7.First and last
進んでも進んでも同じ雪景色。
スーは荒い呼吸を隠す気力もなく、ただ視線を虚ろにさまよわせながら歩いた。
空腹と疲労は限界を超えて久しい。
機械的に動かすだけの足。その一歩を踏み出す意味を考えてしまったら、二度と歩くことができなくなりそうだった。
頭の中では、リドラの顔が、ルーおばさんの顔が、“地獄”に残してきた人たちの顔が浮かんでは消える。その度にスーは歯を食いしばって自分に言い聞かせた。
――諦めない。世界の果てを見るまで、私は、絶対に。
心の中でそう唱え続け、そのうちふと、スーは芽生えた小さな違和感に躓いた。ずっと歩き続けていたせいで簡単には立ち止まれず、スーはつんのめるように足を止める。
遠のいていた五感がじんわりと舞い戻ってくるにつれ、その違和感は急速に膨張していった。
「――ステ、ファン……?」
全身から、サッと血の気が引いた。
そういえば、一体いつからその姿を見ていないのだろう。
一体いつから私は――ひとりで歩いていたのだろう。
恐る恐る、凝り固まった首を回して背後を見る。
霞んだ視界の中には――誰もいない。
「ステファン! 返事して! どこにいるの……!」
スーは無我夢中で叫び、来たばかりの道を駆け戻った。
この時ばかりは、足の痛みも凍えるような寒さも忘れ去り、スーは走った。
何度も雪に足を取られて転びながら、今にも新たな雪に埋もれていきそうな自分の足跡を辿る。そう遠くないところで、雪の上に倒れているステファンを見つけた。
「ステファン!!」
どうやら自分の意識からステファンの存在が消えたのは、ほんの束の間だったようだ。
見失わなかったことに安堵しつつも、うつ伏せに倒れたまま動かない姿にスーは激しく動揺した。
「しっかりして!」
すぐさま駆け寄って抱き起こそうとすると、弱々しい抵抗を感じた。
「ステ――」
「……っ、大丈夫だ」
ステファンは自力で身を起こそうともがいたが、腕に力が入らないのか何度も崩れ落ちる。
「駄目よ、無理しちゃ。少し休まないと。どこか雪が凌げる場所、探してくるから――」
「必要ない。休んでる暇なんか、ない」
見かねたスーが手を貸そうとするが、ステファンはそれを拒否した。やっとの思いで上半身を起こすと、そのまま震える手を地面について今度は立ち上がろうとした。
「無茶よ!」
「うるさい……黙ってろ」
「な――」
だがすぐに、ステファンは大きく顔を歪めてその場に蹲った。片手で胸を押さえ、苦し気に浅い息を繰り返す。極寒の雪の中、青白い頬に汗が流れ落ちた。
スーはただ、大丈夫、大丈夫よと、何の根拠もない言葉を呪文のように繰り返しながら、やせ細って骨が浮き出た背中を撫で続けた。それ以外、してやれることは何もなかった。
そうやってどのぐらいの時間が経ったのか、ようやく落ち着きを取り戻したステファンは深く息を吐いた。
「……心配かけた。もう、大丈夫だ」
背中に回したスーの腕を払おうとするが、スーは首を振ってそのままステファンの身体を支えた。虚勢を張っているのは目に見えている。スーが手を離したらきっと、ステファンは呆気なく倒れてしまうに違いない。
「アンタさ……」
ステファンの表情を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。
笑っていたのだ。
スーをからかう時のような意地の悪い笑みではなく、これまで見せたことのないような優しくて、柔らかい微笑み。
「……今まで隠してて悪かったな」
何が、とは訊けなかった。もう訊く必要もなかった。
「リドラは……知っていたのね?」
ステファンは素直に頷いた。
きっと“地獄”を出る前、もう随分と昔から、ステファンはスーに自分の身体のことを黙っていたのだろう。それはきっとステファンなりの気遣いだったのだろうが、スーにとってはその優しさが辛かった。
「……どうして言ってくれなかったの? 私、そんなに信用ならなかった? ずっと大事な仲間だと思ってたのに。そんな大切なこと、一言も教えてくれないなんて……」
思わずスーは、ステファンを問い詰めた。そんな言い方をしたいわけじゃないのに、疲れ切った心にはもう本音を覆い隠す気力もなかった。
