日本、空に浮かんでもうてます
俺が気づいたとき、すでに身体の輪郭は失われていた。それなのに意識だけは鮮明にある不思議な状態だ。
背景も何もない真っ白な空間、いや、空間なのかどうかもわからないところだった。
わけもわからずにいる状態の俺に、どこからともなくこんな声が聞こえてくる。
「あれ!? なんでこんなに転移待ちの人が溜まってんの……? あ〜、もしかして日本が全滅しちゃった!? あっは、ウケる〜」
俺にはその声の主が誰で、どこからそれを言っているのかはわからない。
「でもまいったな、今、手持ちのチート能力って三人分くらいしかないんだよな〜」
ただ、頭の中にそれが聞こえるような感覚だと思った。
「まいっか。日本人て平等が好きみたいだし、チート能力も平等に割ろっと」
おい待て! なんのことか良くわからんが、せっかくのチート能力も三人分を日本の人口で割ったらほぼ無意味なことくらい俺にもわかるぞ!
俺はそう思ったが、その声の主にはまるで届いていないようだった。
「これで良しっと。ちょっとは健康になるんじゃない? それじゃ日本のみなさ〜ん。新しい世界でも頑張ってくださ〜い」
声の主はそう無邪気な口調で言い、それを聞いた俺の意識は再び薄れ始めた。
その僅かな時間の邂逅がなんであったのかはわからない。
だが、俺の意識が戻ったときにはもう、目の前の光景はハッキリと世界の輪郭を持っていた。
駅のホームで止まった電車、開いたドア。対面するホームで次の電車を待つ人たち。
路線や時刻を告げる電光掲示板に、改札口を示す案内板、カラフルな広告。
なんら代わり映えしない、想像どおりの都会の風景。
「なんだったんだ……今の……?」
もし先ほどのが幻覚の類なら、とうとう俺は受験でぶっ壊れてしまったのだろうか。
「もしかして、遥斗くんも見たの?」
そんな声が聞こえて初めて、俺は隣に灯里がいることを認識した。
「見たって、何をだよ?」
「あはは……私どうしちゃったんだろ? なんかね、ミサイルが飛んできて、みんな死んじゃったのかな? そしたらなんか神様みたいな人の声が聞こえてきて……」
「同じだ、俺と……」
「わかんないけど、新しい世界がどうとか言ってた」
「だけど、それにしちゃあ何も変わらない街の光景じゃないか」
「そうだよね……あはは、受験疲れかな? なんだか私、壊れてもうてます」
灯里は拳を自身の頭に当ててとぼけて見せた。俺もそれを苦笑いで受けて、気のせいだと思うことにした。
だが、それにしては脳裏から離れない恐怖にも似た焦燥感。
こういうときこそ冷静に、そう思って周囲に目をやってみると、どうも先ほどの幻覚やら幻聴を体験したのは俺たちだけではないことがわかった。
乗客の誰もが口々に先ほど俺たちが体験したことを半ばパニックに近い状態で話している。
「灯里、やっぱり何か変だ。一度電車を降りよう」
「え!? でも受験は!?」
「時間には余裕を持って出ただろ。大丈夫、次の電車でも間に合う」
「わ、わかった」
俺は開いたままのドアから灯里の手を引いて飛び出した。
東京に不慣れな俺にはそこが何処の駅なのか、そして駅名がわかったところで地理的な情報がまるでない。
だが、そこがありふれた普通の、日常的な風景のままであることは想像にかたくない。
だがそのときは周りの人々もみな同じようにあの体験を経たのだろう、誰もが異常に取り乱していた。
風景は同じなのに、まるで異世界に迷い込んだかのような非日常感。背中に刃物を突きつけられたような緊張感が引いてくれない。
「遥斗くん。私、お父さんから電話きた!」
俺は黙って頷いて返答をし、灯里はスマホを自分の耳に当てた。
その間、俺は少しでも状況把握に努めなければならない。
先ほど見たまま聞いたままの情報を素直に受け取って仮説を立てるならば、日本はミサイル攻撃によって全滅し、異世界に転移したことになる。
ただそれを容易く信じられるか否かで言えば答えはノーだ。しかも今日は受験当日で、判断をミスれば一年を棒に振る。
だがしかし、非論理的だが俺の直感が答えを強烈に突きつけてくるのも確かだ。
それに周囲の様子を見ていれば、この仮説の真偽によらず、これからパニックが広がることが容易にわかる。
そうだ。思えば別に俺はそこまで医師に拘泥している訳でもなかった。あとからいくらでも修正のきく能力は有しているつもりだ。
だとすれば今すべきは、これから俺と灯里に降りかかるだろう災難からどう逃れるか、それを考えることだ。
いくら東京に多くの資源があるとしても人口が多いうえに俺と灯里は周辺の土地勘がない。最悪、暴動に巻き込まれれば詰んでしまう。
では速やかに避難するとして何処に向かうべきか。決まっている、生活拠点や頼れる者の多い地元に向かうべきだ。
最適な移動手段は何か。幸い電車は動いている様子だが途中で止まるリスクも考えなければならない。そうなると動力が独立している自動車の類が望ましい。
さて、ではその入手手段はどうすれば……
こういうときは俺が灯里を守らなければならない、そんなことを考えていた。
やがて父親との電話をしていた灯里が青くなった顔で俺に聞いてくる。
「ね、ねえ。私達の地元って、海が見える町だったよね?」
耳から少しスマホを離して言う。
「海、なくなっちゃったって……」
灯里はかなり混乱している状態だった。
「落ち着け灯里。何を言ってるのかサッパリわからん。俺にもわかるように説明してくれ」
俺はそう言う俺自身が混乱していることを承知して言っていた。そしてそれは灯里にもとっくに気づかれているだろう。
だが灯里はそんなことを少しもからかうことはせず、真面目なままの表情で俺に告げた。
「なんか日本、空に浮かんでもうてます」