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聖女と騎士のはなし  作者: 笑川雷蔵
16/29

緑なす 梢のむこうに・4


 なんだ、いったい。


 本陣にただよう、ものものしい雰囲気にレオは目を見張った。

 天幕の前では卓に広げられた地図を囲み、副団長やボース卿をはじめとする年配の騎士たちやガスパール老が深刻な面持ちで話し合っている。

 周りを行くのは、ふだん修練場で容赦のない野次を飛ばしてくれる顔見知りの騎士たちだ。先ほどまで見せていた陽気な笑顔をすっかりぬぐい去り、鎖かたびらに剣の鞘や槍の柄が触れては立てる音の中、各自点呼、奥へ向かった連中を呼び戻せと声を飛ばしている。

 彼らのそんな顔を、レオは見たことがある。あの夏の森で、顎を射抜かれながらなお呪詛の声を上げてもがくけものへと、剣を振り下ろし槍を打ち込んでいた<狼>たちの顔だ。

「いたのか、坊主」

 振り返ってみれば、得意の槍を手にサイモンが立っている。春に徴用されたばかりの少年兵が右往左往するさまを水色の双眸でとらえるや、長老がたの所へ向かえと促す姿からは、パン屋の跡取り娘に張り倒されていた時の情けなさなど見つけることができない。

「真面目小僧はどうした、一緒じゃないのか」

「ヴァルターなら、ダウフトとじゃじゃ馬についているぞ」

 ただならぬ事態は察したものの、何があったのか分からずに答えたレオに、サイモンは少年のそれよりも明るい金髪をかきむしった。

「ばらばらに行動するなと言われただろうが。また雷を食らいたいのか」

「だからどうしたんだ。けものでも出たのか、シェバの象でも隠れていたのか」

「ああ、けものの方がまだましだろうさ」

 忌まわしき魔物の名を口にして、すぐさま<母>への加護を願うしるしを切ると、ウォリックの騎士は声をひそめた。

月牙狼(げつがろう)だ」

「聞いたことないぞ、そんな奴」

 首を傾げるレオに、そうだろうなとサイモンは応じる。

「今じゃ、ご隠居が孫に聞かせる昔ばなしにしか出てこないからな」

 人が足を踏み入れること能わぬ、緑深き森の化身と呼ばれる神聖なるけもの。

 翼のもとに(あした)を呼ぶ鳥たちの祖ストラフィリ、蒼き七つの大海を流離(さす)らうティアマト、峻厳なる山々にかなしみを埋めるアスタナの竜――<母なる御方>が産みたもうた愛し子たちに並ぶものとして、狩人や木こり、薬草摘みといった、森の恵みにあずかる者たちに崇められる守護者だ。

「この森には、砦が建つよりもはるか昔から御使いがいたそうだ。町に住む奴なら誰でも知っている」

 そう語るサイモンは、遠い西の生まれであるはずだ。彼が森の聖獣にまつわるはなしを知っているのは、思い人との逢瀬の間に聞かされたためなのだろう。

「で、どうして月牙狼とやらで大騒ぎしているんだ?」

 祖父が治める広大な領地に森はいくつもあるけれど、<帰らずの森>のように迷い込んだものを腕に抱いて放さぬ樹海はない。まだぴんと来ないまま問いかけるレオに溜息をつくと、サイモンはいいから俺のはなしをよく聞けと念を押してきた。

「月牙狼は、俺たちよりはるかに古い一族だ。頭は回るし、ひとの数世代ぶんは軽く生きる」

 灰色熊すら一撃で倒す鋭い牙と爪、己が版図と定めた緑の王国を駆け抜けてゆく力強い四肢。たたずむ姿は、さながら地上に降りた銀の月――猛々しくも美しい姿に魅せられて、その毛皮を得たいと望んだいにしえの王侯も多かった。かの円卓の賢王も、自ら狩ったみごとな獣を美しき妃マルグウェンに贈ったと伝えられているほどだ。

 ところが至宝を望む者は多くとも、いざ得んとする立場になると話はまた違うもの。

 王妃の幸運をうらやんだある高慢な貴婦人は、許婚(いいなずけ)の騎士に愛のあかしとして月牙狼の毛皮を所望した。彼女の願いを叶えるべく、弓矢を手に取り深い森に分け入った男は、それきり賢王の宮廷に戻ってくることはなかったという。

