山田メンタルクリニック黙示録
山田メンタルクリニック、つまり精神病院に吾輩が入院したのは三度目となる。三度目となると多少融通が効くので、吾輩はニンテンドースイッチでゼノブレイドというゲームを遊んでいたのである。それも冷房がガンガンに効いた部屋で。これが病院で無ければ素晴らしいリゾート生活となるのだが、やはり病院の独特の匂い、狭い入院患者たちとの人付き合いは煩わしく、早くここから開放されたいのだった。吾輩も以前の、自分がこの世界から認められた、つまり神に認められた一人の人間であり、吾輩だけがこの世界を救えるという誇大妄想からは冷めて、多少は一般的な人間の、何が一般的なのかは吾輩には良く分からないのだが、そうした感覚へと戻りつつあった。つまり、退院の日は近いながらも、その後の受け入れ先の施設待ちによる待機時間を過ごしていた。
そうでなければ、ニンテンドースイッチで野生モンスターをガンガンとぶっ殺すゲームを遊ぶことなど許されんだろう。ちなみにニンテンドー3DSだと、カメラ機能が内蔵されているので、プライバシー保護のため禁止されてしまう。しかし、ニンテンドースイッチなどは三時間も遊べばバッテリーが切れ充電しないといかん。良くそれに付き合ったものだ。世の医療従事者に感謝を。特に吾輩の悩みを親身に聞いてくれた熊本弁のベビーフェイスと、柔らかいドナルドダックのようなアヒル顔のお兄さんに感謝を。
さて、山田病院内の精神病患者は大抵は一般人と変わらないが、それらに共通する症状があると吾輩には見えてきた。人は誇大妄想というかもしれんが、自分のして来たことや夢を思いっきり膨らませ語ったり、未來を展望する人達が多いのだ。でなければ、自分を必要以上に自己卑下し、おいおいと沈み込み、病室からは出てこず、眠るように黙っている者。非情に両極端だ。精神病の基本である躁鬱なのだろうが、それが適度に悪化したのが隔離されないで共同生活を許された精神病患者の一部だったように思える。もしかするとこれを読んでいる健常者も陥ってしまうのが、躁鬱の罠なのだろう。と吾輩は結論づける。その浮き沈みでどちらかに羽目を外すと、社会適性が無いと判断され、病院で療養される。吾輩はもちろん躁であり、その症状が自分がメシアだと思うメシア思想なのだ。それは入院して環境が変わることで発動することもあれば、それが行き過ぎて入院することもある。これが解けると自分など、全世界の何十億人の一人、いや歴史を遡れば星の数ほどの数多の一人と、振り返ることができ、必要以上に自分に自信が持てない程であるが。その反省にも拘らず、いやそれ故の反動か、メシア思想に入ると、また何か神様は自分を執拗に観察しているのだと、グノーシスに認められているのだと、錯覚するのだ。傍迷惑な人類のお荷物である。吾輩は本当に。
さて、誇大妄想をする例として、例えば世界が認めるロックシンガーになる、少女漫画の大家のような漫画家になる。などなど。そういう人に出会って来た。ある人は自信満々に、ある人はコンプレックスからの謙遜を込めて。だが、彼らの眼は純粋なのである。馬鹿に出来ないのである。叶わないからこそ、その眼は哀しくも輝いているのである。吾輩が思うに、これは義務教育の問題のように思える。小学生の時に「将来の夢は?」と聞かれ、「努力すれば絶対に叶うよ」と教えられる。それは美しいのだが、その美しさにグロテスクに毒された残骸が、この山田病院に塵のように積もっている気がするのである。ある人など、パティシエの専門学校に通い、それを程なくやめ、慶応大学の心理学科に通い、ここに入院し……そして、ヨーロッパ、イギリスの経済学のエコノミストになりたい、というのだから。それは彼が慶応大学に独学で入れるほどの才能ある人だからこそ、哀しい病なのである。
さてさてさて。
海は広いな山は高いな。
この山開きが行われ、登山シーズンの今となると、思い出される、一人の老人がいる。