「スー……」
「こんなことなら、どうして一緒に来たのよ? わざわざ生き急ぐようなこと……!」
言ってから、スーはハッとして口を噤んだ。普段ならスーに負けないほど口が達者なステファンが、反論もせずに黙ってスーの言葉を聞いていたのだ。やがてステファンは、乾いた唇を少しばかり開いて言った。
「――こんな状態だから、だ。もう先がほとんどないって分かってたから、どうせならやりたいことやって死のうって思った。お前、もし俺の身体のこと知ってたら、今みたいに“地獄”を出るの止めただろ」
「っ、それは……」
図星を突かれて、スーは言い淀む。
「大事な仲間だって言いながら、俺ひとりあの場所に取り残されるのなんてごめんだった。だから一緒にここまで来たんだ。でももう、ここまで来られただけで――充分だ」
ステファンははっきりとした意志を持って、スーの手から離れた。手のひらに感じていた重みが、スッと遠ざかる。
「ここから先は、お前ひとりで行け」
「え……?」
「お前はまだ立てるし、まだ歩ける。だから先へ進め。俺たちが見られなかった世界の果てを、どうかお前だけは――」
ステファンはただ苦しそうに笑うだけで、その先は続かなかった。
スーは最初、ステファンが何を言っているのか理解できなかった――否、理解することを頭が拒否していた。だが、言葉以上に切実な思いを募らせたその顔を見て沸々と怒りが湧きあがった。
「意味分かんないわよ……何でアンタを置いていかなきゃいけないの? 何で私ひとりで行かなきゃいけないの? 何でアンタにそんなこと決められなきゃいけないのよ……!」
「――駄目なんだ。もう」
スーの昂る感情に重ねられたステファンの声は滲んでいて、泣いているのか笑っているのか曖昧だ。
「身体が言うことをきかない。力が入らないんだ。歩くことも、立ち上がることもできない。俺はもう――ここで死を待つしかない」
「やめてよ! 聞きたくない。そんなこと言わないで!」
首を振って耳を塞ごうとするスーの腕を、ステファンのほとんど力が入っていない指が掴んだ。
「頼む、スー。最期の願いだ。俺を置いて先に行ってくれ」
「嫌よ! 絶対に嫌!」
「スー……」
頑なに拒否するスーに、ステファンは困ったような表情を浮かべる。
そのすべてを諦めたような態度に、涙がとめどなく溢れた。
「馬鹿なこと言わないでよ! 勝手に弱気になって、もうすぐ死ぬから置いていけって。格好つけないで!」
スーはぐしゃぐしゃになった顔を両手で拭って、ステファンのマフラーに掴みかかる。
「私たちと旅がしたいって言ったのはアンタでしょう! 今更諦めるなんて、絶対に許さないんだからね!」
額がくっつくくらい顔を引き寄せ、スーはありったけの力を込めて叫んだ。
「アンタが何て言おうと、私が絶対アンタを“地獄”の果てまで連れていくから! 嫌だって言ったって駄目よ! “地獄”の底から這い上がって、ようやくここまで来たんだから! 最後まで道連れにしてやるんだからね! 覚悟しなさい!」
スーに圧倒されたステファンは、しばらく呆気に取られた顔でスーを見ていた。しかし、顔面涙まみれのスーがこれでもかと睨み付けると、観念したように小さく溜息を吐いた。
「――そうか」
呟いて、ステファンは目を細めた。
「本当に――呆れるぐらい、お前らしいな」
◇ ◇
「ステファン、起きてる……?」
「……ああ」
背中に負ぶったステファンの、吐息のような返事が耳を掠める。
その声が徐々に小さくなっていることに、スーは必死で気付かないふりをした。
「寝たら駄目よ……絶対、駄目だからね……」
「…………」
二人分の体重を支える膝は随分前から震え、一歩前に踏み出すごとに悲鳴をあげる。それでもどうにか気力で次の一歩、次の一歩と足を引きずるように前へ進む。
「ステファン、もうすぐだよ……もうすぐ……」
言い聞かせるように、何度もそう繰り返す。
「あと少し……もう少しだから……」
そう言い続けて、どのぐらい経っているのだろう。
もしかしたら数分かもしれないし、数時間か、はたまた数日経っていたのかもしれない。
足掻いても足掻いても一向に訪れない世界の果て。
初めから、そんなものは存在していなかったとしたら?