「森に惑わされて朽ち果てたか、これ幸いとわがままな許婚から逃げ出したか。そいつがどうなったかは<母>のみぞ知るだな」

 サイモンが語る哀れな騎士のはなしも、途中から聞いてなどいなかった。さっきから首筋をすうすうと撫でてゆく、この嫌な感じはいったい何なのか。

「もちろん、月牙狼だって生き物だ。ちょっとした好奇心で、庭先でやかましく騒いでいる俺たちの様子を見てやろうと思ったのかもしれん」

 一頭の雄を(おさ)に戴き、群れで行動する灰色狼とは異なり、強大な力と長命ゆえに頭数の少ない月牙狼は独りで生きる。血を交えるにふさわしい相手とめぐり会った時か、あるいは自らの周りで無邪気に転げ回る、小さな生命を守っている時を別として。

「北のはずれで、偵察に当たっていた兵士が月牙狼の足跡を見つけてな」

 ふもとの町で生まれ育った若者が、幼い頃から聞かされていた森の御使いにまつわる言い伝えは、本人が思っていた以上に心の奥底に深く刻みこまれていたらしい。

 力強くも優雅な足跡の間を弾むように、かわいらしく添っていた小さな足跡。どうやら獣が雌、それも子連れの母親だと察した兵士は大慌てで角笛を取り出し――森じゅうに調子っ外れな音色を響かせたというわけだ。

「まあ、この世でお袋に勝てる奴なんぞいるわけがないしな」

 およそ母なるものほど、強くたくましく、やさしくも恐るべき存在はない。

 <帰らずの森>の女王が、会えば会ったで何かと煩わしい人間たちのすぐ側までやってくる理由があるとすれば、ただひとつ。

「……子供とはぐれた」

 呟いたレオに、おそらくなとサイモンはうなずく。

「親と違って、子供は見てくれからして弱々しいからな。おおかた小鬼にでも襲わ――どこへ行くっ」

 駆け出そうとしたところを、サイモンに襟首を掴まれて引き戻される。放せと懸命にもがいたところで、まだろくな筋もついておらぬレオの力では振り払いようもない。

「坊主なんぞ向かったところで相手になるか、力の差を考えろ」

「違うッ」

 叫んだレオに、年配の騎士たちが気づいたらしい。怪訝そうないくつもの顔がこちらを眺めやる中、卓から離れて歩んできた副団長が騎士と少年の前に立った。

「何を騒いでいる」

 厳しい声音にもひるむことなく、レオは青い双眸で副団長をまっすぐにとらえる。

「獣の仔を拾った。たぶん月牙狼だ」

 少年から飛び出した言葉に、阿呆ッとサイモンがうなった。

「どうして、そういうことをすぐに言わない」

「ウォリック卿の話が長いんだッ」

 口々に言い合うレオとサイモンだったが、鋼のごとき一瞥にぴたりと口を閉ざす。それを興がるふうもなく、砦の男たちから鬼と怖れられる老騎士は続けろとレオを促した。

「ここから北の、ジェムベリーの茂みでダウフトが抱えている。じゃじゃ馬とヴァルターも一緒だ」

 聖女が月牙狼の仔といる事実にさえ、副団長は眉ひとつ動かそうとはしない。何てこったと顔色を喪い<母>への聖句を呟くサイモンとはじつに対照的だ。

「後ろ脚に怪我をしている、母親が血の臭いに気づいたら」

 最悪の事態が脳裏をよぎる。

 たとえレオが全力で駆け戻ったとしても、月牙狼が鋭い嗅覚で仔の居場所を探しあてるほうが早かろう。何も知らずに白い仔を抱いているダウフトや、一緒に遊んだり、残りの弁当を与えているかもしれないレネやヴァルターを、我が子に危害を加えるものとみなすのは当然で。


