Once upon a time.2
後日、ジャックはカルファンと、セイント・ポニーの小屋がある東の丘に来ていた。
ジャックはそこで、マーテルばあさんに食らった壮絶な説教の一部始終をカルファンに語って聞かせた。カルファンは最後まで興味深そうに聞き入って、一言。
「凄いな。鉄鍋で殴られるだなんて、僕は経験したこともないよ」
「できれば俺だってしたくなかったさ」
ジャックは怒り収まらぬマーテルばあさんに鉄鍋で殴られた額を摩った。腫れはまだ引かない。しばらくは毎晩ばあさんと鍋の夢を見そうで、ジャックは溜息を吐いた。
珍しく意気消沈しているジャックに、カルファンが愉快そうに笑った。
「でも、正直僕は君が羨ましいよ。この不自由な“地獄”の中でも、自由に生きることができる君がね」
「……自由? 俺が?」
ジャックは首を捻った。
「そう。この寒くて狭い小さな世界の中で過ごし続ければ、人々の心は自然と荒む。凍り付いた心はやがて周囲との壁を作り、他者を疑い、拒み、憎む。だから大人たちは皆、疲れ果てた顔ばかりしている――けれどジャック。君は違う。いくつになっても君は子どものように無邪気だろう? それは君の心が何者にも縛られずに自由である証拠だよ」
捻った首をそのまま傾け、ジャックは時間を掛けてカルファンの言葉を嚙み砕く。
「……つまり、お前は今、俺のことを子どもだって馬鹿にしてるのか?」
「さて――どうだろうね」
「絶対馬鹿にしてるだろ」
納得がいかないジャックに、カルファン肯定とも否定ともつかない笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。これ以上追及しても無駄だと諦め、ジャックは雪がちらつき始めた空を仰ぎ見た。
丘の上からは、“地獄”の街並みが一望できる。粗末な家々の屋根が白く染まっている。その向こう、霞む視界の終着点はいつだって漆黒の門だ。
「――ああ、この“地獄”は本当に窮屈だ」
隣でカルファンが静かに呟く。耳に微かに届くぐらいの独り言だった。
「まあそう言わず、もっと楽しいこと考えようぜ! 例えばそうだな、この世界がもっと広くて大きかったら、とかさ。そうしたら気分も少しは晴れるだろ?」
カルファンは酷く驚いた様子でジャックの顔を凝視した。
「……ん? 何か変なこと言ったか? 俺」
カルファンは瞬きを何度も繰り返してからようやく口を開いて、何かを言おうとしてまた閉じ、唾を飲み込んでから意を決したように尋ねた。
「それはつまり――“地獄”の外に世界が広がっていると?」
「というか……ほら、たまに夢に見たりするだろ? ここよりももっとあったかくて、食い物が山ほどあって、大きな家と綺麗な寝床があるところを。それ自体はただの俺の妄想だけど、だからといってそれが絶対にこの世のどこにも無いなんて、誰が言い切れる? 確かに俺は“地獄”の隅から隅まで知り尽くしてる。“地獄”にそんな夢みたいな場所が無いのは分かってるさ。だけど――」
ジャックは丘の上から遠くに見える、黒くて頑丈なそれに視線をやった。
「俺はまだ、あの門の向こうのことは知らないからな」
つられて“地獄”の門に目をやったカルファンは、白く染まった息を静かに吐いた。
「ジャック……君は、時々とんでもなく鋭いことを言うよね」
「時々は余計だろ」
言いながら丘を下り始めたジャック。一歩遅れて追いついたカルファンがその隣に並んだ。
「ジャックは“地獄”の外に世界があるって、本気で信じてる?」
「本気かって訊かれると困るがな。まあ、でも――」
“地獄”とは、前世で罪を犯した者が悔い改め罪を償う世界――子守歌の如く聞かされ続けて来たその話をジャックはほとんど信じてはいなかった。というより、単に小難しい話が嫌いなのだ。昔から理屈っぽい話を聞くと反射的に眠くなる。
