第17話 甘い記憶、苦い記憶
「はい、綾音さんの分です」
「……あ、ありがとうございますっ」
カレーライスの盛られた器を置くと、綾音さんはなんだか恥ずかしそうに頭を下げた。俺は自分の分の器も置いて、座椅子に腰かける。福神漬けの入ったタッパーも持ってきたし、準備万端だ。
「じゃあ、食べましょうか」
「……どうして」
「はい?」
「どうして私の分まで作ってくれたんですか。今日なんて、私が面倒なことを言っただけなのに……」
綾音さんは俯いたまま、申し訳なさそうに言った。どうして二人分を作ったのか、なんて理由は一つしかない。
「お嫁さんの機嫌が直るといいなーって、そう思っただけです」
「お、お嫁さんって……!」
「なんですか、普段から自分で言ってるくせに照れてるんですか」
「うっさい! 調子乗んなっ! 年下のくせにっ!」
顔を真っ赤にして、ぶんぶんと身振り手振りを見せる綾音さん。年上のお姉さんが見せる恥じらいって、なんだか可愛いなあ。これを言うとまた怒られそうだから、言わないけど。
「冷める前に食べましょうよ、綾音さん」
「もっ、もう……!」
「はい、いただきます」
「いただきますっ!」
二人で手を合わせて、食前の挨拶をした。綾音さんはスプーンを手に取り、カレーとライスを一緒に掬い取って口に運んだ。味を確かめるように咀嚼して……驚いたように目を見開く。
「ん!」
「どうですか?」
「甘い!」
「はい、甘口なんです。お嫌いでしたか?」
「いえっ、そうじゃなくて。すっごく美味しいんですけど、久しぶりに食べたなあって」
「あはは、そうですよね」
なんて言いつつ、自分もスプーンを口に運ぶ。……そうだ、この味だ。昔から食べている馴染みの味。なんだか心まで温められるような気がする。
「ひゅーがさん、辛いの苦手なんですか?」
「子どもの頃はそうでした。だから母親が甘口で作ってくれていたんです」
「じゃあ、これって……」
「母親のレシピなんですよ。カレーくらい作れないと困るだろうからって、教えてもらったんです」
綾音さんは神妙な面持ちを浮かべた。再びカレーを食べようとして、その手を止めて俺の方を見る。
「あの……答えにくいことかもしれないんですけど」
「はい」
「ひゅーがさんの、お母様は……」
綾音さんは言葉を詰まらせた。恐らく、一緒に暮らしているうちにいろいろと察したのだろう。昔からこの家に住んでいるのに、どうして俺はいま一人暮らしなのか。それは――
「大学一年生の頃に死にました。僕にはもう、家族と呼べる人間は残っていません」
「……!」
手で口を押さえて、綾音さんは何かを堪えていた。その目にはうっすら水滴が浮かんでいるようにも見える。この人は……どうして、ここまで親身になってくれるんだろうな。
「母には感謝しています。貯金と保険金をたくさん遺してくれたおかげで、僕はこうして今も大学に通っていられるんです」
「そんな……」
「いいんです。もう二年も前のことですし、今さら気を遣っていただかなくても」
「……」
「カレー、冷めちゃいますよ。せっかくなので温かいうちに」
「は、はい」
そう促すと、綾音さんは再びスプーンを手に取った。二年前、俺は喪主として母親を見送った。葬式に来てくれたのは、生前に職場で関わりのあった人たちと……アパートの大家さんだけ。ちょうど今みたいな冬に、寂しく一人で骨壺を抱えたことをよく覚えている。
「……」
「……」
二人して何も言わず、ただただ沈黙が流れる。せっかくの夕食なんだし、もっと楽しい会話を……なんて、そんな場面じゃないか。だけどこのままじゃ寂しいな。
「カレー、お代わりしますか?」
「いえ、その……大丈夫です」
器が空になっていたから声を掛けたのだけど、綾音さんは首を横に振った。それを見て、俺はすっと立ち上がる。
