第23話 帰途にて
夕方になったので、俺たちは帰宅することにした。朝から滑り続けていたから、既に体はクタクタに疲れている。
「ストックはどうしたらいいですかー?」
「雪だけ軽く払って、入れておいてくださーい!」
薄暗い駐車場にて、スキー道具を車に積み込んでいく。俺はもう疲労困憊なのに、綾音さんは朝と全く変わらぬ調子だ。培ってきた体力というか、馬力が違うのかもしれない。
「お願いしますっ!」
「はいっ……重っ」
綾音さんからスキー板を受け取り、ドアを開け放した車の中から身を乗り出すようにしてスキーキャリア(そう呼ぶのだと教えてもらった)に積み上げる。
「これで全部ですか?」
「はいっ! オッケーです!」
こちらにグーサインを見せる綾音さん。……よく考えればこの人、朝は俺の分までスキー板を積み込んだんだよな。俺の身長でも大変な作業を、しかも一人で。
それだけじゃない。恐らくスキーに行くことを思いついたのは昨日の夜。いったん山形に帰って、二人分のスキー道具を準備して、朝飯のおにぎりまで用意して。寝る暇なんてなかったかもしれないな。
「ひゅーがさん?」
「はい?」
「いつまで車掌さんの真似をしてるんですか?」
「へっ?」
車から身を乗り出したままだったから、綾音さんに怪訝な顔をされてしまった。車掌とは言い得て妙だな、なんて感心しつつ、とりあえず地面に下りてドアを閉める。
「じゃあ、あとはひゅーがさんをお送りしてから帰りますね」
「は、はい。すいません、お疲れのところ運転まで」
「いいですよ。慣れてますし、私が無理やり連れてきたんですから。じゃあじゃあ、乗っちゃってくださいっ」
そう言って、綾音さんはドアを開けて運転席に座った。朝と同じように、後部座席に座ろうかと思ったのだけど……なんとなく悪い気がして、助手席の方に向かう。
「あれ、後ろで良かったのに」
「綾音さんの隣がいいんですよ」
「ふ、ふ~ん? 口がうまくなりましたねっ」
綾音さんはサングラスを置いて、車のエンジンをかけた。車体が小刻みに震え出し、排気音が響き渡る。エアコンの吹き出し口から、まだ暖まっていない空気が微かに漏れ出ていた。
「大丈夫ですか? 寒くないですか?」
「いえ、大丈夫です」
「あーあ、先にエンジンかけておけばよかったですねっ」
両手にはあっと息を吐いてから、ハンドルを握りしめる綾音さん。車の免許、取っておけばよかったなあ。
「車の教習って大変ですか?」
「免許、持ってないんでしたっけ?」
「はい。本当は一年生の時に取ろうかと思っていたんですけど、母が病気してバタバタしちゃったので……」
「あら……そうだったんですね」
「免許があったら、綾音さんの代わりに運転出来るのになって思ったんです。もし……もし結婚するなら、互いに免許があった方が便利じゃないですか」
俺はぽすんと背もたれに体重を預けて、ため息をついた。綾音さんはじっと前を見たまま動かない。きっとフロントガラスに付着した氷が解けるのを待っているのだろう。
「ひゅーがさんは、本当に私との結婚を真面目に考えてくれているんですねっ」
「真面目にって……綾音さんが言い出したことじゃないですか」
「そうじゃなくて。不思議なんですよ、あんな風に突然押しかけたのに……」
リズミカルに指でハンドルを叩きながら、綾音さんはどこか嬉しそうな横顔を見せてくれた。たしかにあの時はビックリしたけどさ。断る理由もないし、何より綾音さんと過ごす日々が心地良いと感じている自分がいる。
父親が幼い頃に死んだから、俺は夫婦というものが何なのかをいまいち理解出来ずにいた。悲しい別れを迎えるくらいなら、最初から一緒にならなければいいと思ったこともあった。
「正直、僕は今も結婚が何なのか分かっていません。両親のこともありましたし」
「そう……ですよね」
綾音さんは少し言葉を詰まらせる。今も母親の最期を忘れたわけじゃない。亡くなる寸前まで父親への詫びの言葉を口にしていた姿は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。だけど――
「でも、綾音さんと一緒なら大丈夫な気がするんです」
「えっ?」
「うまく言えないんですけど。何が起きても、綾音さんがいれば何とかなりそうな……そんな気がしていて」