 何が大丈夫だ。

 足元から急に熱を喪い冷えていくような感覚に襲われて、レオは拳を握りしめた。

 考えなしの振る舞いが、結局は三人を危地に追いやっているではないか――


 唇を噛みしめたレオの前に、いきなり突き出されたのは剣だった。

「蒔いた種は刈れ」

 かなり使い込んだ感のある業物を少年に押しつけて、副団長は灰色の双眸を北へと向ける。

「月牙狼を狩るのか」

 口にした言葉に返ってきたのは、うぬぼれるなという鞭のような一言だった。

(シルヴィア)、満ちる緑の現身に塵芥(ちりあくた)のごとき我らがかなうとでも? 大した自信だ」

「何だと」

 屈辱に頬が熱くなる。鋼玉の双眸に閃いた激しさをぶつけてなお、老騎士はそよぎすら感じておらぬ様子で続ける。

「おぬしと同様、今頃身の程知らずの小鬼どもが<髪あかきダウフト>のもとに向かっているだろう。乙女が腕に抱いた女王の仔を狙って」

 副団長の指摘に、レオは息を呑む。

 忌まわしきものたちが、一度狙った獲物を逃すことは決してない。炎に呑まれる故郷から、泣きながら逃れるダウフトを執拗に追ってきた魔物といい、幼かった自分を舘の隠し部屋に潜めさせたのち、みずから囮となって走ったやさしい母をついに聖堂まで追いつめた仇といい。

 あいつだ。

 ヴァルターとともに月牙狼の仔を助けたとき、その面を蹴飛ばした一匹の小鬼――悲鳴を上げて茂みに消えていこうとしたとき、こちらに刹那向けた狡猾なまなざしがよみがえる。一度は逃げたかのように見せかけて、仲間を連れて戻ってこようというわけだ。

「北へ向かえ」

 再び愕然とするレオに降ってきたのは、こんな時ですら淡々とした副団長の声だった。

「我らと違い、女王は咎なき者の血は求めん。エクセターの動きを見ておくがいい」

「エクセター卿なら、ダウフトの側にはいないぞ」

 自分が知らぬ間に起きていた出来事に、苛々とした気持ちを持てあましながらレオは答える。娘ひとりつかまえることもできなかった男は、頭を冷やす冷やさないとかでダウフトから離れてしまっているのだから。

 だが、そんなレオの様子など、老騎士は気にとめたふうもなかった。

「のぼせ上がって務めを忘れる男など、俺は<髪あかきダウフト>の側には置かん」

 目を見張ったレオに、わずかに口の端を持ち上げてみせて、

「務めだけに汲々とする男でもだ」

 ウォリックと行けと手短に命じると、副団長はレオに背を向けて長老や年配の騎士たちが待つ場へと戻っていく。剣を抱えたままたたずむレオの背を、サイモンが促すように叩いた。

「生真面目ヴァルターともども、俺たちとっておきの与太話を聞けるか、十年後のお楽しみになるかの瀬戸際だぞ、坊主」

 今なら、かわいい娘の口説き方も教えてやるけどなとからかってくるサイモンに結構だと断わって、レオは青い双眸を北へと向けた。

「ウォリック卿の真似なんかしたら、頬の手形だけでアスタナの関所を通れそうだ」

「な、何て胸抉られるようなことを」

 思わずうなったものの、少年が憎まれ口を叩くくらいのゆとりを取り戻したらしいと知った西の騎士はまあいいかと肩をすくめる。

「とりあえずは、師匠を見習っておくんだな」

 すばらしい愛想と、素直な心根は別にしてとつけ足すサイモンに、あの場にいなかった者をどうやって見習えというのかと疑問に思いながら、レオは古びた剣を持ち直した。


 それに、誰が誰の師匠だって?



             ◆ ◆ ◆



「騒がしいことになりよったの」

 わがまま侯子と西の騎士が、そろって北を目指してゆくさまを眺めやる副団長の横に、ガスパール老が並んだ。

「月牙狼とは、これまた厄介なものが出てきおったわ」

「仰せの割には、ずいぶんと興がっておられるご様子」

「なに、小僧がどう動くか見とうてな」

 活きのいい仔狼よと笑うガスパールだったが、

「はて、とねりこの苗木は騒ぎを収められるかの」

 呟く長老に、小僧の手に余ることなど任せてはおりませぬとナイジェルは応じる。

「あれが為すべきは、小鬼どもの頭を討つこと。雑魚など<狼>に任せておけばいい」

 小物とはいえ、群れをなして襲いかかられてはレオひとりではどうすることもできまい。

 だからこそ、ウォリックのサイモンを同行させたのだ。いかなお調子者とはいえ<狼>のひとり、苛酷な日々を生きぬいてきた剛の者であることに変わりはないのだから。

「もっとも、小僧が見すえるのはただひとり」

 修練場で繰り広げられる、わがまま侯子と堅物騎士とのやりとりを思いだし、副団長は笑いらしきものを口元に掃く。


 初めから、ヴァルター以外の騎士見習いたちなどレオの眼中にはなかった。剣も馬も自負するだけのことはあって、砦に来てからのめざましい成長ぶりには年長の騎士ですら舌を巻いたほどだ。