本日もまずい飯を喰わされた。鰆という魚が調理方法によってここまで生臭く、不味い味になるのかと痛感される料理だった。鰆とは季節を示す良い食材なのだろうが、何故か一年中提供され続け、更に焼くところを蒸されているため、焼き目などなく、独特の臭みとぶにっとした食感で、拷問のような味と化している。この病院の料理は大抵はハズレで、吾輩の糖尿病による食事制限でその率は高まるばかりだった。当りと言えば、鶏肉のマスタード焼きくらいだった。安価に輸入してもナカナカの鶏肉に、ケモノ臭さを消すマスタード。この料理で外れは無いだろうという感じだ。世の料理屋は安く大量に作れるこれを見習うべきではないか。
さて、もちろん会話はこう始まる。
「相変わらず、昼飯、不味いですね」
「ああ……今日は良い方だよ。わたしとしては、ぬるいスープのうどんの方が厳しい」
「何でぬるいか知ってます?」
「さあ」
「重病の人が、他の患者にぶっかけちゃうことがあるからですよ、火傷しては溜まらない」
「そんな人いるのかい?」
「僕がそうなんです。何か、とある老人が、自分の考えていることを盗んでいる気がしましてね。こなくそと!」
「そうか」
「ほんと、ムカつく老人だったな。今なら自分が百バー悪いってわかるんですけどね」
「君のせいでぬるくなったと思うと、流石にわたしがムカつくがね」
「それとフォークないでしょ? この病院。箸とスプーンばかり」
「ああ」
「似たような事情だと思いますよ。発作が起きて、フォークを握ってぐさり」
「君は変な妄想ばかりするね」
「そうですか……」
「さて、では、しばし失礼するよ」
老人はタニタ式スクワットをする。普通のスクワットとは鍛えられるところが違うらしい。吾輩はスクワットとワイドスクワットしか違いは分からかったが、スクワットには沢山の流派があるらしい。それを知るだけでも、大きな勉強になった。
老人は無言でスクワットを続ける。その数は100を超えようとしている。
「やっぱり山登りですか」
「ああ。ここで身体をなまらせる訳にはいかないからな」
「間に合いますかね。登山シーズン」
「どちらにせよ今はコロナでね。歓迎されないだろうな。埼玉は海もない山もないと言うけど、秩父の山は良くてね。初心者にちょうどいい山がある。それが今ではコロナが広まるから地元の人以外、来ないで欲しいっていうくらいだよ。ほら、コマーシャルで」
「あっ! チチンブイブイ、秩父は良いとこ、おいでやせ、でしたっけ?」
「多分違うけど、コロナ以降、流れないだろう?」
「僕もスクワットつきあいますよ。退院したら僕も旅をして、初心者が昇るくらいのロープウェーのある小さな山くらい昇りたいな」
これは誇大妄想の一つである。退院してからは、却ってこうした筋トレはめっきり減り、山登りなどする機会など一つとして無い。
「あの、田辺さんは畑を持っているんですよね?」
「ああ、有機農法の……」
田辺さんは、仮に老人につけた名だが、生き生きとした声となり。
「そうだよ、有機農法と言っても、色々あってね。ウチは完全無農薬、沢山良いのが獲れて孫にも喜ばれてるんだよ。虫がついて売り物にはならないけど。それもな、今は畑が枯れちゃってるだろうな。妻は何もしないから。こんなところに放り込んで」
「あの、なんで田辺さんは、入院したんですか? 僕なんて警察と一悶着あって、一乱闘あって、警察車両で詰め込まれたんですけど。田辺さんはそんなに悪く見えないし」
「鬱状態と乱費って書かれてるよ」
僕たちの入院理由は白い紙に書かれて、それを机の引き出しに大事に抱え込まれているのだ。それも今思えば下らない紙切れ一枚なのだが、僕らにとっては宝物のように大切に保管されるのだ。
ナースがやって来る。こんなところに居てはカワイソウと思えるほど、綺麗で若く、華奢なナースさんが、僕たちに注文を聞いてくる。
僕は「ポテトチップ、ノリ塩味ね。あったらだけど。あとスーパーカップのバニラも欲しいな。これはあるでしょ」と言伝する。それをナースさんは「ポテトチップ無かったら別の味でも良い?」と聞きながらメモをする。