「ひゅーがさん?」
「ちょっと待っててください」
「は、はい」
綾音さんを残して、俺は台所に向かった。そして冷蔵庫の中からキンキンに冷えたノンアルコールビールの瓶と二個のグラスを取り出し、再び居間の方に戻っていった。
「お待たせしましたっ!」
「それって……」
「その、今朝の件があったので……」
「えっ?」
「仲直りの記念、ってことにしませんか?」
きょとんとしてこちらを見たあと、俺の意図を理解したのか……綾音さんはニッコリとほほ笑んだ。
「はい、喜んで!」
俺はこたつの上にグラスを置いて、瓶の王冠を抜いた。綾音さんの持つグラスにビールを注いでいくと、黄色と白のコントラストが見えて思わず喉が鳴る。
「おっとっと」
「じゃあ、次は――」
「私が注ぎますよっ」
自分のグラスに注ごうとしたら、綾音さんに瓶を奪われてしまった。瓶を片手に笑顔を見せる姿は、まるでビール会社のコマーシャルに出てくる女優みたいだ。
「じゃ、じゃあ……」
「はい、どうぞ〜」
俺が恐る恐るグラスを差し出すと、綾音さんは徐々に瓶を傾けて、溢れそうで溢れないくらいの絶妙な量を注ぎ入れる。うわっ、綺麗に泡が弾けてすごく美味そうだ。
「ビールを注ぐのお上手ですね」
「旦那さんにお酌するのが夢だったので! いっぱい練習しました!!」
「……」
「ひゅーがさん?」
「あっ、いえ……」
ふと、昔のことが頭をよぎった。せっかく楽しい空気になったところだから、あまり言うべきじゃないのかもしれないけど……この人になら。
「……父のことを思い出したんです」
「お父様、ですか?」
「幼い頃、珍しく両親が喧嘩した日がありました。それこそ、今朝の僕と綾音さんみたいに」
「へえ……」
「仲直りしないまま父は仕事に行ってしまいました。母はさぞかし怒っているのだろうと思って、心配したんですけど……」
「どうなったんですか?」
「母は……いつも通り、冷蔵庫にビールを冷やしていたんです。母は飲みませんから、もちろん父のために」
「喧嘩していたのに、ですか?」
「そうです。きっと母は反省していて、夜になったら父に謝ろうとしていたんだと思います」
「なるほど……」
話がここで終わるなら、犬も食わない夫婦喧嘩ということで終わったのだろう。そうであれば、俺だってこの話を覚えていなかっただろうしな。だけど――
「でも――父は帰ってきませんでした」
「えっ?」
「職場で事故に遭ったんです。僕と母が病院に着く頃には息がありませんでした」
「そんな……」
「母はそのことを死ぬまで後悔していました。だから……僕は、僕は……」
「ひゅ、ひゅーがさん……?」
この時、自分が初めて涙を流していることに気がついた。両親がいないことには慣れたつもりだったのに。一生分の涙を流し切ったつもりだったのに。それでも、俺は……。
「すいません、こんな話をしてしまって……」
「ひゅーがさんっ」
「はい?」
「乾杯っ!!」
「へっ?」
その時、綾音さんは無理やり俺の手を取って――グラスとグラスを重ね合わせた。まるで俺を励ますように。まるで……父親の葬式で泣いていた自分を慰めてくれた、今思えば虚勢を張っていたであろう――母親のように。
「大丈夫ですっ。ひゅーがさんには私がいますからっ!」
「綾音さん……」
「私は、ちゃーんとビールを飲みますから。だから安心してくださいっ!」
「……ありがとうございます。じゃあ、乾杯」
「乾杯っ!」
綾音さんは一気にグラスを傾けて、ビールを飲み干してしまった。その姿がどんなに心強かったことか……言うまでもないだろう。
カレーの甘さとビールの苦みが交わった、そんな不思議な夜。この時、俺は初めて……互いに愛し合っていた、両親の気持ちを理解したような気がした。




