6.Funeral
ステファンの指示で、バムは大きな翼を畳んで地面に着地した。
相変わらず変化のない景色に、どのぐらい飛んできたのかもよく分からない。
“地獄”の門はもう見えなかった。代わりに切り立った高い岩壁が前方までずっと続いていた。
「……今日はもう、前に進むのはやめた方がいい。どこか休めそうなところを探してくる。お前はここでバムと待ってろ」
スーはマフラーに顔を埋めて微かに頷いた。バムから降りたステファンは、慎重に足元を調べるように歩いていく。スーはやり場のない消沈した気持ちを抱えながら、その背中を見送った。
「リドラ……」
名前を呟くと、息が白く染まる。“地獄”にいた時と同じだ。
凍えそうな寒さも、陽の光を遮る雪も、何もかも“地獄”と変わらない。
門の外にはどんな未知の世界が待っているのだろうと、胸をときめかせていた自分の愚かさに涙が込み上げた。
「ごめんね、リドラ……私のせいで……」
両手で顔を覆う。濡れそぼった手袋の冷たさが余計にスーの心を抉った。
自分の我儘でリドラを危険な旅に連れ出した挙句、凍えるような雪の中に彼女を見捨てた。
本意でなかったとはいえ、事実、スーはリドラを置き去りにしてきたのだ。
仕方がなかったとは思えない。
あの時無理にでもステファンを止めてリドラの元へ戻っていたら――
――私も一緒に行く。スーひとりじゃ心配だもの。だから、まだお別れは言わないわよ。
そう言って笑ったリドラが脳裏に蘇り、一層胸が締め付けられる。
お別れなんてないと思っていた。外の世界に出ても、リドラはずっと一緒にいてくれるはずだと、心のどこかで安心していた。そんな自分の考えがとんでもなく浅はかだったと思い知らされた。
「リドラ、ごめんね……ごめんね……」
謝罪の言葉しか出て来なかった。
許してくれなど言えない。
今リドラがどこで、どんな思いでいるのか、スーには何も分からないのだ。
もしもリドラが辛い目に遭って泣いていたら。もしもまだ、雪の中で助けを待っていたら――
そんな最悪な想像ばかりが浮かんでくる。
嗚咽を漏らしたスーに寄り添うように、バムが控え目に鳴いた。スーはぐしゃぐしゃになった顔を上げて、バムの背中から降りた。それから正面へ回り、バムの顔を撫でてやった。
「……ごめんね、心配かけて。ここまで連れて来てくれてありがとう」
バムはスーの手に頬を摺り寄せて、もう一度鳴いた。
戻って来たステファンに連れられて、スーたちは雪を凌げるところへと移動した。やって来たのは、切り立った岩壁から一部大きな岩が屋根のように突き出している場所だった。奥の方は少しだけ窪みになっていて、バムはそこに大きな身体を丸めて眠った。
辛うじて仄かな灯りを繋ぎ止めている蝋燭の火を眺めながら、スーはポツリと呟いた。
「……リドラ、今、どうしてるかな」
名前を呼ぶとまた、涙が零れそうになる。スーは膝頭に額をつけてそれを抑え込んだ。
「寒い思い、してないかな。怖い思い、してないかな……」
「……あいつは俺らより強い。だからきっと大丈夫だ。きっと」
心の底から祈るような言い方だった。悪いのは他の誰でもない自分なのに、ステファンにまでその罪を背負わせてしまったことにスーの罪悪感は増した。
もはや今、スーにできることは何としてでも世界の果てまで辿り着くこと、ただそれだけだ。
それが唯一、リドラにできる償いだと思った。
「……この先――“地獄”の果てに何があるのか確かめたら、必ず迎えに行く。何があっても、絶対に」
「……待ちくたびれたって、文句言われる前にな」
「そうね。早く迎えに行かなきゃね」
スーは薄っすらと口角を上げた。それを見て、ステファンは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうと決まれば、この先少しでも生き延びることを考えなきゃな。取り敢えず食糧は何がある?」
「それが……あの嵐の中でリュックも落としたみたいで……色々準備したのに、今はこれだけしかないの」
肩にかけていた小さなポシェットから取り出した中身を、スーは申し訳なさそうにステファンの手のひらに乗せた。干からびた小魚一匹と、硬いパン一切れ。干した木の実が三粒。それがすべてだった。
ステファンは今にも折れそうな小魚を目の前に掲げて、肩を竦めた。
「腹の足しにもならねえ貧相な晩餐だな」
「……ごめん」
「まあいい。これはお前が食え。この先何があるか分からない。できるだけ体力つけておけ」
そう言うとステファンはスーの手に食糧を押し付けた。
「え、でも、アンタは……」