「あったらきっと、楽しいだろうな!」
「ジャック、君って奴は――本当に自由だ」
カルファンは心底羨ましそうにジャックを見上げた。ジャックはコバルトブルーの瞳でそれを見返すと、気恥ずかしさを紛らわせるように帽子を目深に被り直した。
「ま、でも俺が言ってるのはただの妄想――夢に過ぎないからさ。本当に外の世界があったとしても、俺の頭じゃ証明できない。だから、お前が調べてくれよ。あの門の向こうに、あの壁の向こうに一体何があるのか」
「……さりげなく面倒なことを僕に押し付けたね」
呆れるカルファンの肩を、ジャックは笑って叩いた。
「はは、大丈夫。お前ならできるさ。何たってお前は“地獄”で一番頭が良いんだからさ」
「それ言ってるの、ジャックだけだから」
「照れるなって。じゃあ、俺仕事行って来るからまたな!」
言うや否や、ジャックは丘を駆け下りて行く。その背中はどんどん小さくなって、やがて雪の中に消えて行った。それを見送り、カルファンはひとり肩を竦めた。
ジャックの何倍もの時間を掛けて家の近くまで戻って来る頃には、雪の降り方も一段と激しくなっていた。
人より弱い身体は、寒さにすぐ負ける。手袋をしていてもかじかむ指先に息を吹きかけながら、カルファンが大通りの角に差し掛かった時。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
同時に建物の影から飛び出して来た人物とぶつかり、お互い派手に雪の上に尻餅をついた。相手が抱えていた甕のようなものが弾みで宙を舞い――その中の水が勢いよくカルファンの頭上に降り注いだ。
何が起きたのか分からずその場で呆然と前髪から滴る水滴を眺めていると、聞き慣れた甲高い声がまくしたててきた。
「ちょっとカルファン! どこ見て歩いてるのよ! 痛いじゃないの――って、アンタ、もしかして水被っちゃったの……? 嘘でしょ!」
路地にひっくり返った甕と、ずぶ濡れのカルファンを交互に見て、セルナは悲鳴を上げた。その声が酷く耳障りだった。「五月蠅いなあ」と言い返そうとしたのに、カルファンの唇は震えるばかりで、何も言葉にならない。
震えは瞬く間に全身に広がり、カルファンは寒さをなるべく自覚しないように両手の拳を握って立ち上がった。
先日自分もセルナに同じことをしでかしたのだ。自分だけ弱音を吐くなんてみっともないことはできなかった。
「……これであいこだろ。だからもう、文句言うなよ」
強がってみせるカルファンに、セルナは眉を吊り上げた。
「アンタねえ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! すぐに拭く――を――と、暖かい――に――」
セルナの言葉が途中から、途切れ途切れにしか聞こえなくなる。
自分の歯がガチガチと震える音が頭に響いてやまない。
まずい。とにかくここを離れなければ、と脳が警鐘を鳴らす。両腕を抱えながら、セルナに背を向けて歩き出そうとしたその時だった。
「――っ!」
最悪のタイミングで発作が起きた。
急な体温変化に驚いたように、胸が軋む。息が苦しくなり、視界が狭まる。
踏み出した足が地面を捉えることはできないまま――カルファンの意識はそこで途切れた。
◇ ◇
次の日、ジャックがカルファンの家を訪れると、家の中は妙な空気に包まれていた。
「おーい、おばば、カルファン。いねえのか?」
リビングには人影がない。いつもならおばばが暖炉のそばで毛糸を編んでいるのだが、今日は姿が見えない。シンと静まり返った室内。しかし何だか胸騒ぎがするような静けさだった。
キッチンにも、洗面所にも人の姿はない。残すところはあと、カルファンの部屋だけだ。
ジャックは古くて狭い廊下を軋ませながら、カルファンの部屋に向かう。少し開いたドアの隙間から、中の光が漏れていた。
