第16話 ずるい匂い
いろいろと買い出しをしていたら日が沈んでしまった。アパートに帰りついた俺は、薄暗い電灯に照らされた自室の扉に手をかける。そっと取っ手を捻ってドアを開け、帰宅の挨拶をした。
「た、ただいま帰りましたー……」
「……おかえりなさいっ」
居間の方から、やや怒気をはらんだ言葉が飛んできた。やっぱりまだご機嫌斜めみたいだなあ……。参ったなあなどと思いつつ部屋の中に上がり、手に持っていたレジ袋を台所に置きに行く。
「さて……」
いったん居間に行って、荷物やら上着やらを置いてこようかな。綾音さんにもう一度謝っておきたいし。なんて考えた俺は、台所を出て歩き出した。
「あの、綾音さん……」
「……」
居間に入ると、綾音さんはいつも通りに集中して仕事に取り組んでいた。丸眼鏡をかけて、額に皺を寄せてパソコンの画面をじっと見つめている。……話しかけたらまずいかな。いやでも、謝っておかないと。
「綾音さん、今朝は申し訳ありませんでした。せっかく毎日ご飯を作っていただいているのに、厚意を裏切るような真似をしてしまいました」
綾音さんに向かって、ペコリと頭を下げた。親しき仲にも礼儀あり、とは言うけれど。夫婦(仮)であるからこそ――しっかり謝るべきところは謝らなければならないだろう。
「……頭、上げてください」
声に従って顔を上げると、綾音さんがやや顔を赤くして俺から視線をそらしていた。怒られるかと思っていたから、拍子抜けしてしまう。
「わ、私こそ……今朝はすいませんでした。ごめんなさい、面倒なこと言って」
「いえ、その……」
「ひゅーがさんだって若いんだから、夜中にお腹が空くことだってありますよね。でも私、つい怒っちゃって……本当にごめんなさい」
綾音さんはきまりが悪そうにもじもじとしながら、髪を耳にかけた。……よく見たら、髪型をポニーテールにしている? 料理のとき以外はダメって言っていたのに。
「綾音さん、その髪……」
「!」
ついつい気になって、後頭部を見てしまう。綾音さんは目を丸くして、何かを否定するように両手を横に振った。
「ちっ、違うんですっ! 自分の気分転換って言うか……」
「もしかして――」
「だから違います! 別にっ、ひゅーがさんのためじゃないですからっ! ほっ、本当ですからねっ!?」
綾音さんはふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまった。もしかして……この人なりに思うところがあったのだろうか。俺の機嫌を損ねてしまったのではないかと心配して、ポニーテールにしてくれたのだろうか。
「……ありがとうございます、綾音さん」
「なっ、なんのお礼ですか!?」
「いえ。気を遣ってくださったんですよね」
「こっ、このうなじフェチっ! 変態! ラーメンとうなじにばっか浮気してっ!」
「してないですけど!?」
「そんなこと言ったって、今日はぜ~~~ったいに晩御飯作りませんからねっ!!」
朝と同じ轍は踏むまいと気合いを込めるようにして、綾音さんは自分の腕を組んだ。普段は大人の余裕があるのに、今日はまるで頑固な子どもみたいだな。
「分かってますって。今日は自分で作りますよ」
「かっ、勝手にしてくださいっ!」
「綾音さんこそ、晩御飯どうするんですか」
「わっ、私はまだ仕事しているんですっ! 邪魔すんなっ! しっしっ!」
「ここ僕の家なんですけど!?」
恥ずかしくなってきたのか、綾音さんは手を振って無理やり俺を居間から追い出した。……やっぱり、二人分の材料を買ってきて正解だったな。そんなことを考えながら、台所に向かった俺であった。
***
ただひたすら、無心で野菜を切っていく。玉ねぎはくし切りにして、じゃがいもは食べやすい大きさにカット。男爵いもの方が煮崩れしやすいからとろみがつく、なんて母親から教えてもらったことを思い出す。
「おっと」
鍋を熱しておくのを忘れていたので、コンロの火をつける。そして容器の蓋を開け、鍋底にサラダ油を引いていく。温まったら野菜と肉を入れて、軽く火を通すんだったな。
それにしても、台所道具のほとんどが綺麗に使われていてビックリした。昔から使っているものばかりなのに、綾音さんはいつも丁寧に扱ってくれているんだな。こんなところにもあの人の人間性が垣間見える気がする。
「よいしょっと」
まな板から落とすようにして、鍋の中に切り終えた具材を投入した。素早くへらを取り出し、均等に火が通るように軽くかき混ぜていく。油が熱されてじゅうじゅうと良い音が響き、食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始めた。
「ん?」
「!」
ふと後ろを振り返ると、綾音さんが柱の陰からこちらを覗いていた。俺に気づいたのか、慌てて身を隠すように引っ込んでしまう。俺が料理するのが心配なのか、それとも単に匂いにつられただけなのか。……あの人もお腹が減ってるってことかな。
ひとしきり炒めたあと、鍋に水を加えて煮込んでいく。時折あくをすくいながら、丁寧に丁寧に具材に火を通す。ふと……子どもの頃に母親の料理を手伝ったときには、いつも自分があくとり係をしていたことが頭によぎった。
「……」
しばらく固まってから、ハッと目を覚ました。そろそろ煮えてきたみたいだし、ルウを入れないと。
「火を止めてからじゃないとダマになりますよ」
「えっ?」
ルウをパックから取り出そうとしたとき、綾音さんの声が聞こえた。しかし慌てて振り返ってみても、その姿は見えない。やっぱり心配されてるのかなあ……。
言われた通りに一度火を止めてから、ルウを鍋の中に割り入れた。しばらくしてからコンロのつまみを捻り、再び弱火で煮込んでいく。ルウが溶けていくごとにスパイスの香りが漂い、鍋の中身にとろみがついていった。
「ん」
炊飯器がピーピーと電子音を鳴らす。飯も炊きあがったし、もう少し煮込んだら完成だな。しっかり鍋をかき混ぜて、っと。……なんだか、また視線を感じるな。
「……」
「あ、綾音さん?」
振り返ってみると、綾音さんは身を隠すことすらせずにじっと俺の方を見ていた。丸眼鏡をおでこにかけて、何やら恨めしそうな視線を送ってきている。
「ど、どうかしましたか?」
「ずるいですっ!」
「へっ?」
「カレーはずるいじゃないですかっ! カレーはっ!」
「な、なんのことですか?」
「もうっ! 何作ってても知らんぷりしようと思ったのにっ! 意味ないじゃないですか~~っ!!」
綾音さんはその場で地団駄を踏んでいた。やっぱり今日は子どもっぽくて可愛らしい。悔しそうにしている綾音さんに向かって、俺は静かに声を掛ける。
「カレー、召し上がりますか? 僕が作ったのでよければ」
「……ちゃんと福神漬けもつけてくださいねっ!」
そんな捨て台詞を残して、綾音さんは居間の方に引っ込んでしまった。本当に見ていて飽きない人だな、なんて思いながら……カレーをかき混ぜる俺であった。




