墜落したもの
灯里の家は閑静な住宅街に佇む平均的な一軒家よりも少し大きめな家だ。二階建ての正面にはアースカラーの外壁が広がり、ガラス張りのエントランスがモダンで洗練された雰囲気を醸し出している。
前庭には花々や小さな庭木が植えられて季節ごとに彩りを変えるし、玄関には丁寧に手描きされたウェルカムボードまで飾られている。
このウェルカムボードは毎日、灯里も含めて家族が交代で描くのだそうだ。
玄関に入るとただよう上品なアロマはなんと灯里の母が手作りしたもので、他にも香水などを自分で作るのが趣味なのだとか。
実に明るく温かみのある家庭だ。
だが、今日に限ってはそんな灯里の家族にも張り詰めた雰囲気が漂っていた。
俺は灯里を送り届けたあとも家にお邪魔し、その家族とともに政府の発表を聞いていた。
だが、未曾有の事態による政府の第一報はとても信頼に足るものではなかった。
日本は現在、どこかわからない異世界に丸ごと転移していること。可能な限りインフラの維持を継続させるつもりであること。そのために国民には普段どおりの生活をお願いしたいこと。
たったのそれくらいだった。
国民を安心させるために情報を選んでいるのはわかる。不確かな情報を流せないこともわかる。だが、それにしてもその第一報は明らかに情報不足であると言わざるを得なかった。
むしろ、それよりもと言わんばかりにネット上では次々と新しい情報が共有されていく。
既に一部の地域では停電や復旧が繰り返されていること。情報通信ができなくなってしまった地域もあるということ。転移による影響なのか土砂崩れを引き起こしている地域もあること。貨幣などの価値が暴落するか否かの予測に関すること。チート能力や魔法の類は現時点で誰ひとり発現していないこと。
その他、とても追いきれないほどの情報がまるで命懸けの活動であるかのように次々と書き込まれ、収集されていった。
みんな、生きるために必死なんだ。
たぶん政府や関係機関だって、ライフラインの停止と復旧が繰り返されてることからも察するに、ギリギリのところで持ち堪えているんだろう。
「あなた。こんな状況じゃ、私たちはすぐにでも資源の確保をしておいた方がいいと思うの」
灯里の母が言った。
「本当は、こんなに浅ましい行いはしたくないのだけれど、背に腹は代えられないからね」
灯里の父もやむなく同意せざるを得ない。
「遥斗君は一度、自分の家に戻るかい?」
おじさんは俺に対してそんなふうに聞いてきた。普段ならば『一度』なんてそんな聞き方はしないはずだ。
俺は少し考えたあと首を横に振った。
「いえ、よろしければもう少し」
それを聞いて灯里の両親は少し安堵するように表情を緩めた。
「そうか、すまないね。僕たちはこれから少しでも多くの資源を確保しに出掛けてこようと思っているんだが、見てのとおり灯里がすっかり怯えてしまっていてね。できればここで灯里と一緒にいてくれると助かるよ」
「わかりました」
「ありがとう……しかし、大丈夫かい? 遥斗君のご家族は」
「いえ、お気になさらず」
俺は即答した。それ故に灯里の両親は複雑そうな表情を見せたが、今は一刻を争うときでもあり、一度視線を向け合って、すぐにまた真剣な表情に戻った。
「ありがとう。もちろん遥斗君にも手に入れた資源は分配するから安心してほしい」
「すみません、ありがとうございます」
そのあと、灯里の両親はすぐに身支度を整えて出掛けて行った。
ふたりで残された家の中で、塞ぎ込んでいた灯里がようやく口を開いた。
「ねぇ遥斗くん。資源を確保してくるって、いったいどれくらい、私たちは家にこもっていればいいのかな?」
俺は答えに困った。本当は灯里にだってわかっているだろう答えを突きつけるのが正しいことなのかわからなかったからだ。
「わからない。ただ、明日になれば元どおりなんてことにはならないとは思う」
「それじゃあ、日本はいつまで保つの?」
「それもわからない。政府は可能な限り現状を維持するって言ってたけど、それがいつまで保つかなんて、たぶん誰にもわからないんじゃないかな」
「じゃあ例えば、資源が尽きたら、私たち、どうなっちゃうのかな? 食料自給率だって低いって聞くし、原発とかだって、停止しても単純に放置しておいていいものじゃないんでしょ!?」
少し取り乱した様子の灯里の頭の上に俺は軽く手のひらを置いた。
「じゃあひとつ、灯里に問題を出します」
俺はできる限り優しく微笑みかけて言った。
灯里は突然の話に不思議そうにしていたが、俺は構わずに続けた。
「あなたは砂漠に墜落した飛行機の乗客で、たったひとりの生き残りです。状況は日中の酷暑、大破した飛行機の中には留まれません。手元にあるのは①手鏡、②2リットルの水、③身体全体を覆える布、の3つです。さて、この状況で手元の持ち物に優先順位をつけるなら1番に重要な物はなんでしょう?」
灯里はまだ少し不思議そうな表情をしたあと、ゆっくりと答えた。
「暑い砂漠ならとっさに水、とか言いたいところだけど、たぶん遥斗くんのことだから引っ掛け問題で、本当は体表からの水分蒸発を防ぐ布のほうが大事なんじゃないかな?」
