5.Fairy tale
暖炉の火がパチパチと爆ぜる。雪を乗せた風が、窓を叩く。
おばばはゆっくりと、静かに語り始めた。
「――“地獄”はな、広くて大きな世界の中の、小さな――ごく小さな地域にすぎない。“地獄”は世界そのものではなく、世界の一部なのじゃ。ここに壁と門が建設されたのも、そう遠い昔のことではなく、それまでは――“地獄”という場所はそもそも存在すらしなかったのじゃ」
ルーおばさんは、おばばの言葉にじっと耳を澄ませた。
「……遡ること百余年。当時の人間たちの身勝手な都合のせいでこの地に“地獄”が生まれた。陽の光が届かない、この暗くて寒い、雪に閉ざされた地にな――」
◇ ◇
ぼやけていた輪郭がはっきりと吹雪の中に現れた。
飽きるほど見慣れた、くすんだ色の防寒装備を身に纏った門番たち。
――逃亡者、一名発見。
淡々とした門番の声が、事実を告げた。
門番たちは音もなく、亡霊のようにあっという間にリドラを取り囲んだ。
そのすべての手には、リドラを処刑するための道具が握られている。
同じ顔をした門番の中で、一人、無造作に髭を生やした男が前に出た。
――他の仲間はどうした。
門番にそう問われ、リドラは全身が凍って固まってしまったかのような錯覚に陥った。
これまで門番と直接口を利いたことなどない。それは許されないことだったからだ。
リドラは歯の根が合わないのを無理矢理抑えて、どうにか気丈に振る舞ってみせた。
「……こ、ここには――いないわ。ここにいるのは、私、一人だけよ」
門番は目を眇めて、リドラを無遠慮に見回した。
――まだ近くにいる可能性が高い。手分けして探せ。
リドラが咄嗟に手の下に隠そうとした右足の怪我にも視線を落としたが、それに言及することもなく門番は周囲にそう命令した。リドラを囲っていた半数が、雪の中散り散りに消えていく。
――門の外まで逃げられたのは初めてだ。しかもこんなガキどもに出し抜かれるとはな。
髭面の門番は、冷静さの間に少しばかり苛立ちを込めて言った。
――上に報告すれば処分は免れない。監視体制の不備も問われるだろう。だが――
門番は懐に手を入れる。
リドラはその動きを全身全霊を傾けて見つめた。
――事実はいくらでも変えられる。初めから逃亡者などいなかったのだ。そうすれば何の問題もない。
瞬きをすることさえ、惜しかった。
耳に届くのは門番の――“地獄”の門番の宣告。あとはもう、何も聞こえやしない。
――初めから、逃亡者などいなかったのだ。初めから、な。
「――――」
突き付けられた銃口は、永遠に続く暗闇のように見えた。
リドラの恐怖に引き攣った顔を見て、銃口の奥、初めて門番が人間味を帯びた表情を浮かべた。
――冥途の土産に一つ、教えてやろう。
そこにあったのは、あからさまな侮蔑。
――貴様が信じた世界はただの作り物だ。“地獄”など幻想にすぎない。“地獄”の外に、自由も解放もない。待っているのは――本物の地獄だ。
その言葉はリドラの中をただ流れて出て行くばかりで、その意味を考えることなどできなかった。
門番の手元で、何かが動いた。
最早、声も出ない。
最期に強く願ったのは、
どうか、
どうかスーたちが――
真っ白い世界に、銃声が響いた。
◇ ◇
「ステファン! もっとゆっくり! スピード落として!」
「分かってる!」
荒ぶる風雪の中、振り落とされたリドラを見つけ出すのは至難の業だった。
スーの眼下には、まるで時が止まったかのような雪原ばかりが広がっている。
その上、吹雪で体力を削がれたのか、バムの翼の動きが鈍くなってきていた。高度を保てなくなる前に追っ手から距離を取らなければ、自分たちが先に門番に捕まってしまう。
それでもスーには、リドラを残してこの先に進むことなど、微塵も考えられなかった。
「頑張って、バム。お願いだから……!」
バムの背中を撫でてやりながら、スーは足元の白い大地をつぶさに見回した。
だが、リドラの姿はどこにもない。それどころか、生き物一匹見当たらない。
「リドラ、どこにいるの……? 返事してよ……!」
焦りばかりが募る。大きく身を乗り出してしまい、スーは思わずバムからずり落ちそうになった。
「わっ……!」
「何やってんだ馬鹿! お前まで落ちてどうする!」
間一髪、ステファンが掴み止めてくれた。スーは体制を立て直し、もう一度下を覗く。
何度見ても、人影一つ――
「あっ……!」
白ばかりの世界に現れた、何か動くもの。
一瞬リドラかと期待をした。だが、スーよりも早くステファンがその正体に気付いた。
「まずい、門番だ! 追っ手がすぐそこまで来ている! 逃げるぞ!」
「でも……! リドラは!? リドラはどうするのよ!」
スーの叫びにステファンはグッと何かを堪えて、絞り出すように言った。
「……諦めろ」
「嫌! そんなの絶対に嫌! リドラを置いて先になんて行けない!」
追っ手がここまで迫っているということは、リドラが門番に捕まるのも時間の問題だ。もしかしたら既に、門番の手に落ちている可能性もある。ステファンはバムの手綱を握り、高度を上げるよう指示した。
低いところを旋回していたバムが、門に背を向けて飛び始める。それに気付いたスーは、ステファンの背中に拳を叩き付けた。