「何だ、いるじゃねえか――」
人の気配に安堵したのも束の間、ジャックが部屋に入ろうとした同じタイミングで中から勢いよく扉が開いた。出て来たのは大きな眼鏡をかけた小柄な少女。彼女はジャックを認めるなり、うわずった声で叫んだ。
「ああ、ジャック! 大変なの! カルファンが……!」
尋常ではないセルナの態度に、ジャックはすぐさま彼女を押しのけて部屋に入った。
小ぢんまりとした部屋の中、一番面積を取っているベッドに足早に駆け寄る。そこには想像以上に容体が悪いカルファンが、横たわっていた。
古い造りの家のせいで、部屋のあちこちから凍えるような隙間風が吹き込んでいる。にも拘らず、目の前の少年は滴るような汗をかいて、苦し気に肩で息をしていた。眉間に皺を寄せたまま、時折呻き声をあげて寝返りを打つ。拍子で額からずり落ちた濡れた手ぬぐいは、彼の熱を吸収しすぎて乾燥してしまっていた。
「……何があった?」
後ろに佇んでいたセルナの肩を、ジャックは強く掴む。セルナは少しばかり顔を顰めたが、力を加減する余裕もなかった。
「……昨日、街角でカルファンとぶつかった拍子に水を掛けちゃったの……その時、タイミング悪く大きな発作が起きて、それからずっとこの調子で……」
きっと昨晩から、付きっきりで看病していたのだろう。伏目がちのセルナの目の下には隈が濃く縁取っている。
「時々思い出したように目を覚ますんだけど、熱が高いせいで朦朧としてて、うわ言ばかり繰り返すの。そんな状態だから、昨日から何も食べられてなくて……」
「薬は? 熱冷ましがあっただろ?」
「それが……」
セルナが一層視線を落とす。その視線の先には、水を張った桶を抱えるあかぎれが目立つ小さな手。その手の震えが、桶の中の水に波紋を呼んでいた。
「残念ながら、薬は無いのじゃ」
セルナの代わりにそう答えたのは、足を引きずりながら部屋に入って来たおばばだった。おばばは大儀そうにベッドの横の椅子に腰掛けると、皺だらけの手でカルファンの汗にまみれた頬を撫でた。
「薬が無いって……」
「最後の一つを昨日煎じて飲ませた。じゃが、効き目はほとんどない。熱が下がる気配もなく、もう丸一日が経つ。後はもう、天に祈るのみじゃ」
「そんな……」
絶望的な宣言に、ジャックは目の前が真っ暗になった。言葉が出ず、ただ呆然とカルファンを見下ろす。
「……こうなったのは、全部私のせいなの」
真っ赤な手で手ぬぐいを絞っては、懸命にカルファンの汗を拭っていたセルナが、手を止めてポツリと呟いた。
「私の不注意で、カルファンに水を浴びせてしまったから……そんなことしなければ、きっと発作も起きなかった。こんなにしんどい思いをさせることもなかったのに……全部、私のせいで……!」
堪えきれなくなったセルナは、手拭いを握り締めたまま、おばばの膝に縋りついて泣き出した。
ずっと我慢していたのだろう。ずっと心の内で自分を責め続けたのだろう。堰を切ったようにしゃくり上げるセルナは、普段の彼女からは想像がつかないほど弱々しかった。
「……そんなに泣くなよ。別に、お前のせいじゃないだろ」
慰めようとするジャックに、セルナは激しく首を横に振った。おばばがセルナの背中を優しく摩りながら、静かに諭す。
「そうじゃ。セルナのせいではない。この子は元より身体が弱い。きっとこういう日がいつか必ず来る――そういう運命だったのじゃ」
――運命。
その単語が、ずしりとジャックの中に重くのしかかった。
これまで何人も、同じように手の施しようが無いまま命を落としていった。何もできずただその灯火が消えるのを見ているしかなかった自分を正当化するために、「仕方がない」「そういう運命だったのだから」と唱えては無力な己から目を背けてきた。
だが、本当にそれで良いのか?
今回もそうやって、黙って見ているしかないのか?
