ワイバーンが領空侵犯してくる
「遥斗くん、お父さんが電話代わってって」
そう言って差し出された灯里のスマホを俺は受け取った。
「もしもし、遥斗君も無事かい?」
いつもなら明るく茶化してくるおじさんのその声には一切の余裕がなかった。
「おじさん! 灯里から状況は聞きました。冗談の類ではないんですね?」
「娘の受験当日に、こんな冗談を言うかい?」
「そうですよね、俺も信じます」
俺は灯里の父親のことを誰よりも信頼しているし、尊敬していた。だからそれだけで彼の言った状況が真実であることを受け入れたのだ。
「遥斗君、落ち着いて聞いてほしい。日本は某国のミサイル攻撃によって滅び、どうやら異世界というらしいね、地球ではないどこか別の世界に丸ごと転移してしまったらしい」
「……それで、空に浮かんでいるというのは?」
「今、僕の目の前には雲海が広がっている。大地が、断絶しているんだ」
「そんな……」
「悲しいけど事実だ。おそらくすぐに国中がパニックになるだろう。電話も、電気も、いつまで使えるのかわからない状況だ」
「そんな……どうしたら?」
「残念だけど、今は安全を第一に考えて受験は諦めよう。それはさっき灯里にも話した。それよりもまず、君たちはすぐにでも東京を離れるべきだと思っている」
「俺もそう思っていたところです」
「遥斗君。君、たしか自動車の免許を取得していたね?」
「はい。先日、無事に取得しました」
俺は高校三年、18歳になった時点で自動車の免許を取得していた。親には頼らず、冷凍食品の製造工場でバイトをし、自分で得たお金で教習所に通ったのだ。
「なら、すぐにレンタカーを手配しよう。灯里も一緒にこっちへ連れて来てほしい」
「わかりました」
「ありがとう。できれば遥斗君たちの現在地がわかれば最寄りのレンタカー店がわかるんだが……」
「それは大丈夫です。今、街の様子を見ていて看板を見つけましたので」
「さすが遥斗君は冷静だね。お金のことは心配しなくていいから、なるべく早く行動に移したほうがいいだろう。今いる駅の名前と見えたレンタカー店を教えてほしい。遥斗君たちが向かっている間に僕が手配しておくから」
「ありがとうございます、では……」
俺は言われたとおりの情報をおじさんに伝え、スマホを灯里へと返した。
「灯里、パニックが大きくなる前に東京を離れよう。車を借りて家に帰るんだ」
「うん、わかった!」
俺と灯里はすぐに思考を切り替えて、駅の改札を飛び出し、駆けた。
見知らぬ土地で、車の運転も初心者で、おそらく衛生もないのでナビは使えないだろう。
考えてみれば不安ばかりに囚われそうな状況だというのに、不思議とそのときはそんなことを考えていなかった。
結果的に素早く行動に移せたことが幸いしたのか、俺たちはすぐに車を借りることができた。
お店の人にしても今しがた体験した不思議な出来事を現実だったのか夢だったのか、判断もつかないだろう混乱のうちに俺たちの勢いに押し切られ車を貸してくれたような状態だった。
俺と灯里は青看板等を頼りに高速道路に乗り、地元へと急いだ。
まさか灯里との初ドライブがこんな形になるとは思ってもみなかった。
「私たち、どうなっちゃうのかな?」
走る車の助手席で灯里が神妙に言った。
「わからない」
俺は端的にそう答えた。
「なにせ情報がないからな……異世界にしても世界観や周辺の国などによって変わってくるだろうし……少なくとも日本が空に浮いている時点で魔法か超文明の類が確定している」
「魔法……? 超文明……?」
「灯里には馴染みがないだろうが、異世界にも色々な世界観があるんだよ。剣と魔法の世界だったり、モンスターがいたり」
「モンスター……?」
「しかもわりと不味いのは、日本人がチート能力を平等に割られちまった関係で、おそらく誰ひとりとしてモンスターに対抗できないだろうことだ」
「ど、どうするの?」
「モンスターがいない世界であることを祈るしかないんだが……」
そう言いかけたあと、俺は言葉を失ってしまった。それは俺の視界の端にあるものが映り込んでしまったからだ。
翼の生えた爬虫類のような姿に鋭い牙、そして爪。悠々と空を泳ぐその生態は、まさしく想像上の生き物であった竜種だ。
