第34話 昔話
「何も言わずにいなくなって、本当にごめんなさい」
「綾音さん……」
「言い訳するつもりはありません。不義理なことをしたと思っています」
頭を下げたまま、綾音さんははっきりとそう言った。この人は本当に誠実だと思う。年下の俺に、何の躊躇いもなく頭を下げることが出来るのだから。
「いやっ、何も謝ることじゃ」
「私、逃げちゃいました。元はと言えば私の家族から始まった問題なのに」
「あ、綾音さんは悪くないですっ! お願いですから……顔を上げてください」
「……ありがとう、ひゅーがさん」
綾音さんはようやく顔を上げてくれた。別に謝ってもらうために山形まで来たわけじゃないんだ。
「いろいろ悩んでいたことは分かってますから。謝らないでください」
「でも……やっぱり悪いことをしましたから」
「だから、綾音さんは何も――」
「そうじゃなくて! イブの夜、ひゅーがさんと一緒だった女の子に悪いなって思ったんですっ!」
「あっ」
……もしかして、本当に今泉が理由だったのか?
「浮気だーとかそんなことは思ってないんですけど! あんな綺麗な子に慕われているんだから、何も私なんかと結婚しなくてもって」
「じゃあ、僕の家に来なくなったのは」
「……両親のこともあったし、もう潮時なのかなって。身を引くべきだろうなって思ったんです」
綾音さんは寂しそうに俯いた。きっと今泉のことを「高校時代から慕っている後輩」とでも思ったのだろう。それで、自分よりも相応しい相手がいることを悟って……姿を消したというわけか。
「綾音さん」
「はい?」
真っすぐに瞳を見つめる。誤解は解かなければならない。嘘も誤魔化しもない言葉で、誠実に伝えるしかない。
「二つ、正したいことがあります」
「二つ?」
「まず一つ。あの日、僕を介抱してくれた後輩がいたと思いますが」
「は、はいっ」
「たしかに僕のことを慕ってくれていますけど。アイツは男です」
「えっ!?」
「別に恋仲でも何でもありません。ただの部活仲間です」
「嘘……私、何を……」
開いた口が塞がらないといった感じで、綾音さんはただただ唖然としている。でも、本題はこれじゃない。もっと大事なことがあるんだ。
「それからもう一つ。綾音さんが身を引く必要なんてありません」
「えっ?」
「言いましたよね。結婚するかどうかは、大晦日までに決めてもらえばいいって」
「い……言いましたけど」
綾音さんは目をパチクリして、俺の顔を見上げている。この人と出会って一か月が経った。結婚とは何か、夫婦とは何か、ほんの少しだけど知ることが出来た。でも何より……この人のことを失いたくないと、強く思うようになったのだ。
だから、今ここで返事をする。仮の夫婦として過ごして何を思ったのか。何を感じたのか。何を考えたのか。全てを掛け合わせて、導き出した答えは……一つしかなかった。
「ごめんなさい、段取りが悪くて。ちょっと待ってくれますか」
「ふぇっ?」
断りを入れてから、近くに置いてあった自分のリュックサックに手を伸ばした。その中から小さな箱を取り出すと、綾音さんがビクっと反応する。
「えっ? それっ……へっ?」
「一か月前の返事をさせてください。喜んでもらえるかは分からないですけど」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ! ひゅーがさんっ、それっ……」
「綾音さん、僕は――」
「ちょっと待ってくださいってばああああっ!!!!」
「!?!!!?」
正座に戻って、箱を開けようとしたまさにその瞬間――綾音さんに右腕を掴まれてしまった。あまりの迫力に、ついたじろいでしまう。
「なっ、何するんですか!?」
「だめっ!! ひゅーがさんはせっかちですっ!」
「えっ、ええっ!?」
ただただ戸惑っていると、綾音さんがゆっくりと顔を上げた。ほのかに頬を紅潮させ、恥ずかしそうに口を開く。
「……このままじゃ、申し訳ないんです」
「申し訳ない?」
「私、まだ何も話してません。生まれも育ちも、何もかも……」
「でも、そんなの――」
「ひゅーがさんっ!」
関係ないですよ、と言おうとしたところを遮られた。綾音さんは鬼気迫る表情で、ずいっと顔を寄せてくる。
「これは年上としてのアドバイスです。いいですか、結婚は人生の分岐点なんですよ」
「それって……」
「自分から押しかけておいて何言ってんだって思うかもしれないですけど。私の話を聞いてからでも、遅くはないと思いますよ」
綾音さんは表情を和らげ、微かに笑みを浮かべる。つまり、私の身の上話を何も知らずに結婚なんて決めていいんですか――と言いたいわけだな。
「でも、自分のことを知られるのは嫌だって……」
「ううん、もういいんです。ひゅーがさんが返事を決めてくれたんだから、私だって覚悟しないと」
姿勢を元に戻して、綾音さんはまた真剣な眼差しを向けてきた。思わず、こちらの背筋も伸びてしまう。
「ごめんね、昔話になっちゃうけど。聞いてくれる?」
「はい、もちろん」
目の前にいる綾音さんは、今までで一番自然体のように思えた。気取らず、飾らず、ただありのまま存在しているような。そんな気がした。
「えっとね、私……」
思わず息を呑んで、次の言葉を待つ。綾音さんは微かに俯いて、一言。
「――夢が叶ったことが、ないの」
作家でもなく、袖崎家の長女でもなく、お嫁さんでもなく。綾音さんは素の自分を丸出しにして、言葉を紡ぎ始めたのだった。