「俺はいい。少し疲れたから先に寝る」
スーが何か言う前に、ステファンはもう壁に寄り掛かり目を瞑ってしまった。
正直お腹は空いていなかったが、ステファンの言う通り、食べられる時に食べておいた方が良い。スーは小魚と木の実を一粒、ボソボソと齧った。硬くてまずいそれらを何とか飲み下し、残りはまたポシェットにしまい込んだ。
ステファンもバムも眠り込んでしまいやることがなくなったスーは、しばらく蝋燭の炎を見つめて過ごした。だが、沈黙は罪の意識を増幅させるばかりで息苦しくなってくる。
仕方なくスーは音をたてないようにそっと立ち上がり、外へ出た。
◇ ◇
スーの気配が遠ざかり、ステファンは薄っすらと瞼を持ち上げた。そこにスーの姿がないことを確認すると、詰めていた息を盛大に吐き出した。
「……っ、は」
力の入らない身体がずるりと壁を滑り、そのまま地面に横たわる。苦しい息を紛らわそうと引きちぎるようにマフラーを緩めたが、纏わりついた冷たい空気が一層呼吸を乱した。
激しい動悸と眩暈に襲われ、目をきつく瞑る。
痛む胸を抑えながら喘ぐステファンに気付いたのか、バムが心配そうに首を伸ばしてきた。
「……っ、心配、すん、な。大丈夫、だ」
目元を撫でてやると、その手に頬を擦り寄せてきた。バムの体温に触れて温かいと感じるはずの手のひらには、じっとりと汗が滲んでいる。病魔に蝕まれた身体は、他者の体温すら受け取れないほど熱を帯びていた。
どうにか痛みをやり過ごし、ステファンは額の汗を拭った。すかさずバムが長い舌で同じように頬を舐め始める。
「……くすぐってえよ」
言いながら、ざらりとした舌の感触にまだ自分が生きていることを確かめる。
まだここで死ぬわけにはいかない。
スーをひとりにしていくわけにはいかなかった。
身を起こしてバムの背中に寄り掛かり、ステファンは宙を見上げた。
蝋燭の灯りは手元を照らすのに精一杯で、頭上は暗闇に包まれている。その黒い空間に、先程のスーの姿を思い描いた。
「……自分のせいだと思ってんだろうな」
幼い頃からの付き合いだ。スーが何を考えているかなど、言われなくても手に取るように分かる。
“地獄”という身も心も凍てついた場所で生まれ育った癖に、スーは誰よりも明るく、真っ直ぐな性格をしている。その上、頑固で、自信家で、失敗してもへこたれない強さがあった。
喧嘩になっても、おばさんに怒られても、最後にはちゃんと笑顔を取り戻すスー。だから何を言っても、何があってもきっと平気だろうと思っていた。
だが――
「……リドラ、お前、何でひとりで勝手にいっちゃうんだよ。まだちゃんとお別れも言ってねえのに」
リドラが戻って来ない限り、スーは永遠に笑わない。彼女の心の底から笑った顔を見ることは、二度とできない。
ステファンにとっての太陽が、分厚い雲に覆われて沈んでいた。歯痒い気持ちを誤魔化すように、ステファンは両手で顔を覆った。
――アンタ、私と約束しなさい。この先どんなことがあっても、スーと一緒に最後まで見届けること。何があっても、絶対にスーをひとりにしないこと。いい? もしスーを泣かせるようなことがあったら、私が一生許さないからね。分かった?
リドラとそう約束を交わしたのが、随分と昔のことのようだ。
「リドラ……お前との約束、守れるかな……」
◇ ◇
ひと眠りした後、一行は岩穴を出て先へ進んだ。
吹雪は弱まっているものの、鈍色の空からは変わらず雪が降り注いでいる。
時間の感覚はとうに失われていたが、雲と雲のほんの隙間に薄く光が見えるので日中なのだろうと判断した。
行き先を示すものは何もない。
もう見えなくなった“地獄”の門から遠ざかるように、ただひたすら背を向けて歩き続けた。
空を舞う体力を失ったバムは、それでも健気にスーたちの後をついてきた。
雪の中に残された三つの足跡は、新たな一歩を踏み出す度に、新しい雪によってその痕跡を消されていった。
どれだけ歩いて、今どこにいるのか。
どうして自分はこんな苦しい思いをして、寒い雪の中を歩き続けているのか。
スーはそれすらも分からなくなりそうだった。
雪が激しくなる前に駆け込んだ小さな洞穴で最後の蝋燭に火を灯した。
小さな炎はかじかんだ指先を少し温めるぐらいしか役に立たない。雪が凌げるとは言え、寒さは外と同じだ。スーたちはなるべく身を寄せ合って、静かに眠りについた。
空腹と疲労のせいで、スーは浅い眠りからすぐに目を覚ました。
足元の蝋燭はまだ、それほど溶け落ちていない。眠っていたのはほんの一瞬だった。
「……ステファン? 起きてる?」
名前を呼んでみたが、反応がない。まだ眠りの世界にいるようだ。
