Once upon a time.1
ここからは時を遡り、ステファンの両親の話になります。
まだ幼い頃、父親が話してくれた物語。
昔々あるところに、ジャック・スキーパーという、悪戯好きな少年がいました。
その物語はいつもこう始まるのだ──
◇ ◇
曇天の空の下、地面に降り積もった雪を容赦なく踏みつけながら一人の少年が走っている。
「ジャック! ジャック・スキーパー!! 待ちなさい!」
その背後から甲高い女の怒鳴り声が響いた。
少年は擦り切れたマフラーを風になびかせながら振り返り、追っ手を確認して舌打ちをした。
「あんのババア……何だってあんなに走るのが早いんだ?」
その距離約二十メートル強。雪に阻まれた足元の悪い道だというのに、老婆は着実に距離を詰めてくる。本気で危機感を覚え、白い息を吐き出しながら前を向いて速度を上げようとした――その時。
路地裏から伸びてきた手が、ジャックのマフラーを掴んだ。
「うわっ!」
ジャックはそのまま路地裏へと引きずり込まれ、たたらを踏みながら朽ちた大きな樽の影に押し込まれる。
「おい! 一体何のつもりだ、カル――んぐぐ」
乱暴な扱いに怒鳴ろうとしたジャックの口を、少年が後ろから塞いで囁いた。
「シッ! 静かに。マーテルさんに気付かれるだろ」
しばらくして老婆が通り過ぎたことを確認すると、少年はようやくジャックの口から手を離した。ジャックは息を大きく吸ってありったけの空気を肺に取り込む。
「――お前なあ、俺を殺す気か?」
「まさか。この程度で死ぬ男じゃないだろう、君は――それでジャック、今度は何をやらかしたんだ?」
ジャックは待ってましたとばかりにコバルトブルーの目を細めてニヤリと笑った。
「別に大したことじゃあない。マーテルばあさん家の干し豆を全部平らげただけさ。おかげでさっきからげっぷの連発だ」
「そりゃいいね、傑作だ」
少年は腹を抱えて笑った。だろう、とジャックは得意気な顔をしながら立ち上がり、樽の上にひょいと腰掛けた。
「で、そっちはこんなところで何してるんだ? 出歩いて大丈夫なのか?」
ジャックが尋ねると、少年――カルファンは笑うのをやめ、真面目な顔つきになる。
「うん。今日は久しぶりに調子が良くてね、何か面白いことはないかと思って街を歩いていたんだ。それで思いついて、セルナの家にちょっとしたトラップを仕掛けてみたんだ。そうしたら彼女が盛大に引っ掛かってくれてね、今追われてるとこ」
「何だ、俺と似たようなもんじゃないか」
互いの馬鹿らしさに、二人は笑いあった。だがすぐに、カルファンが顔をひきつらせて咳き込みだす。
「おいおい、大丈夫か」
カルファンは生まれつき身体が弱く、一年の半分以上をベッドの上で過ごしている。今日は調子が良いと言っていたが、きっとそのせいで無理をしたのだろう。身体の芯から凍るような“地獄”の寒さは、カルファンにとって大敵だ。
震える背中をさすってやっていると、大通りからまだ幼い怒鳴り声がした。
「カルファン!! どこにいるのよ! 出てきなさい!」
「おっと、セルナのお出ましだ。こりゃ面倒くさいことになったぞ」
ジャックはうんざりしてそう言った。正義感の塊のようなセルナに見つかれば、カルファンはおろか、ジャックの悪戯までバレてしまうに違いない。今すぐにでもここを立ち去りたかったが、いまだ息苦しそうに背中を丸めるカルファンを置いていくわけにもいかなかった。
「動けるか?」
そう尋ねると、カルファンは眉間に皺を寄せながらも、小さく顎を引いた。
「声と逆方向に路地を抜けるぞ。良いな? 静かに――」
カルファンの腕を引き上げたその時。
「見つけたわよ! カルファン!」
間近で声がして、ジャックはびくりと肩を跳ね上げた。
ジャックたちが身を隠していた樽のすぐ隣に、小柄な少女が仁王立ちしていた。あどけなさが残る頬を上気させながら、少女は腕を組んで二人を睨み付ける。
「アンタのせいで、ずぶ濡れになったんだからね! この寒い中、風邪でも引いたらどうしてくれるのよ! 責任取りなさいよ!」
小柄な少女に不釣り合いなほど大きな眼鏡の奥、彼女の目は怒りに燃えていた。きっちりと二つに結われた髪の毛を振り乱す勢いで、少女――セルナはこちらへ近づいてくる。ジャックのことなど目にも入らないようで、セルナはただひたすらカルファンに追及の視線を送った。
「あれは初歩的なトラップさ。君の視野がもっと広ければ、引っ掛かりはしないはずだけど?」
セルナの前では見栄を張りたいのだろう。カルファンはしんどさをおくびにも出さず、淡々とそう答えた。その態度が一層、セルナの怒りに油を注ぐ。
「あらそう。どうせ私は視野の狭い女よ。でも私の部屋の前で縄に足を引っ掻けさせて、桶に入った冷水に顔を突っ込ませるアンタの心の狭さの方がよっぽどじゃないかしら――ジャック! 今の話がそんなに面白い? だったらアンタが引っ掛かれば良かったんだわ!」
カルファンの隣でその情景を目に浮かべ大笑いしているジャックに、セルナの眉がつり上がる。だが、セルナのヒステリックは日常茶飯事で、ジャックにとっては痛くも痒くもない。
「俺がそんなものに引っ掛かるはずないだろ。相変わらず鈍くさいなあ、セルナは。そのでか眼鏡、ちゃんと見えてるのか? 新調した方が良いんじゃないか?」
