4.Fall down
スーが部屋からいなくなったと気付いたのは、外の雪が少し落ち着いた頃だった。
朝食を摂らせるために呼びに行くと、部屋はもぬけの殻だったのだ。
「まったく何て子だ、あの子は!」
ルーおばさんは怒りに任せて家を飛び出した。文句を言いながら通りを闊歩していると、前方から数軒先に住むやせ細った女がやって来た。
「アンタ、うちのスーを見なかったかい? 朝から姿が見えないんだよ」
捕まえて問いかけると、女は心底迷惑そうに顔を顰めた。
「アンタのところの小娘、大変な騒ぎを起こしてくれたね!」
「どういうことだい? スーが何を……?」
女は骨と皮だけの腕とは思えない、やたらと強い力でおばさんを路地裏に引っ張り込んだ。
「――良いかい? よくお聞き。あの子はね、今朝早く東の小屋のセイント・ポニーを逃がしちまったのさ! 一頭残らず全部だよ! しかもどんな手を使ったのか、ポニーたちは興奮して暴れ回り、手が付けられない状態だったそうじゃないか。おかげで全頭門番による殺処分。一体どうしてくれるんだい!」
「あの馬鹿娘!! 何てことを……!」
肩を激しく震わせて、ルーおばさんは叫んだ。女は口元に皺だらけの人差し指を当てて、静かにするよう言った。
「しかも、そのどさくさに紛れて門から逃げたなんて噂も出回っている。真相は分からないがね、とにかくポニーを逃がしたのは確実にアンタのところの小娘なんだ。どうやらおばばのところの生意気なガキも一緒らしいじゃないか。お上には全部バレてんだ。気の毒だが、もうどうにもならない。すぐにでも、アンタのところに門番が来るだろうよ」
女は憐みの眼差しでおばさんの肩を叩き、その横をすり抜けていった。
唖然と口を開いたまま、ルーおばさんはしばらくその場に立ち尽くした。
◇ ◇
それからは無我夢中だった。
急激な上昇に耐えながらバムの背中にしがみつき、極限まで身を屈めて門番の発砲を凌ぐ。スーがバムの背中から振り落とされなかったのも、門番の弾が当たらなかったのも、奇跡としか言いようがなかった。
やがて追っ手の気配がなくなり、スーはそろりと身を起こした。風に流された雪が断続的に顔に張り付くのを拭いながら恐る恐る足元を見下ろして、思わず感嘆の声を上げた。
「わあっ……! 凄い!」
スーはようやく余裕を持って見下ろした上空からの街並みに、心の底から感激した。
足元に広がる景色はとても新鮮だった。なんせ所狭しと建ち並んだ家の屋根が豆粒ぐらい小さいのだ。今なら摘まみ上げて手のひらに乗せることだってできそうである。スーは見慣れた街の、見慣れない景色に大いに胸をときめかせた。
「ねえ見てリドラ、街がこんなに小さいわ! 鳥っていつもこんな景色を見ていたのね! あ、ほら、あそこに見えるのは共同集会所じゃないかしら? 他の建物に比べたら一番大きいと思っていたのに、あんなに小さく見えるなんて……!」
はしゃぎながら振り返り、スーはリドラの腕を引っ張った。同じように感動の声を上げるかと思いきや、リドラは硬い表情を崩さなかった。
「ちょっと、揺らさないでよ! 危ないじゃない……」
「リドラ?」
リドラの引き攣った頬を、雫が伝う。それが溶けた雪の結晶なのか、それとも汗か涙か、スーには見分けがつかなかった。
「リドラ、大丈夫? 顔真っ青だよ? 気分でも悪い?」
「……平気よ。ちょっと高いところが苦手なだけ」
「本当に?」
リドラは安心させるように笑顔を作って頷いたが、依然としてその顔色は白い。スーが何か言おうとした時、前方でステファンが叫んだ。
「門を超えるぞ! 振り落とされるなよ!」
「う、うん!」
スーは緊張しながら、前を向いて目指す先を見据えた。
“地獄”はスーが思い描いていたよりも遥かに小さくて狭い場所だった。バムはほんのひとっ飛びで、世界の端から端まで横断できてしまったのだ。
あっという間に辿り着いた“地獄”の行き止まり。
あまりにも呆気ない――だが、ここから先が旅の本番だ。