「……」
徐々に前面の視界がクリアになっていく。綾音さんはじっと黙り込んだまま、何を言おうともしない。
「あ、綾音さん?」
「ちょっと怖くなっちゃったんです」
「怖い、というと」
「ひゅーがさん、私のことを高く買ってくれているから。その期待に応えられるかなって」
この人が弱音らしい弱音を吐くのは珍しい気がした。綾音さんはこちらに一瞥もくれないまま、さらに話を続ける。
「今日の私、どう見えましたか?」
「どう、って」
「年甲斐もなくはしゃいじゃったかなって。ごめんね、昔は本当にスキーが好きだったから」
いつもはしゃいでいる気がするんだけど……それはともかく。実際、普段に比べて気分が高揚していたのはこちらにも伝わってきた。
「私、ひゅーがさんには自分を隠している部分が多かったですけど」
「はい」
「結婚するなら、いろいろ明かさないといけないなって。だから、今日は昔の自分を見せたかったんです」
「それって……」
今日のスキーにそんな意味が込められていたとは思わなかった。綾音さんも、真剣に結婚を考えていて……だから、俺にいろいろな「自分」を教えてくれようとしているんだ。
「私、小さい頃は体が弱かったんです。だから親が心配しちゃって、何かスポーツで体力をつけたらどうだって」
「それでスキーを?」
「そうなんです。兄がやってたっていうのもあるんですけどね」
綾音さんはエネルギッシュな人という印象だったから、そんな過去があったとは露ほども思わなかった。元から強い人だったんじゃなくて、努力の末に今の自分を掴み取ったというわけだな。
「怖くなった、っていうのはそういうことです。自分を知られれば知られるほど、ひゅーがさんの期待から外れちゃうんじゃないかって」
「そんなことは……」
「いいの、大丈夫。あくまで仮の夫婦なんですから」
その横顔は、どこか寂し気だった。素の自分を知られれば、俺に失望されるのではないか……と、心配しているわけか。
少なくとも、今日の綾音さんを見て幻滅するようなことはなかった。無邪気に雪と戯れる姿はとても微笑ましかったし、見ているこっちまで幸せな気分になるほどだった。もっとも、この人の奇行に慣れたのもあるかもしれないが……。
「綾音さん、ひとついいですか」
「はい?」
綾音さんはこちらに振り向いた。この人に寂しい顔はさせたくない。どうせなら……感情豊かに振る舞う姿を見せてほしいんだ。だから――
「住所の特定までしてきたのに、今さら恋する乙女ぶるのは無理ですよ」
「……なっ、なんですか急に!?」
顔に血が上る、という表現がぴったりだと思った。どこかアンニュイだった表情が瞬く間に変わっていく。綾音さんは口をぱくぱくと動かしながら、必死に言葉を紡いでいた。
「ひっ、人が真面目な話をしてるときにっ! からかってるんですかっ!?」
「すいません、なんか可愛かったので」
「かっ、かわわわ!? 可愛い!?」
「僕みたいな年下のためにここまで真剣に悩んでくれるんだなーって思って、つい」
「うるさい! 年下の自覚があるならからかってくんなっ! 雪山に置いていってやろうかっ」
「あ、市バスで帰れるので大丈夫ですよ」
「あ~もうっ! 人に運転させてるくせに~っ!」
「はいはい、大変助かります」
「私なんてっ、このあと山形まで帰らないといけないんですからねっ!!」
綾音さんはぷんぷんと頬を膨らませながら、ギアをガコガコと動かした。朝も思ったけど、マニュアル車を運転してるのすごいよなあ。
「じゃあ、しゅっぱーつ!」
車がゆっくりと動き出す。俺の家までは一時間くらいかな。せっかく運転してもらってるんだし、頑張って寝ないようにしないと――
「はいっ、ミュージックスタート!」
「へっ?」
綾音さんがカーステレオを操作すると、音楽が流れ始める。これ……ユーロビートだ!?
「こういうの流してると、居眠りしないで済むんですよ~っ!」
「ちょっ、怖い! 怖いですって綾音さんっ! その曲やめて!」
「大丈夫ですっ! ドリフトは一回やって懲りたのでっ!」
「何があったんですかあああああ!?」
やっぱり、教習所に行って免許を取ろう。そんな決意を固めた一時間弱の帰路であった……。