それを聞いて俺は軽く笑って見せた。
「正解は①、手鏡なんだ」
「えっ!? なんで!? 水がないと死んじゃうよ!?」
「ああ。だが、墜落なんて事件が起きたら普通はすぐに捜索が行われる。そこで手鏡を使って日の光を上空に向かって反射させていれば、少なくとも日暮れまでには100パーセントに近い確率で見つけてもらえるんだそうだ」
「そ、そうなんだ……でもなんで今、そんなことを?」
「この状況、砂漠じゃなくて大空だけどな。こんなに大きな日本が空に浮いてるんだぞ? 異世界人に見つけてもらえないなんてこと、あるか?」
「あ!」
そこで灯里はようやく俺の言いたいことに気づいたようだった。
「もちろん、水だとか資源が大切じゃない訳はないよ。でも、助けてもらえればそれが一番なんだ」
もちろんその異世界人が友好的か否か、日本人を丸ごと受け入れられるか否か、その他多くの問題は別の話であるが、それを今の灯里の前で言ってしまうのは憚られる。
今は、俺を含めて希望を持てるかどうかが非常に大きな問題なんだ。
「ついでにもうひとつ希望を分かち合おう。たぶんもう、異世界人は日本に接触してきている」
「どうしてそう言い切れるの?」
「ネット上でウワサになってたワイバーンに乗った人間が官邸に入って行ったって話さ……普通だったら鼻で笑うところだけど、俺たちはさっき自分の目でワイバーンを見てしまったからな……」
「でも、人は乗ってなかったよね?」
「ワイバーンにも野生種と人に飼われた種がいるのかも知れないが、俺が言いたいのはそこじゃない。入って行ったのが官邸だぞ? それが本当なら異世界人には明らかに知性がある」
「言われてみれば……それに、一方的な攻撃って訳でもなさそうだよね?」
「少なくとも、まだネット上に攻撃を受けたような書き込みは見当たらないな」
「と言うことは……助かるかも知れないってこと……?」
「そこまではわからないけどな……政府がどんな話をしているのかまでは細かく報道される状況とも思えないし……」
「そっか……情報も、生きるための資源なんだね……」
「そうだな」
「じゃあ、私たちもお父さんたちが出掛けてるうちに、今できる最善をしないと」
「そうだ。この状況で冷静に自分を取り戻せるとは、さすが灯里だな」
「違うよ遥斗くん。すごいのはこんなふうに私を落ち着かせてくれる遥斗くんのほうだよ……私、遥斗くんが隣にいてくれて本当に良かった」
「ま、俺も灯里が隣にいるから無理して冷静でいようとしているところがあるんだけどな」
俺にも照れるところがあったので視線を窓の外に逃がした。
ふたりきりの空間で、自分でも少し灯里と良い雰囲気になったな、なんて思っていたところだった。
だが、それでもやはり俺たちは異世界というものを甘く見ていたのだろう。
そのとき窓の外が一瞬、何か大きなものの影が通り過ぎたかのように暗くなり、そのあとすぐに建物を揺らすほどの突風が吹き抜けた。
そして。
そのあと家の近くで発生した耳を劈くような大音量の咆哮で、俺たちは建物の中にいたというのに頭を抱えるようにうずくまった。
さらに付近で発生しただろう、とてつもなく大きな何かの破壊音。
本当は俺もそれがどういう状況なのか検討はついていたのだが、どうにも認めがたい気持ちがそれを自分の目で見るまではと考えることを拒んでいた。
「なっ、なにっ!? もうやだぁっ!」
先ほどまで元気を取り戻しつつあるかのように思えていた灯里は、泣きながら俺の腕にしがみついてきた。
だが、俺だって恐くなかったわけじゃない。
明らかに元の世界にはいなかった類の獣の咆哮だろう。その声量だけから考えても、建物ごと踏み潰されるのではないかという恐怖を感じざるを得ない。
「灯里、一度外の様子を見てみよう」
「やだっ! 出ないっ! 恐いっ!」
灯里は俺の腕を離そうとはしなかった。
「だが、下手したら家の中だって危険かも知れないんだぞ!?」
しまった! それは言ってしまったあとに気づいた。そんなことを今の灯里に言ってしまったら、そう思ったが遅かった。
「もうやだ! なんでこんなことになっちゃったの!? もう許して! 元の世界に戻してよっ!」
そして俺の腕を離したかと思えば、今度は床にうずくまり、膝を抱えて震えながら泣き出したのだった。
俺は灯里へのフォローに戸惑いつつも、さすがに今の状況を無視する訳にもいかず、灯里の肩に手を置いて言った。
「ごめんな灯里。ほんの一瞬だけ、家の外の様子を見てくる」
それでも灯里は返事もなく嗚咽を漏らすのみだったので、俺はやむをえず彼女を室内に残して外に出た。
自分の目で見るまでは信じない。
先ほど俺はそう思った。
だからそれを見てしまえばもう自分自身にも取り繕うことはできない。
それはワイバーンが可愛く思えるほどの存在感だった。
灯里の家からほんの数軒先の家屋を粉々に粉砕して墜落していたそれは、そこにあった元の家屋よりも大きな姿をしたドラゴンであった。