むしゃむしゃ、ペッ!
灯里の家からわずか数件先の家屋に落下してきた巨大なドラゴンはすでに手酷く傷を負っており、また、その獰猛な爪や牙を以て敵を切り裂いたのだろう、その身体は何かの返り血で赤く染まっていた。その身体はとても大きく、飛竜とは比較にならない。
とたんに俺は恐怖で身動きができなくなり、後ろによろけて尻もちをついてしまった。
恐怖によって視線すらそらせずにいた俺は、やがてドラゴンが何かを咥えてたことに気がつく。
飛竜だ。その口からはみ出した翼の形には見覚えがある。
いや、それだけではない。
その口からはみ出して見えるのは飛竜のパーツだけではなかったのだ。
「うおおおおぉっ!」
そのとき俺が聞いた上空からの咆哮は、ドラゴンと戦っていた何者かの声だったのだろう。
俺の視界に一瞬だけ落ちた何かの影が、その者が空を舞いながらドラゴンと戦っていたことを告げていた。
そして手負いのドラゴンは自分に迫り来る何者かを迎撃するため、その口に咥えたものを放り捨て、地面から滑らせるよう上空に向かって炎を吐き出した。
「うわあああぁっ!」
見上げることもできず、何が起きたのかもわからない俺だったが、ただひとつわかったのは、その後訪れた静寂によってドラゴンの戦闘が終わったということだけだった。
ドラゴンのブレスのあと、何かが地表に落ちたような音はしなかった。
それはそうだろう。
ドラゴンのブレスが滑り上げて行った先にあったはずの建物が消滅しているのだ、何者かなど跡形も残るまい。
もしそれがほんの少しだけズレてこちらに向けられていれば、俺も灯里も命がなかったという訳だ。
そして今、手負いのドラゴンの視線は呆然と残された俺に向けられている。
一巻の終わりだと思った。
だが、幸いなことにドラゴンはゆっくりとその巨躯を転がり起こし、俺のことなど気にしていないかのように空へと飛び去って行った。
「た、助かったのか……?」
俺は呆然と呟いた。
だが助かったとはいえ、たとえようのない絶望感だ。この先、あんなものが跳梁跋扈する世界で生きていくことなど。
そう思いながら立ち上がろうとすると、俺はそこで初めて自分の手が何かでぬめっていることに気がついた。
何かと思って視線をやれば、いつの間にか俺の手は何かで赤く染まっていた。
その何かとは、ブレスを吐き出す前にドラゴンが口に咥えていた何かで、放り捨てられたそれは右手右足を失った人間だったのだ。
俺はその回らない自分の頭で無理にでも状況を整理しようとする。
この異世界の人間は飛竜に乗ることもあるらしい情報がある。
そしてドラゴンと戦っていた何者かの声は、おそらく人間のものだった。
そしてドラゴンが咥えていたのは飛竜と何かであって、吐き捨てられて俺の隣に転がったそれは人間だった。
つまりは、飛竜を駆る人間がドラゴンと戦って負けた。
なんだ、それだけのことか。
それだけのことに巻き込まれただけで死ぬところだったのか、俺たちは。
俺は徐々に冷静さを取り戻しつつある頭で再び自分の両手を見つめた。
目の前に転がる人間の流す血液に塗れた手だ。
「う、うわ……うわあああぁっ!」
俺は動かない人間すらも恐れるかのように情けない声を発しながら転げて遠ざかった。
これでも医師を目指そうとしていた俺だ。別に損傷の激しい身体に恐れをなした訳ではない。
俺も、灯里も、容易くこうなりかねない状況だと想像できてしまうことが恐かったのだ。
どれくらいの間、その転がった人間をただ息を荒くして見ていただろうか。
まだ生きているかの確認もせず、助けようとも思わず、俺はただ放心していたのだ。
そのときなんとなく、俺は医師には向いていないのだと、自身のなかに諦めの気持ちが浮かんで来るのを感じていた。
だがそれも仕方がないだろう?
ただそこにいたという理由だけで死んでいたかも知れないんだ。これからそんな状況が日常化するならば、いったいどうして医師が必要になるのだろう。
たとえば今の俺にも医師としての知識や経験があって、目の前の彼を助けられたとしても、それが今の状況に対してどれだけの貢献になるのだろう。
俺は無力だ。
「う……うぅ……」
やがてもう死んでいると思っていたその人間がうめき声を上げたのを聞き、俺はようやく我に返った。
助けなければ! 少なくとも止血を。
「灯里! ちょっと来てくれ!」
俺はすぐさま窓から灯里を呼びつつ、自分のベルトを外して彼の右足をきつく絞め上げた。
彼は右手も失ってはいたが、その傷口は右足とは違い、焼け切れたものだった。
そのあとやってきた灯里は彼を見るなり悲鳴を上げて腰を落とし、また泣き始めてしまったので、結局、救急車を呼んだりと奔走したのは俺だった。
本当にこんな状況で救急車が来てくれるのかと不安に思うところがあったにせよ、結果的には彼は救急車で搬送されて行った。
通報の際、彼がどうやら飛竜に乗ってドラゴンと戦っていた人間の生き残りであることを告げたのが功を奏したのかも知れない。
貴重な外界からの情報源になりえると暗に言っているのを汲んでもらえた訳だ。
もちろん同時に医師である灯里の父にも連絡をし、口添えをしてもらったのも有効だったのだろう。
ともあれ彼は一命を取り留め、灯里の両親が勤める近隣で一番大きな病院へと運ばれることになったのだった。
そのあと買い出しを中止した灯里の両親は母親だけが帰宅し、俺も半ば放心状態の灯里を任せて自宅へ帰ることにした。