 もっとも、それは修練だけに限ったこと。これから少年が赴くいくさ場では、ひとの身など風に舞う塵よりもはかないものだ。

 信を置いた若い部下たちが、取るに足らぬことであっけなく生命を落すさまを、長いいくさ暮らしの間に幾度となく見てきた。エクセターのギルバートという現実を前に、嫌というほど砂埃を味わえば、甘やかされた世間知らずの目も少しは醒めるかと思いきや、どうやらわがまま侯子は祖父の気性こそを強く受け継いでいたらしい。

 もっと先へ、もっと遠くへ。

 往く道の先にあるものを求め駆けてゆくレオの姿は、来た道を歳月とともに振り返るようになったナイジェルにはどこか懐かしく、ほろ苦いものに映る。腐れ縁たるヴァンサンも、何かと騒々しいとねりこの苗木に、今ははるかに遠い、初夏の輝きに満ちあふれていた日々を見るのだろう。

 いずれ時を置かずして、デュフレーヌのレオを知らぬ者はなくなる。去りゆくさだめの老いさらばえた狼に代わり、若く猛々しい狼がアーケヴの隅々にその勲を示すことだろう。

 己がわざに慢心しやすく、後先かまわず突き進もうとする気性さえ御することができたならば。


「この騒ぎ、小僧の力量をはかるにはよい機会やもしれませぬ」

 自らを顧みた冷静かつ的確な判断を、レオが下すことができるのか。被害を極力抑えたうえで相応の成果を挙げることができるのか。

「種ひとつ刈れぬようであれば、あれの行く末などたかが知れている。死人の列に名をつらねるだけのこと」

「そこまで言うからには、そうならぬ確信があるのじゃろう。ボウモアのナイジェルよ」

 皺深い顔をさらにくしゃくしゃにして、剣を棄て書を手に取った老人は笑う。

「おぬし、肝心のことを言わなんだな」

 何をですと返した副団長に、とぼけるなとガスパール老は目を眇める。

「小僧が言うておったではないか、女王の仔を抱いているのはオードの娘っ子だと」

 昏きながれに息づくものにとって、森のシルヴィアは真に恐るべき存在だ。

 けれども、力なき仔は小鬼にさえたやすく傷つけられるほどに弱い。しかも側には、今や彼らにとって目の上の瘤にも等しい<髪あかきダウフト>がいる。

 幼き次代の守護者と、剣抱く砦の乙女。ともに葬り去ることができたならば、もはや魔族に怖れるものなど何一つありはしない。死肉あさる鴉たちが鉛空を舞い、よどんだ水と芽吹くことなく立ち枯れた木々、腐った泥ばかりが続く地に、緑萌ゆるアーケヴがなり果てることを押しとどめる術さえも。

「そこまで知れば、小僧が我を忘れるとでも思うたのか」

「自ずから知ることを、わざわざ口にする必要はありますまい」

 そう答えると、<狼>たちの指揮にあたる男は、ただならぬ事態に厳しい面持ちを並べる年長の騎士たちに、各々位置に着けとだけ口にした。

「どうするのだ、ナイジェル」

 軍議室で、レオを<狼>たちにつらねることに最後まで反対していたボース卿が、だから言わんことではないと苦い顔をするさまを目の当たりにしてさえも、

「為すべきことを為せ」

 あくまでも峻厳な態度を崩さぬナイジェルに、おかしげなガスパール老の声が続いた。

「くれぐれも、うるわしき女王に無礼のなきようにな。偉大なるアルトリウスならばまだしも、我らでは御前でまともに立っていることすら怪しかろうて」

 小僧どもへの説教はそれからじゃと笑った長老の言葉を受けて、ナイジェルは側に控えていたひとりの兵士を呼ばわった。緊張した面持ちで自分の前に立った若者に、幾人かの男たちの名を挙げ、伝言を命じる。

 おそらく、目的の場所にたどり着くまでさぞや苦戦するであろう、世話の焼けるわがまま侯子の援護に向かわせるために。

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