“地獄”の外は永遠に閉ざされた白い世界が続いていて、どこまで行っても終わりがないのだとしたら――?
疑心暗鬼になりかけたスーは、それを振り払うようにステファンに声を掛けた。
「ステファン、起きてる……? きっと、きっと、もうすぐよ……」
自分の荒い息と、雪を吹き流す風の音ばかりが耳に届く。
「あと、ほんの、少し――あっ!」
だが、限界は呆気なく訪れた。
気持ちが折れる前に、身体がついて行かなかった。
膝から崩れ落ちたスーは、ステファンを背負ったまま雪の中に倒れ伏した。
すぐさま起き上がろうとしたものの、背中にのしかかったままのステファンの重みに耐えられず再び雪に埋まる。押し殺してきた痛みと疲労と様々な感情が一気に押し寄せてきて、スーはとうとう動けなくなった。
「……ステファン……大丈夫……?」
辛うじて出せる声だけで、ステファンの安否を問う。
瞑った瞼の裏で、ステファンが笑って頷く。
「寝たら、駄目よ……絶対、駄目、だからね……」
全身に纏わりつく冷たい雪。
その上から、まだ足りないかと降り注ぐ雪。
もううんざりだった。
結局世界はどこまでいっても、こんなにも冷たくて、寒くて、悲しいのか。
“地獄”の中で夢見た理想はただの理想にすぎなかったということか。
救いなど、どこにもないというのなら。
だったらもう、ここで――
朦朧とした意識の中、仄かに頬に温かい何かを感じた。
「…………?」
一瞬、ステファンの体温かと思ったが、そうではなかった。
薄っすらと瞼を持ち上げる。
目の前に――光が差していた。
「あ――」
細くて頼りない光の線が、視線の先に幾つか見えた。
その線は次第に広がっていき、目の前を明るく照らした。
「光が――」
その様子を雪に埋もれながら眺めていたスーは、やがて投げ出していた手足に力を込めた。時間をかけて、感覚が麻痺した身体をどうにか地面から持ち上げる。そして、光の筋を辿って空を見上げた。
「――空が、明るい」
ずっと重く立ち込めていた雪雲が薄くなり、その隙間から幾つもの光が地上に降り注いでいた。大粒の雪はいつの間にか消え去って、塵のような細かい結晶がキラキラとベールのように降り注いでいる。
見たことのない光景に、スーは息を呑んで見入った。
雪がやみ、雲が晴れ、光が差す。
「ステファン、見える? 空が晴れてきたよ! きっとこの先に――」
待ち望んだ世界がある――
スーは興奮して甲高く叫んだ。
呼応するかのように、みるみる空は開けた。
ステファンを背負い直し、スーは光に導かれるように歩き出した。
行く先を覆っていた吹雪も暗くて分厚い雲も徐々に遠ざかり、視界の両側にずっと聳え続けた高くて鋭利な岩壁も次第に緩やかなカーブを描きながら低くなっていく。スーは開かれた道を自分の意志からかけ離れた浮遊感の中で進んだ。
「見て、ステファン! こんなに明るい世界は初めてだわ!」
返事が無いことにも気付かないまま、スーは声を弾ませた。
「ステファン見える? もうすぐよ! もうすぐ、辿り着くわ……!」
逸る気持ちを抑えきれず、スーは激しく息を切らしながら駆けるように前へ前へと進んだ。
そしてとうとう視界を遮っていた岩壁がなくなり、一気に目の前が開けた。
「ここが――」
前のめりに歩いていたスーは、つんのめるように立ち止まって目の前を見渡した。
そこに待っていたものは――
「ここが……“地獄”の果て……?」
視界いっぱいに広がっていたのは――大量の水だった。
それらはまるで生き物のようにうねり、躍動し、スーの足元に寄せては返す。まるで外からの侵入を阻むかのように行き来するそのうねりにたじろぎ、スーは数歩後ずさった。
途端、背中に抱えていたステファンの重みが手にのしかかった。受け止めきれなくなった手が滑り、二人は砂の上に崩れ落ちた。
粒の細かい砂が、煙のようにスーたちを取り巻く。それに噎せながら、スーは眼前に広がる光景を呆然と見つめた。
