帰りたくない場所
俺の自宅は灯里の家から近くにある6階建ての公営住宅だ。築年数は20年程度で見た目にはまだ新しい。
ひと昔前の公営住宅ならば直線的に空間を作り出したような無機質な造りであったろうが、この頃からはデザインにも多少の手ごころが加えられているようにも思う。
壁面もパターン化された凹凸で作られているし、天井も単にフラットではなく、切り妻屋根のような形状もあれば端には四角錐のような部分もある。
建物前には緑地や憩いのための小さな公園、遊具も整備され、歩道にもデザインされたタイルが敷き詰められてた。
総じると、一見して綺麗でオシャレな建物と言えないこともない。
だが公営住宅はその性質上、所得の少ない世帯のために存在し、一定以上の所得があると入居ができない施設だ。
故に貧困、高齢、障害、母子家庭、あるいはそれらを組み合わせた世帯など、社会的に弱者側の人間が集う居住空間であり、俺自身もまた母子家庭として母親とふたり、暮らしていた。
「ただいま」
俺が玄関の鍵を開けて部屋に入ると、すぐに母親の声だけがリビングから飛んできた。
「遥斗!? あんた、受験はどうしたの!?」
俺はこの質問に母親の生き様が透けているように思えて嫌気がした。
今日予定されていた医大の受験ならとうに中止の旨が発表されていた。いや、それ以前に現状の認識ができていないのが明白だ。
「中止だってさ。延期されるかも知れないし、俺、勉強するから静かにしててね」
俺はそう言って母親と顔も合わせずに自室にこもる。別に今さら本当に勉強をしようとしている訳じゃない。単に母親を遠ざけるための言い訳だ。試験だって再試もないだろうことは容易に想像ができる。
「延期って……あんた、また東京まで泊まりで行くお金なんてあるの?」
ドアの向こうから嫌な声がする。
「バイトしてるから平気だよ」
俺はドア越しに答える。
「ほどほどにしてよね、こっちも大変なんだから」
「わかってるよ」
普通に平均的な生活をしている人には、この会話の本当の意味はわかるまい。俺もわざわざその意味など考えたくもない。
とにかく、俺の親は底辺だった。
父親はそれなりに良いところに勤めていた人間だったらしいが、俺が物心つく前に性格の不一致で離婚したらしい。
母親は一方的に相手の欠点を俺に挙げて聞かせたが、こうまで最低な親ともなると実際のところは疑いたくなる。
むしろ遺伝というものがあるのなら、要領のいい俺は父親の血を濃く受け継いでいるのだろう。
それだけが救いだった。
だが、母親とするとそれがまた面白くないのだろう。
俺が成長するにつれ、俺と母親の距離は遠ざかっていった。
灯里の家のような暖かい家庭とは対照的だ。
本当なら、大事な娘をうちのような家庭の人間とは関わらせたくないと思うのが親心だということも知っている。
だが、灯里の両親はそうじゃない。
どうして俺のような身分の者を暖かく迎えてくれるのか、考えても良くわからなかった。
最初は俺が優秀で将来にある程度見込みがあるからなのではないかとも考えた。だが、幼なじみであれば昔から付き合いもあり、俺たちが小さな頃からなんら態度が変わっていないことを考えるとそれだけが理由とも考え難い。
結局のところ俺は、灯里の両親を途方もない水準で人格の完成した人間としか思えなくて、そのことが彼ら家族に対する絶対的な信頼に繋がっているのはたしかだった。
だから、おじさんが日本が空に浮いていると言えば、即座にそれが真実だと信じられたのだ。
しかし。
これから、どうなるのだろう。
この国が、と言えばそれもであるが、実のところ俺が内心で恐れているのは、俺自身のアイデンティティに関わることだ。
今の俺は、何者にもなれていないただの高校生だ。だが、今日という日に何も起こらなければ、きっと俺はそれなりの社会的ステータスを手に入れていただろう。
今日という日に何も起こらなければ。
だけども実際にこんな状況にでもなってしまえば普通の暮らしは望めない。
既存の制度に則って進学や就職もできなくなるだろうし、そうなれば俺自身に残されたステータスは最底辺の家庭の人間ということだけになってしまう。
とてもではないが、灯里と釣り合えるような人間とは言えなくなってしまう。
考えようによってはお金の価値が変動してしまえば貧富の格差もまた変わるのだろうが、何者にもなれなかったとなれば、それはやはり俺のアイデンティティや自尊心を根底から揺らしてしまうだろう。
とても歯がゆい思いがあった。
その思いはたぶん俺がこの家にいる限り消えてくれはしないのだろう。
それならばいっそ俺だけが異世界転移となってしまえば良かったのに、なぜこう中途半端に嫌な社会のルールごと転移してしまったのだろう。
こうなったらむしろ、異世界人との関係性やモンスターなどの事情によって予測不能な事態になってしまったほうが俺にとっては都合が良いのかも知れない。
そんなふうに考えてしまっては、何をバカなことを考えているんだと自己嫌悪した。
その予測不能な事態によって死にかけたばかりだというのに。
俺は自分の両手を見つめ、先ほどまで血塗れになっていたことを思い出し、気持ち悪くなって洗面所に駆け込み、もう一度良く手を洗った。
自室に戻ってベッドに腰を降ろすと、今までの疲れが一気に出て、俺はすぐ横になった。
すると身体ごと周りの空間がうねるような目眩が襲ってきて、俺の身体と空間の境界が歪んで感じられるようになってきた。
たぶん、自分自身を見失っていたのだろう。
俺は結局、俺自身のことをどう思っているんだろう。
優秀であり、医師になるつもりだった。
だけども別に、そうじゃなくてもいいとも思っていた。
だが結局、何者にもなれない可能性が目の前に現れると急に恐ろしいことのように思えてきて、ならばいっそ社会ごと壊れてしまえばいいなんて厨二病のようなことを考え出す。
そんな状況になって死にかけて、困っていたのに、だ。
なにがミサイルが落ちてくれたほうが、だ。
こんなことになるのなら、もう少し自分自身と正直に向き合って生きてくれば良かった。
俺は、いったい何になりたかったんだろう。
そんなふうに良くわからない、意味もないことをグルグルと考えながら、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。