田辺さんは何時ものやつを注文する。
「ここってさ、本当は売店誘導っていうの? 病院専門の小さなコンビニに連れて行ってもらって、自由に買い物できるんですよ。12ツボくらいのスペースでもね、自由なんです。それが……。コロナのバカヤローってやつですよ」
「私は短い入院で済むから大丈夫ですけどね。君ほどとなると、いろいろストレス溜まりますよね」
「ほんとほんと。もう!」
「それ以上に、ここを仕事場にする看護師さん、看護婦さんはストレス溜めてるんですからね。注意しなさい。あなた、昨日午前四時からナースステーションをじろっと観察してたらしいじゃないですか?」
「社会勉強ですよ」
「退院が遠くなりますよ」
「田辺さん、そう言えば売店で何時もアンコの団子、頼みますね。飽きないんですか? 偶にはせんべいでも」
都合が悪くて、話を逸らしたのだ。
「実家が和菓子屋でね。こう見えて大きい店なんだよ。今は娘とその夫が経営してるけどね」
「へぇ、儲からなそうですけど」
「それが創意工夫のある和菓子屋でね。テレビの取材を2回も受けたんだよ」
「ふぅん」
「それで、調子に乗っちゃったのかな。いや、誰も今の世の中なんて想像できなかったんだから、時代なんだろうね。銀座の大きなデパートに出店したんだよ。大金貢いでね。それがコロナでどかーんだよ」
「ついてないですね」
「まったく、早く退院しないと。娘たちを助けないと」
田辺さんの顔は安らかで、何故か自信に満ちていた。鬱状態は終ったと、それははっきりと告げていた。
「退院、決まったらしいですね」
「ええ、おかげさまで」
「でも、何で田辺さん、入院したんでしょうね? 至ってまともなのに」
「君はまともじゃなくてエキセントリックだったけどね」
「はは……」
「早くしないとな。あの機械を購入し直さないといけないし。妻に解約されちゃいましてね」
「なんですか?」
「取り引きの数字を一秒ごとに表示する機械だよ。これがないと、トレード出来ないんだ」
「うん?」
「FXだよ」
その時、いや今も、吾輩にはFXが何か良くわからないのだ。時たまニュースで社長が会社のお金をFXで溶かしたとか、テレビの競馬番組のCMに仮想通貨やビットコインと言った如何にも嘘くさい物が流れるくらいしか。
「どういうのです?」
「これが無いと、FXで売買出来ないんですよ。だいたい一千万円くらいするかな? でも儲けを考えれば安いくらいですよ」
「へぇ、いくら稼いだんですか?」
「細かく言えないけど、数千万円が数十億円になったくらいかな」
「えっ? 大金持ちじゃないっすか? 早く娘さんの和菓子屋さんに還元できれば良いですね!」
「それが……」
「引き下ろせないんだ……お金」
「えっ?」
「引き下ろすには特別な口座が必要で、それを作るのに何億もかかるんだ」
「それって」
「そのうち、数十億の儲けが数億円に萎んだよ。入院中、仮想通貨や悪いニュースが流れたから、更に下がってるだろうな」
「騙されてるんじゃ」
「そうかもしれない」
「はぁ」
「その取引している会社が、メールしてくるんだけど、そのたびにメールアドレスが違ったりするんだよ」
「それは……騙されてますよ」
吾輩は出来るだけ真剣に、食べる事の無いだろう田辺さんの美味しい野菜を想像しながら、そう答えた。それが吾輩に出来るたった一つの無責任な答えだと信じて。
鬱状態も浪費癖も解消されたとして、田辺さんが退院することとなった。その前夜ちょっとした会話をする機会があった。
「田辺さん、退院、おめでとうございます」
「いえいえ、君はずいぶんと、かかりそうですね」
「それは置いといて、田辺さん、やっぱりお孫さんに奉公したいなら、一緒に山登り行って、自分の畑で作った美味しい野菜でバーベキューとかいいんじゃないですか」
「良いかもしれないね」
大抵、それは同意というよりも、柔らかい拒否だと吾輩は知っている。
「もしかしたら、またFXやっちゃいます?」
「止められないなぁ」
それが吾輩と田辺さんの山田病院での想い出である。