
「そして、母はその父を愛し続けていました。二年前に亡くなった際も、最期に話した言葉は父への謝罪でした」
何も言わずに、父親は黙って俺の話を聞いていた。人情噺で同情を買いたいわけじゃない。俺は尊敬すべき両親の間に生まれたのだと、この人に認めてもらいたいだけなんだ。
「その指輪は、自分の覚悟と両親が生きていたことの証明です」
「……そうか」
「お願いします。結婚を認めていただけないでしょうか」
改めて、深々と頭を下げた。隣に立っていた綾音さんも、ハッとして俺の動きに合わせてくれた。二人して礼をしても、父親は何も言わない。ただひたすら、沈黙の時間が流れて――
「あなた、もういいじゃないですか」
「……へっ?」
予想だにしていない声に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。顔を上げると、いつの間にか襖が開いていて……和服を着た六十代くらいの女性と、幼い子を抱っこした女性の姿があった。
「初めまして。綾音の母でございます」
「お、お初にお目にかかります! 春木場日向と申します!」
「あら、いいのよ。緊張しないで」
母親はニッコリとほほ笑んで、俺の気持ちを落ち着かせてくれる。その表情は、綾音さんと瓜二つだった。
「あー! やっぱりあなただったんですねー!」
「へっ?」
その時、母親の後ろからもう一人の女性が入ってきた。あれ、どこかで会ったことがあるような気がする。そうだ、さっき山形駅で会ったような――
「ひゅーがさ……日向さんと知り合いなんですか、お義姉さん?」
「お、おねえさん?」
「ああ、この方は兄の奥さんです」
「……えっ、えええええっ!?」
「綾音ちゃんの婚約者が来てるって聞いて、まさかと思って来てみたんです。でも、本当にあなただったなんて……」
お義姉さんは、山形駅で俺が話したことを覚えてくれていたんだろうな。それでこの家に帰ってきたら、義理の妹――すなわち綾音さん――の婚約者を名乗る男が来ていると聞いたから、ピンと来たというわけか。
「それでね、春木場さん?」
「はいっ!?」
唐突に話しかけられたので、慌てて返事をする。そっぽを向いてじっと黙っている父親の方を見て……母親が、諭すように話を始めた。
「ごめんなさいね、この人が変なこと言ったでしょう?」
「いえっ、そんなことは……」
「大丈夫、そんなに心配しないで。この人、綾音を嫁に出したくないだけなの」
「おい、余計なことを言うな!」
「あらあら、そんなに大きい声を出したら可愛い孫が泣いてしまいますよ」
お義姉さんに抱えられた娘は、きょとんとして俺たちのことを見ていた。そうか、この父親にとっては孫にあたるわけか。
「聞いたかしら。綾音にはね、年の離れた兄がいるの」
「はい、存じ上げております」
「うちの主人、上の子とはすごく仲が悪いの。どうしてだか分かるかしら?」
「いえ……」
「跡継ぎに育てようって気合い入れちゃってね、すっごく厳しくしちゃったのよ。だからね、大晦日になっても顔すら合わせなくて」
たしか、お義姉さんがこの場にいるのにお兄さんがいないのは不自然だ。父親と会わないために、この屋敷のどこかにある自室にこもっているのだろうか。
「だから、綾音が生まれた時は……よく面倒を見るようになったの。上の子のことをすごく反省したみたいで」
「お前、もうその話は」
「あら、本当の話じゃないですか。あなた、綾音が可愛くて仕方ないんでしょう?」
「……」
父親はこちらに背中を向けてしまい、一言も発しようとしない。この時、俺は初めて父親の本心を理解した気がした。俺の両親のことも、収入のことも、全ては建前に過ぎなかったのだろう。
本当は……綾音さんが結婚するのが寂しかっただけなんだ。
「お前は」
「なんです?」
「お、お前はいいのか。綾音が……そんな若造と結婚しても」
微かに声を震わせる父親に対して、母親の表情は穏やかだった。静かに綾音さんの左手を取り、優しく撫でてあげている。
「だって、こんなに綺麗な指輪を用意してくれたんでしょう? 気骨のある素晴らしい方じゃありませんか。綾音にはもったいないくらいですよ」
「お母さん……」
「私も寂しいですよ。でも、この子だっていい歳じゃないですか……」
まるで名残を惜しむかのような母親の手つきに、綾音さんの目から自然と涙が流れていた。この母親だって、自分の娘が俺みたいな青二才と結婚するなど……不安で仕方がないはずなのに。どれだけ器が大きいのだろう。
「ゆびわ、みせて~」
「うわあ、すっごい……」
「あっ、一千万円らしいので気をつけて」
「うそおっ!?」
綾音さんの言葉に、お義姉さんが飛び上がるように驚いていた。多分、この人は一般家庭の生まれなんだろうな。どことなく親近感がある。
「あの……お義父さん」
「……なんだ」
すると今度は、お義姉さんが父親の方に歩み寄った。抱っこしている娘をあやしながら、ゆっくりと話し始める。
「いろいろと聞きました。この方、ご両親がいないそうですね」
「そうだ。だから私は、結婚など認められないと――」
「お義父さんじゃないですか。親戚中の反対を押し切って、両親のいない私が嫁入りすることを認めてくれたのは……お義父さんだったじゃないですか」
「……」
「この家に初めて来た時も、温かく迎えてくださって。本当に、あの時は……」
お義姉さんの言葉に、父親は沈黙を保ったまま。数秒経ってから、ようやく……絞り出すように口を開いた。
「それとこれとは別だ。うちに嫁入りするのとは話が違う」
「でも、本当はお分かりでしょう。両親の有る無しなんて、結婚とは何の関係もないんです」
「……」
「それに、この方はとても良い方なんですよ。さっき、駅で私たちのことを」
「勝手な口をきくんじゃない!!」
父親がこっちに振り向いて、声を荒げた。しかし、すぐ目の前に孫がいたことに気がついたのか……ハッとしたように我に返る。
「いや、これは……」
「じいじ、こわい~」
「す、すまん。気にするな……」
「えへへ~」
父親が優しく頭を撫でると、孫はにこやかに笑い返していた。少しだけ空気が和らいだところで、母親がぎゅっと綾音さんの手を握りしめる。
「綾音、行ってらっしゃい。良い人を見つけたみたいで、お母さんも嬉しいわ」
「いいの……?」
「大丈夫、心配しないで。何かあったらいつでも頼っていいんだからね」
「でも、お父さんが……」
「分かってあげて。この人が一番寂しいんだから」
母親がそう言うと、綾音さんは背筋を伸ばして……父親の前に立った。そして深々と頭を下げ、口を開く。
「今までお世話になりました。袖崎の家に生まれて、とても幸せでした」
「……そうか。お前は最後まで手のかかる娘だったな」
「ごめんなさい、本当に……」
父親は再び背中を向けて、黙り込んでしまった。この場にいる男はこの人と俺だけ。なんとなく、今の気持ちを察することは出来た。顔を見せてくれないのも、きっと……いや、これ以上は野暮というものか。
「綾音」
「はい」
父親の声に、綾音さんがそっと顔を上げた。次の瞬間――山形の静かな空気に、威厳のある声が響く。
――おめでとう。
その一言で、今までの一か月がようやく報われたような気がして……泣き出しそうになってしまう。綾音さんもその場で立ち尽くしたまま、静かに涙を流していた。
大晦日、雪のち晴れの日。春木場日向と袖崎綾音は――この日をもって、正式に夫婦となった。
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次回、最終話となります。