おどけた調子で肩を竦めるジャックに、とうとうセルナは実力行使に出た。
「五月蠅い! 馬鹿ジャック!!」
セルナは片足の靴を脱ぐと、ジャックに向かって全力投球した。
「おお、怖っ」
口ではそう言いながらも、ジャックは両手をポケットに突っ込んだままそれを華麗に避けた。路地の奥の方まで飛んで行った靴を見送りながら、お節介な忠告をしてやる。
「あんまり野蛮だと、好きな奴に見放されるぞ」
「アンタに言われたくないわよ!!」
セルナは顔を真っ赤にして怒鳴った。それからチラリとカルファンの方を見ると唇を噛んでくるりと背を向け、来た道を走り去っていった。もちろん、片足は靴下のままだ。
「ったく、可愛げのねえ奴」
ジャックはポツンと路地に残された小さな靴を拾い上げ、苦笑した。
「まあ、からかい甲斐はあるけどな。そうだろ? カルファン」
「……結局セルナは何しに来たんだろうね?」
「さあな」
取り敢えずマーテルばあさんに怒られるのはまだ先になりそうだとジャックは安堵した。
「落ち着いたんなら、靴、返してきてやれよ」
ジャックは指先でつまんでいたセルナの靴をカルファンに放り投げた。
両手でそれを受け取ったカルファンは、何度か靴とジャックを交互に見ていたが、やがてマフラーに顔を埋めて呟いた。
「……仕方ないなあ」
ジャックは白い雪の中に消える華奢な背中を見送った。
「まったく、素直じゃねえよな、二人とも」
◇ ◇
翌日、仕事終わりにジャックがカルファンの家を訪ねると既に先客がいた。
「おっと――」
勝手知ったる家、ノックも無しに部屋に入ろうとしたところ、話し声がして手を止める。少し開いた扉の隙間から中を覗くと、机に向かっているカルファンの後ろに退屈そうに椅子に腰掛けている少女がいた。セルナだ。
「ねえ、カルファン。さっきから何を読んでるの?」
昨日の今日でもう仲直りしたのか、セルナは怒ってはいないようだった。それどころか、普段ジャックが聞いたこともないような、甘えるような声でカルファンにそう尋ねた。
喧嘩するほど何とやらとはよく言ったものだとジャックは内心呆れながらも、面白そうなのでしばらくそのまま様子を窺うことにした。
「……何って、本だよ」
「そんなの分かっているわよ。何の本を読んでるのかって訊いてるのよ」
カルファンはセルナに背を向けたまま、「薬草の本」とだけ言った。
「薬草……? 面白いの? それ」
「別に」
セルナは本から目を離さないカルファンに頬を膨らませた。
「別にってアンタ、じゃあなんで面白くもないのに読むのよ」
「読んだ分だけ自分の知識になるんだ。今は意味がなくても、いつかは役に立つ時が来るかもしれないだろ。それに――」
本を閉じて振り向いたカルファンは、自嘲ぎみに笑った。
「僕だって、一応まだ、死にたくはないからね」
セルナはぶらぶらさせていた足をピタリと止めて、神妙に言った。
「……アンタの病気、やっぱり治んないの?」
カルファンは静かに頷いた。
「きっと何らかの治療法はあるんだと思う。だけど、残念ながら“地獄”にいる限り、それを受ける機会は巡って来ないだろうね。門番にとって僕らの命など、雪の結晶と同じぐらいの価値だろうから」
“地獄”でもっとも軽いのは住人の命だと、以前誰かが言っていた。
門番の詰め所で雑用をしているジャックは、彼らがいかに住人を見下し蔑んでいるか身をもって知っている。
年寄りは皆、口を揃えて「昔よりはマシになった」と言うものの、今だってほとんど家畜と同列の扱いだ。怪我をしても、病気になっても、きちんとした治療を受けることなどできない。年に一度、僅かな熱冷ましや痛み止めの薬草が配給されるが、それも労働力が減らないための最低限の対策にすぎないのだ。
ジャックはこれまで、カルファンのような持病を持った人が何の手を尽くすこともできずに死に行く場面を何度も見てきた。
「…………」
セルナは沈痛な面持ちで、押し黙った。きっと何か気の利いた言葉を探しているのだろう。だが、率直な物言いしかできない彼女が、カルファン相手に繊細な台詞が言えるはずもない。
「仕方ない、そろそろ俺が――」
気まずい沈黙に満たされた部屋を見かねたジャックが、一肌脱ごうと足を踏み出したその時だった。
「おやおや、こんなところで会うとは奇遇だねえ。ジャック・スキーパー」
しわがれた声がジャックを引き留めた。ジャックは一歩踏み出した姿勢のまま凍り付く。
「マ、マーテルばあさん……」
恐る恐る振り向くと、ジャックの背後に老婆が仁王立ちしていた。両手を腰に当て、ジャックが逃げないように細い廊下の真ん中を陣取っている。
どうしてここに――と言いかけて、廊下の突き当りで家主が呆れたように笑っているのに気付き、ジャックは事の次第を理解した。カルファンの部屋を覗き見していたジャックを見つけたおばばが、マーテルばあさんをこっそり呼んだのだ。
「昨日はよくも、うちの貴重な干し豆を全部食べ尽くしてくれたね。たっぷりお礼をしてやるよ」
「あー、えっと、そうだ、俺今から仕事が……」
「言い訳無用。顔貸しな」
咄嗟に嘘を吐くも、通用しなかった。怒り心頭のマーテルばあさんは、ジャックの後ろ首をがっちりと掴むと、そのまま自分の家まで引きずっていった。