門の周辺に、門番の姿はなかった。人影一つ、見当たらない。
「……誰もいない。今がチャンスね」
スーの胸は高鳴った。
「しっかり掴まってろ!」
ステファンの背中に、緊張感が漂う。
スーはステファンにしがみつきながら、外の世界までの距離を心の中で数えた。
あと三メートル。
あと二メートル。
あと一メートル。
雪景色の中、異様に存在感を放つ黒くて頑強な門の上を――ついにバムが通過した。
突如、予期せぬ暴風がスーたちを襲った。
荒れ狂った風が、凍てつくような雪をスーたちに容赦なく叩きつけてくる。
「何なの……!?」
「喋るな! 息ができなくなるぞ!」
激しい雪のせいで、ろくに目も開けられない。風に煽られバムの身体がぐらりと揺らいだのを感じ、スーはギュッと目を瞑ったままステファンの背中に回した腕に力を込めた。
その時、背後で小さな叫び声があがった。
振り向いてどうにか薄目を開けると、リドラの身体が不安定に宙に投げ出されていた。
「リドラ!!」
スーは咄嗟に手を伸ばした。
吹雪に視界を阻まれ、思わず目を伏せる。
そして――何かを掴んだ。
すぐさま掴んだものを引き上げようとして、その軽さに嫌な予感がした。
手の中に残っていたのは、リドラの手袋だけだった。
◇ ◇
路地裏を出ておばさんが向かった先は、ステファンの家だった。
「おばば! いるんだろう!」
粗末な玄関の扉を壊す勢いで開き、おばさんは遠慮なく中に入った。
玄関を入ってすぐの小さな居間には大きな本棚があり、そこに入りきらなかった書物が床まで雪崩れ込んでいる。狭い床面積の半分以上を本が占拠する部屋の中、暖炉の前のロッキングチェアに背中の曲がった白髪の老婆が身を預けていた。
「おばば! 大変なことになったよ! うちの馬鹿娘たちがポニーを小屋から逃がしたっていうんだ! 挙げ句の果てには“地獄”の門を出たなんて噂まで流れてる! 一体これはどうなってるんだい? 何が起こっている? いや、それよりも、あたしはどうしたら良いんだい?」
「お前さんのやるべきことは、まず――落ち着くことじゃな」
機関銃の如くまくしたてるおばさんに、老婆は囁くように言った。
「落ち着いている暇なんかないんだよ!」
「だからこそじゃ。ほれ、そこに椅子があるじゃろう。そこに座って、息を整えるのじゃ」
おばさんは仕方なく指示された椅子を手繰り寄せた。恰幅のいい身体を椅子に乗せ、おばばの方を見る。
「――で、お前さんはその話が真実であるか聞きに来たわけかい? ええ?」
「もし本当だったら、あたしらは門番にとっ捕まっちまう! 殺されちまうんだよ!」
半ば叫ぶように言ったルーおばさんを、おばばは老眼鏡越しに見返す。その目には、すべてを見通すような鋭さがあった。
「――残念ながら、真実じゃ。あの子らは、“地獄”を出て行ってしまった」
あまりにも冷静に告げられたせいで、ルーおばさんはその内容を飲み込むのに幾らか時間を要した。
「……まさか。“地獄”を出られるわけないじゃないか! そんな嘘――」
「この期に及んで嘘なぞ言うものか」
「だ、だけど、おばば。そんなことが本当にできるのかい? “地獄”を出るなんざ……」
動揺からしきりに身体を揺すりながらルーおばさんはそう尋ねた。
灰色の目を細め、おばばは微笑んだ。
「“地獄”を出るのは簡単さ。ほれ、窓の外に見えるあの黒く聳える建造物が何なのか、お前さんも良く知っているじゃろう? あれは門じゃ。門とは、外と内を区別するものであり、出入口でもある。あの門は、外に出るために存在するのじゃよ」
「外に……?」
「そうじゃ。じゃが、あの門を通るためには、門番の堅い守りを突破する必要がある。それが難しいから、今まで誰もここを出ることに成功しなかった。“地獄”の外の世界を、誰も見ることはなかったのじゃ。これまでも――これからもな。あの子らが門番の手に落ちるのも、もはや時間の問題じゃろう」
目を伏せて、おばばは長く息を吐いた。