「こんな……」
目に見えないほど広く、遠くの空の下までその水は広がっていた。
どこまでも果てしなく、どこまでも終わりなく。
こんなにたくさんの水が一ヵ所に集まって、まるで大地のように広がっているのを、スーは生まれて初めて見た。
雄大な景色だと思った。
“地獄”では想像もし得なかった光景だ。
――だが、それだけだった。
望洋と広がる水の群れは、ただその場に静かにあるだけだった。
スーを受け入れてくれもしない。
むしろ水の境界は、スーを拒絶するかのように何度も寄せては返す。
この先へはもう、一歩たりとも進むことは叶わない。いくら大地のように密集していても、水の上を歩けないことぐらいスーも知っていた。
ここが“地獄”の果て――世界の果て。
ここがスーの旅の終着点。
「……何もない……こんな……私は、こんなものを……」
親しい人に別れを告げ、リドラを失って、バムを失って、ようやく辿り着いた先は、スーが思い描いていた希望の地とは程遠い場所だった。
「ねえ、リドラ……やっと辿り着いたよ……あんなに焦がれた、外の世界……なのに、見て? 何にも無い。笑っちゃうよね、本当」
スーは力なく笑いながら、瞼を閉じた。膜を張っていた涙が、押し流されて頬を伝う。
「馬鹿みたい……こんなもののために、私はリドラを見捨てたのね……ルーおばさんを残して、バムを死なせて……ステファンにも無理をさせて……」
スーはもう、身体に力を入れていることすらできなくなり、そのまま砂の上に横たわった。同じように隣に並んで横たわるステファンの目は、硬く閉じられている。
その瞼に震える指先を伸ばした。触れた瞼が、無情な冷たさを持ってスーに現実を突きつけた。
「……ごめんね……私の我儘に、巻き込んで……ごめん……ね……」
心に滲んだ後悔や頭の中を埋め尽くす罪悪感が混じり合い、涙となって流れてゆく。夢も現も、すべての輪郭をぼやかして流れてゆく。
段々と気が遠くなっていくなかで、不意に背中にぬくもりを感じた。
温かく包み込んでくれる、優しいぬくもり。
懐かしい記憶を揺さぶられるようなその温かさに、スーは涙を流しながらも視線を持ち上げた。
「……あれは……」
薄雲がかかった空に浮かんでいたのは光の環。
その大きな環はゆっくりと、しかし着実に天から降りてきていた。
やがてそれは、眩い光を放ちながら一瞬の間に広大な水面を黄金に輝かせた。
キラキラと眩しく輝くその水面には、もう拒絶感はなかった。拒むように見えた寄せて返す水たちが、今はスーに寄り添うように足元に近づいては離れる。
「――ああ、綺麗」
スーは身体が空っぽになるぐらいに溜息を吐いた。
「……あれが、太陽……」
目が眩むほどの眩い光を放つそれを、スーは確信を持ってそう断言した。
それはスーが想像していたよりもはるかに大きく、暖かく、優しかった。その事実だけが、スーのずっと張り詰めていた心を溶かし、安心して眠りに誘う。
――見える? ステファン、リドラ。“地獄”の果てには太陽があったよ。
落ちて行く意識の中、瞼の裏に二人の姿が浮かぶ。
――太陽ってこんなにも暖かくて、優しいのね。外の世界が明るくて、光溢れるところで良かったわ。
リドラが笑みを浮かべながら手招きをしている。隣のステファンは無愛想ながらも、スーが来るのを今かと待っている。
――そうね。でも、やっぱり二人がいないとつまらないわ。だから、そっちへ行くね。今、すぐに……
スーは一度も振り返ることなく、二人の元へと旅立った。
やがて眩い光は、最後の一瞬、世界を飲み込むぐらいの輝きを放った。自らの命を燃やし尽くすように光が天地を包み込み、そして水平線へと沈んで行った。
辺りは再び闇に包まれ、満ち引きするさざ波の音だけが静かに残される。
その浜辺で少女は太陽の残像を心に抱きながら、永遠の眠りについた。
第一部 END