俺の運転する車の左方上空を、翼を広げて滑空するように飛んでいる。領空侵犯も甚だしい。
「は、遥斗君……あれ、なに?」
「ドラゴン……いや、ワイバーンに近いのかも知れない……」
「ヤバいの?」
「たぶん襲われたら為す術もないな……最悪なことに、ここはモンスターありの世界らしい」
「そんな……」
灯里の顔はまた青くなった。
もちろん俺だって恐い。
しかし震えているばかりにもいかない。少しでも生存確率を上げたければ情報を集め、色々な検証もしていかなければ。
「ステータスオープン!」
とりあえず俺は言ってみることにした。しかし何も起こらない。
「遥斗くんなに? なにそれ?」
「気にするな。異世界に来たらまず試してみることのひとつなんだ」
俺はそう言いながら焦燥感を募らせていた。
おそらくは、本当に俺たちの能力は地球にいたときとほぼ変わらない。チート能力どころか魔法すら使えないのだろう。
俺たちは勇者じゃない。みんなで少しずつ健康になるだけでモンスターの闊歩する異世界に来てしまったのならば絶望的だ。
元よりライオンや熊にだって勝てない普通の人間がモンスターなんかに敵うはずがない。
こうもなればあとは銃器など既存の武器でどこまで抵抗できるかにもよるが、そもそも平和の国だった日本ではそんな物を持っている人を探すほうが難しい。
逃げるにしても日本が空に浮いた孤島である以上、手段は制限されるし、仮に飛行機が使えたとして周辺の状況がまったくわからない状態でフライトするのは命を捨てるような行為だ。
だがもし、そんな状況でワイバーンのようなモンスターが日本に居座ってしまったら、俺たちは常にその存在から隠れるように生きていかねばならなくなる。
早くも詰みか……?
それとも警察や自衛隊などに期待してもいいのか……?
考えれば考えるほど悲観的な方向に想像が進んでしまうのは俺の悪いところだ。
「灯里。悲報を伝えておくぞ。俺たちは、捕食される側に回る可能性が出てきた」
「うそ……だよね?」
「まだ可能性の話だがな。もしもあんなモンスターがうようよいるならって話だ」
「じ、自衛隊……とかは?」
「それだって今や日本は孤島なんだ、資源が有限だと考えればいずれ……」
「じゃ、じゃあ! 異変に気づいた異世界の人たちが助けに来てくれないかな!?」
「そうだと……いいよな。俺もそう思いたい」
そのあと、車内はしばらく静かになった。
同じことを言うが、灯里との初ドライブだ。
「そ、そうだ! テレビかラジオつけよ! なんで私、気づかなかったかなぁ……」
沈黙を切り裂くように灯里が声をあげた。言われてみれば俺も気が回らなかった。
運転に集中する俺の代わりに灯里が車のアクセサリーを操作して、結局使えたのはラジオだった。
某国のミサイル、おそらく全国民が体験しただろう転移にまつわる騒動、早くも一部で始まったパニック、一部の地区での停電と復旧、そして政府の発表を待つ声。
そんなまとまらない緊急放送ばかりが流れていて、結局のところ、東京から二〜三時間かけて地元へ戻るまでの間、取り立てて有益な情報は得られなかった。
ただ、なんとなく得られた情報からは、既存の施設で使用できる資源は大体そのまま使用できていることがわかってきた。もちろんそんな状況がいつまで維持できるのかは依然として不明なままであったのだが。
ネット上では不確かな情報が溢れかえり、ワイバーンに乗ってきた人間たちが官邸に入って行ったなどという嘘のような情報までもが平然と飛び交っていた。
本当はもっと大事なことを考えなければいけないのに、もしかしたら領空侵犯をしていたのはワイバーンではなく俺たち日本のほうなのかも知れないな、などとおおよそどうでもいいことを俺は考えていた。
たぶん俺はまだ、現状をどこか現実として認識できていないところがあったのだと思う。
俺たちの車が灯里の家について、灯里が母親に飛びついて泣き出したのを見てもまだ、それが夢の中の出来事のように感じていた。
「娘を連れ帰ってくれて、本当にありがとう、遥斗君」
呆然としていた俺の肩に手をおいて、おじさんがそう言った。
「どうやら、この件について間もなく政府から発表があるみたいだよ。ぜひ遥斗君も見て行ったほうがいい」