ふと思い立ち、スーは手袋を外してステファンの髪にそっと触れた。
少し癖のある色の薄い髪の毛は、しっとりと濡れていて冷たい。それでも他者の存在を触れて確かめられたことに、スーは少しだけ安心した。
しばらくそうして髪を撫でていると、ステファンは身じろぎをしてスーの方へ顔を向けた。仄かに照らされた俯き加減の顔は、想像以上にやつれていた。元々白い肌がさらに色を失くし、目の下を濃い隈が縁どっている。心なしか頬もこけたように見える。
「ステファン……」
思ったより酷く瘦せ細ったステファンに、スーは漠然と不安を感じた。
食糧も、暖を取るものも、もう手元には一つも残っていない。
この眠りから覚めたら、あとはただずっと、先の見えない道を歩いていくだけだ。
世界の果てに辿り着くのが先か、自分が力尽きるのが先か――選択肢はもう、そこまで来ている。
最後まで一緒だと勝手に信じていた。
けれど、もし途中でステファンに何かあったら――
無意識にステファンの頬に手を伸ばしていた。指先に触れる直前、目の前の睫毛が震えた。
「……お前、何やってんだ」
スーは咄嗟に手を引っ込めた。
「……ごめん、起こした」
「ったく、せっかくいい夢見てたのに……」
欠伸をしながらそう文句を言うステファンはまるでいつも通りで、スーは気取られないように胸を撫で下ろした。どんな夢を見ていたのか訊いてみたくなったが、二人を取り巻く空気は沈殿していて、スーはそのまま沈黙した。ステファンも何も言わなかった。
しばらくバムの寝息を聴きながら、スーは“地獄”にいた頃のことを思い返した。
あの頃は絶対にこんな場所出て行ってやると豪語していたのに、いざ飛び出してみたらあの狭くて不自由な世界を懐かしくすら思えた。
ステファンと口喧嘩して、リドラと笑い合った他愛のない日常。
それを捨ててまで見たかった景色は一体何なのだろう。
「……ねえ、ステファン。この先には、何があると思う?」
「この先?」
「うん。あとどれぐらい先なのかは分からないけど、とにかくずっと歩いていった先に何が待ってると思う?」
「……お前はどうなんだ? 人に訊くなら先に言えよ」
スーは両手で膝を抱えて、「……笑わないでよ」と前置きした。
「あのね……最初は外の世界にはきっと自由と平等があるはずだって意気込んでたの。あの絶望的な塀の中にはない救いと、未来があるんだって。でも今はね、そんなことよりもただ……太陽があって欲しい。ここみたいに雲の切れ間から薄っすらとしか見えない光じゃなくて、もっと大きくて、もっと強くて、もっと暖かい日差しがいっぱいに満ちていて、私たちを包み込んでくれる。それで、その光を纏いながら大きな太陽が、私たちを喜んで迎えてくれる――そんな場所だったら良いなあって……ちょっと、子どもっぽいかな」
気恥ずかしくなり、段々と尻すぼみになっていくスー。
ステファンは地面に転がっていた帽子を拾い上げ、表情を隠すように深く被った。
「……別に、良いんじゃないか、お前らしくて」
「……そう?」
「ああ。自由とか平等とか、嘘くせえ望みよりよっぽどマシだ」
「嘘くさいって……まあ、でも、ありがと。ちょっと気が晴れた」
スーは笑って言った。
ステファンは、少し目を伏せて薄く微笑んだ。
「あると良いな、太陽」
◇ ◇
次に目を覚ました時、スーの手からまた一つ大切なものが零れ落ちていった。
寒さからスーを守るように寄り添ったバムの身体は、地面と同じぐらいに冷えきっていた。
「バム……ねえ、バム。目を覚まして、お願い」
必死にその背中を揺すったが、バムの瞼が再び持ちあがることはついぞなかった。
スーたちを“地獄”から連れ出してくれた大きな翼も、地面に力なく垂れ落ちている。
この翼が大空を駆けることは、もう二度とない。
「……仕方ない。ろくに食べさせてやるものもなかったからな」
「ごめんね、バム……」
果たしてバムは、“地獄”を出ることを願っていたのだろうか。
空を飛べなくとも、あの地で寿命を全うすることの方が幸せだったのではないだろうか。
自由を望んでいると思ったのは、スーの勝手な押し付けだったのだろうか。
何一つ知りようがなかった。
安らかに目を閉じるバムの側に片膝をつき、ステファンはバムの背中を優しく撫でた。
「……雪が凌げる場所なのが、せめてもの救いだ」
スーもその隣に膝をついて、同じように冷たい身体に触れた。
「ここまで一緒に来てくれてありがとう」
死者の弔い方など知らなかった。
けれど、ありったけの感謝の気持ちを込めてスーは祈った。
「どうか、安らかにお眠りください――」