「ステファン、やめて! バムを止めて!」
だがステファンは、前を向いたままスーの言葉を無視した。唇を噛んで、背中に走る衝撃に耐える。
「お願いだからリドラの元に行かせて! 私たちが助けに来るのを絶対待ってるはずよ! 見捨てるなんてできない! ねえ、ステファン! ねえったら!!」
スーの訴えも虚しく、バムはどんどん門から離れていく。
「嫌だ! リドラ! リドラ!!」
スーは何度も後ろを振り向きながら叫んだ。
「リドラァ――!!」
◇ ◇
薄暗い室内を灯すランプの灯りが、隙間風に揺らめいている。
外の風は一段と激しさを増し、桟の上に雪が積もってゆく。
「――その当時、この厳しい北の大地は災害や飢饉に数多く見舞われ、人々は生活に困窮していた。一部の人間ばかりが富を手にし、その他大勢の民は明日食べる食糧すらもないような有様だったのじゃ。あまりの苦しさ故に民は救いを求めて暴動を起こし、領土を治める権力者を悩ませた。そこで時の権力者は、富の再分配と称してそれまでの階級制度を見直し、民の不満を己から逸らすための受け皿を作ることにした」
「かい……? 一体何だい? それは」
おばばの口から飛び出た聞き慣れない単語に、ルーおばさんは思わず訊き返した。
普段、暖炉のそばで日がな一日ぼんやりと過ごしているこの老婆が、どうしてここまで深い事情を知っているのだろう。
「本来平等であるはずの人間を、勝手な都合で区別することじゃ。わしら住人が門番に支配されているのは、わしらが門番より下の身分であると区別――否、差別されているからじゃ。わしらは門番と口もきいてはならぬが、門番はわしらの命でさえ好きに扱うことができるのは、この階級制度のせいに他ならない」
「じゃあ……その階級制度とやらのせいで、あたしたちはこんな暮らしをさせられているっていうのかい? 前世の罪を償うというのは嘘だったっていうのかい?」
おばばはしかと頷いた。
「お前さんはずっと、自分が“地獄”に生まれたのは、前世で犯した罪を償うためだと信じて来たじゃろうが、それは門番が適当にでっち上げた嘘さ。この過酷な環境から逃げ出す者を出さないために、自らに罪の意識を植え付け、従順にさせるための、奴らにとって都合の良いお伽話にすぎないのじゃ」
「お伽話……」
これまで信じてきた何もかもが根底から覆され言葉を失うおばさんを、おばばは優しく見つめた。
「――当時の階級制度の見直しによって、新たに最底辺の階級が設けられた。富の再配分とはただの名目。大多数の民の暮らしは変わることなどなかったが、下の立場を作り出すことであたかも階級が上がったと錯覚し、民は溜飲を下げるに違いない――その考えのもと、生み出されたのがここ“地獄”じゃ」
おばばは一度話を区切って深く溜息を吐いた。振動で肩から滑り落ちそうになったケープを羽織り直す。部屋の中は、外から切り離されてしまったかのように静かだった。
「――そうじゃ、お前さんに良いものを見せてやろう。そこの本棚の一番上の右端にある本をとっておくれ」
「これかい?」
おばさんは示された通り、本棚から一冊の本を引き抜いて手渡した。おばばは老眼鏡をかけ、その本を慎重に開いた。中から四つ折りになったボロボロの紙切れを取り出すと、そっと膝の上にそれを広げた。
「これは地図じゃ。“地獄”の外の世界の形が描かれておる」
「外の世界の……?」
「そうじゃ。世界はわしらが想像するより遥かに広くて大きい。ここに描かれているのは世界の――大地の形。この地図の上の方――ほれ、この辺りがわしらが今いる“地獄”じゃ。広大な大地の、限りなく北に近い場所。ここが、お前さんが世界のすべてだと思っていた場所じゃよ」
おばばは枯れ木のような指で、紙切れのとある一点を指さした。そこには薄っすらと丸印がついていて、その中にほとんど消えかかった何かの文字が書いてある。
「……こんな、小さい場所が……」
地図の上の“地獄”は、干からびた豆粒ほどの大きさしかなかった。
瞑想するように目を閉じて、おばばは続けた。
「わしらのことを、外の世界の人々は『非人』と呼ぶ。人に非ず――人で非ず。家畜同様、生かすも殺すも自由じゃ。“地獄”は、唯一人ならざる我々が存在を許された場所。逃げ出さないよう壁で囲い、門で閉じ込め、死ぬまで強制的に労働させる場所なのじゃ。ここに収容されたら最後、二度と外には出られない。太陽も見えない一年中雪に埋もれたこの地で、門番のお伽話だけを信じて死んでいくしかない……」
おばばはスッと玄関の扉の方へ視線を送った。一拍遅れて、複数の機械的な足音がルーおばさんの耳にも届く。
「――さて、昔話はここまでにしようか。お迎えが来たようじゃからの」
世界地図を丁寧に畳みなおして本の間へ挟む動作は、何の気負いもなく普段通りのおばばのままだった。
「……最後に一つ教えてくれよ。どうしておばばはこんな話を知っているんだい?」
ルーおばさんがそう尋ねると、おばばは皺だらけの頬を持ち上げて微笑んだ。
「さあてね。わしの話もまた――お伽話のようなものさ」
ノックもなく扉が開く。
それからのことは、もう誰も、語り継ぐ者はいない。