「――こうなったのもすべてわしの責任じゃ。きっとスーはカルファンの本に影響を受けたに違いない。スーはよく家にきてはあやつの本を読んでいたからのう。変に希望を持たせることはしてはならなかった。そうすれば、あの子たちがこんな企てをすることもなかったろうに……」
カルファンとはステファンの父親であり、おばばの孫である。彼は妻のセルナとともに門番に殺され、おばばの元にはまだ幼い曾孫のステファンだけが残された。
おばばは皺だらけの指で、膝掛けをそっと手繰り寄せた。
「……唯一残ったステファンまでもがわしの元を去ってしまった。スーもリドラも、もうあの子たちの顔を二度と見ることはできない。長生きはするものではないな。年をとると増えるのは悲しみばかりじゃ」
寂しげな呟きが、宙に消えていく。
暖炉の火が小さく爆ぜる。
窓の外では再び雪が降り始めている。
静かだ。門番の気配はまだない。
「……何でこんなことになっちまったかねえ……」
ルーおばさんは勢い削がれて、ぐったりとテーブルに半身を預けた。この短い間に随分と老け込んでしまったようで、おばさんは生気を失った目を暖炉の辺りにぼんやりと漂わせた。
「……それで、おばばは“地獄”の外の世界があると、あの門から外に出ることができると信じてるんだね?」
おばばは静かに首を横に振った。
「信じているのではない――外の世界は確かに存在するのじゃ」
「――え?」
「あるのじゃよ。“地獄”の外は」
おばばははっきりとそう言うと、老眼鏡を外して窓の方へ視線をやった。
「……どうせそのうち門番が来ちまうんだ。最期のひと時を、有意義に過ごそうじゃないかい」
灰色の目は、遥か昔を思い返すように遠くを見つめた。
「聞いてくれるかい。老人のつまらぬ昔話を」
◇ ◇
ぱたり。
まっさらな雪の上に、赤い斑点が落ちた。
リドラはやっとの思いで身を起こし、雪の上に投げ出された右足を慎重に引き寄せた。
手袋を失ったかじかんだ手を、右足首辺りにあてがう。手の平は、すぐに赤に染まった。さらに手の平から溢れ、滴り落ちる赤。
「……っ、……っ」
リドラは必死で喘ぎながら、呼吸を整えようとした。
門番の撃った弾が、踝を貫通している。それ以外にも、高所からの落下でいくつか骨が折れていた。
全身が燃えるように熱くて痛いのに、雪に埋まった足の先から徐々に体温が失われていていく。ない交ぜになった熱さと冷たさが、リドラの長所である冷静さと余裕を奪っていった。
リドラは歯を食いしばって、ほんの少し目線を持ち上げた。空の端っこが、視界に引っ掛かる。
「スー……っ、ごほっ……!」
気道に入った冷気に噎せる。その反射的な動きに呼応して、身体が痛んだ。
スーたちはどこまで行ったのだろう。
滲んだ景色の中、リドラはただそんなことを考えた。
上空ほどではないとはいえ、相変わらず雪は横殴りに吹雪いている。天と地の境目を塗り固めるように降り積もる雪――
確かに“地獄”の門を超えたはずなのに、ここにはあまりにも見慣れた景色が広がっている。
「こんなの……」
何が外の世界だ。何が自由だ。
ここには何もないじゃないか。前と何も――
いや、まだ分からない。
この先にはもっと、見たこともないような世界が待っているのかもしれない。
でもそのためには、二人が戻って来ることを祈るしかないのだ。
「……それは、無理よ」
リドラは自嘲した。
この身体ではもう、スーと一緒に旅を続けることもできない。
かといってもう二度と“地獄”には戻れない。
だとしたら、私は――
吹雪で霞む視界に、ポツ、ポツと点が現れた。
生き物の気配がなかった真っ白い雪原の中、それらは明らかに意志を持って蠢いている。
リドラはしばらくそれをぼんやりと眺めていたが、その点は時間を掛けて近づいてきて――やがて人の形を結んだ。
「ああ……」
無意識に漏れた呻き声。
覚悟を決める時がきた。
寒さのせいか、あるいは恐怖のせいか。
ガチガチと震える歯の隙間からリドラはスーに謝った。
「最後まで、一緒に行けなくて、ごめん、ね……」