大切な友人が今、目の前でこんなにも苦しんでいるのに。
「――なあ、セルナ」
なかなか泣き止まないセルナに、温かい飲み物を入れて来てやろうと言っておばばが席を立つ。ジャックはおばばの代わりにセルナの背中を摩りながら、そっと尋ねた。
「確かここに、薬草の本があったよな?」
「え……?」
「ほら、こないだここでカルファンが読んでた本。それってどこにあるんだ?」
セルナは訝しがりながらも、とめどなく流れる涙をしきりに拭って、本棚から一冊の本を取り出した。
渡された分厚い本を床に置いて広げる。途端、紙面にびっしりと書かれた小さな文字が視界いっぱいに飛び込んできて、目が眩みそうだった。
ほとんど文字が読めないジャックは、セルナを手招きして隣に座らせる。
「この本に、何か効き目がありそうな薬はないのか? カルファンからそんな話を聞いたことないか?」
「そんなの、急に言われても――」
セルナは困ったように眉を下げる。
「どんなことでもいい。何か思い出せることがあったら教えてくれ」
ジャックはページを捲りながら、どんな些細な手掛かりでもないかと目を凝らした。
しばらくして、セルナが「あ、そう言えば」と何かを思い出したように口にした。
「――うろ覚えだけど……前に、カルファンから聞いたことがあったような気がするわ。カルファンの病気に効くかもしれない、薬のこと――」
貸して、とセルナがジャックの手元から本を取り上げる。眼鏡を押し上げて、セルナはページを捲った。三分の二ほど捲ったところで、その手が止まる。ジャックはすぐさま本を覗き込んだ。
「……確か、これだったような……」
指し示された挿絵を見て、ジャックは眉を寄せた。
その絵の植物は、何とも不思議な形をしていた。長細く、黄緑色の葉が三枚連なって小さな種のようなものから生えている。説明書きをセルナに解読してもらうと、更に葉の表面は塵のような細かい粒子が付着していて、それがキラキラと光るのが特徴的だと書かれていた。
「……難しくて全部は理解できないけど、この薬草にはカルファンの病気を癒す効果があるみたい。でも……」
唯一の手掛かりを見つけたにも関わらず、セルナは諦めきった顔で溜息を吐いた。
「結局ここに載っている薬草なんてすべて架空のものじゃない。どうせこの“地獄”にはこんなもの、存在しない。こんな誰かの勝手な空想に意味なんてないわ」
セルナは本を閉じて、カルファンの方を見た。呼吸をするたび上下する胸の動きが、少しずつ弱まって来ているような気がして、セルナは顔を歪めた。
「……もう無理よ。どうしたってカルファンを助ける手立てはないわ。私にできる償いはあと一つだけ。彼と一緒に――「諦めんなよ!」
ジャックはセルナを鋭く遮って、立ち上がった。
「俺がこの薬草を探してくる。絶対に見つけて帰って来るからお前はここでカルファンと待ってろ」
「――な、何言ってんの? アンタ。正気じゃないわ! だって、こんなもの、この世のどこにも――」
言いかけて、セルナは言葉を失った。見上げたジャックが、あまりにも真剣な表情をしていたのだ。いつも軽薄な笑みを浮かべ、軽口を叩いているあのジャックが。
「なあ、セルナ。もしこの“地獄”の外にまだ見ぬ世界が広がっていたらって、お前、考えたことあるか?」
「え、何を、急に……」
「ああ――俺ってほんと馬鹿だなあ。色んなことに、今になってようやく気が付くなんて」
たじろぐセルナに、ジャックは頭を掻き毟って大きく息を吐いた。
「お前も知ってるだろ? 俺が門番の詰め所で働いてるって。そこにはでっけえ倉庫があってさ、色んな物資が保管されてるんだよ。食糧とか、洋服とか、あとは大物だと家具なんかもあったな。もちろん――数えきれないほどの薬も」
「ジャック、アンタまさか――」
ジャックの言わんとすることを察したセルナは、大きな眼鏡の奥で目を見開いた。だが、ジャックは既に部屋の窓に向かって歩き出していた。
「言ったろ? カルファンは俺が絶対に助ける」
「駄目よ! 絶対に! 行っちゃ駄目!」
鍵を開けて、ジャックは窓を開け放つ。途端、凍えるような風とともに、雪が吹き込んできて、セルナは思わず顔を覆った。
「ジャック……!」
すぐに窓際に駆け寄ったが、そこにはもう、彼の姿はなかった。
――カルファンを頼んだぞ。
そう言い残して、ジャックは雪の中に消えて行った。