3.Fly high
あくる日の朝、スーは自室で旅の準備を終えようとしていた。
リュックサックに入れた食糧、水、燃料、防寒着などを再点検し、こっそりと失敬してきたステファンの父親の本を詰め込んだら完了だ。
「今日は一段と寒いわね……」
スーはかじかんだ手を擦り合わせながら、部屋の中でも白くなる息とともにひとりごちた。
窓の外は相変わらず雪のせいで閉塞的な灰色が広がっている。いつもと同じ景色だ。
だが今日は、昨日までとは比べ物にならないくらい劇的な一日が待っている――そう思うと、飽きるほど見てきたこの景色も、スーの目には新鮮に映った。
コートを羽織り、手袋とマフラーを装着しながら、壁掛け時計で時間を確かめる。
リドラとの約束の時間まであと十分。時計の針が頂上に辿り着いたら、作戦開始だ。
リドラが東の小屋のポニーたちを解放して騒ぎを起こしている隙に、スーは西の小屋からバムを連れ出す。門番たちが門を離れたのを見計らって、スーはバムとともにリドラと合流する。そこまで順調に行けば、後はバムが門の外へ連れて行ってくれるはずだ。
「大丈夫よ。きっとうまく行くわ」
スーは声に出して自分にそう言い聞かせた。
ひとりでいると、悪い想像ばかりが過る。スーはそれを振り払うように頭を振って、また自分自身に言った。
「うまく行くことだけを考えるの。成功を信じるのよ」
スーはずっしりと重たいリュックサックを背負い、椅子に置いてあった帽子を手に取る。それから自室の窓を音を立てないように慎重に開け、ルーおばさんが寝ている部屋の方角に深々と頭を下げた。
「おばさん、今までお世話になりました。さようなら」
そのまま帽子を深く被って、スーは窓枠を乗り越えた。
◇ ◇
一方その頃、リドラは約束通り東の小屋へ向かっていた。
「――呆れた。あれだけ反対しておいて、何しに来たのよ? わざわざ見送りにでも来てくれたわけ?」
乱暴に雪を踏みしめるリドラの隣には、頑なにスーの挑戦を否定したはずのステファンがいた。ステファンは不機嫌そうな顔で、リドラに言い返す。
「……俺は別に、全部を否定したわけじゃない。ただスーひとりじゃ無理だって言っただけだ。あの能天気でお人好しで馬鹿なスーが、どうやってひとりでここを出ていける? そんなの無理に決まってる。だったら俺が着いて行くしかないだろ」
ステファンは、スーが“地獄”を出ることを誰にも相談もせず、勝手にひとりで決めて実行しようとしたのが気に食わなかった――要は、拗ねていたのだ。
スーが自分を置いてひとりで旅立とうとしたことに納得がいかないし、そんな命の危険を伴うような旅に、スーひとりで行かせるのも心配だ――あの話を聞いた時のリドラの胸中は、多分ステファンとほとんど同じだったが、それを言うのは癪なので黙っておく。
「言っておくけど、私はちゃんとスーに誘われてここにいるの。呼ばれてもないのにこっそり着いて行こうとするアンタとは違うんだからね」
「うるせえな。お前らだけじゃ門出る前に死んじまいそうだから一緒に行ってやるんだ。むしろ感謝しろよな」
「アンタってほんとに素直じゃないわね。どうして一緒に行きたいって言えないのかしら」
ステファンは不愛想に「ほっとけ」と吐き捨てた。
呆れながらも、リドラは自然と笑みが零れた。なんやかんやと言いながらも、ステファンは面倒見が良い奴なのだ。リドラにとってもステファンがいてくれることは安心だ。だが、一つ懸念があった。
「――でも、正直心配だわ。アンタの身体、相当悪いんでしょう? いつ倒れてもおかしくないぐらい。そんな状態で、わざわざこんな危険を冒さなくたって……」
ステファンは雪の積もった枝を避けながら黙って歩いていたが、やがて白い息とともに言った。
「……だからこそだ。もう先が長くないからこそ、俺は自分がやりたいと思ったことをやる――それだけだ」
「でも、自分の病気のこと、スーには絶対知られたくないって言ってたじゃない。この先ずっと隠し通すのは無理よ? それでも行くの?」
「……ああ。もし必要な時が来たら、その時にはちゃんと言うよ――遠慮なく俺を置いて先に行けってね」
リドラは顔を顰めて隣のステファンを見たが、半分ほどマフラーに埋まった横顔からは、本音を読み取ることはできなかった。
「……まったく、無責任ね」
ため息が白く染まる。リドラは手を伸ばし、白と緑の縞模様のマフラーをぐいっと引っ張った。ステファンが苦し気に目を細める。
「アンタ、私と約束しなさい。この先どんなことがあっても、スーと一緒に最後まで見届けること。何があっても、絶対にスーをひとりにしないこと。いい? もしスーを泣かせるようなことがあったら、私が一生許さないからね。分かった?」
有無を言わせぬ口調のリドラに、ステファンは観念したように両手を上げた。
「……約束破ったら、お前、死んでも化けて出てきそうだもんな」
「そうよ。覚悟しなさい。私は執念深いわよ」
冗談めかして笑うリドラに、ステファンは薄く笑い返した。
「……約束。守れると、良いけどな」
その小さな呟きは、すぐに風に攫われて消えた。
◇ ◇
立て付けの悪い扉を力いっぱい開ける。途端に獣臭を伴う湿度の高い空気が漂ってきた。
薄暗い小屋の中に足を踏み入れると、柵の間からセイント・ポニーたちが首を伸ばしてこちらの様子を窺ってきた。餌の時間だと思ったのだろう、期待の籠った眼差しでポニーはリドラたちを見つめる。
リドラは少し心苦しくなりながらも、作戦決行のための準備を始めた。手持ちのカバンの中から蝋燭を一つ取り出し、マッチを擦って火をつける。ステファンはコートのポケットに手を突っ込んで、扉にもたれながら一連の作業を眺めた。
「何するんだ? それ」
「アンタ、スーの話ちゃんと聞いてなかったでしょう? これは薬草を練り込んだ蝋燭よ。この薬草の香りは、人間にとっては気分を鎮めてくれるものだけど、ポニーに対しては興奮作用があるの。これからこの小屋いっぱいに香りを充満させるのよ」
「ふうん」
「きっとこのことも、アンタの父親の本に書いてあったんでしょう。あの子の知識は全部そこから来てるから」
「アイツも物好きだよな。親父の本なんか、何が面白くて読むんだか」
「……そうね。強いて言うなら、希望があるから――じゃないかしら」
「希望?」
薄暗い室内に仄明るい炎が揺らめく。
「そう。スーはアンタの父親の本を読んで、外の世界が存在すると信じたわけでしょう? そして本気で“地獄”を出ようと思った。それぐらい、その本には強く惹きつけられるものがあった。自分にとっての希望とか、未来とか、そういうものがあった――ってことなんじゃないかしら」
「お前はどうなんだ? 信じてるのか? 親父の幻想を」
リドラは「……そうねえ」と言いながら蝋燭を見つめた。
「私は――ここまで来てまだ、外の世界なんて幻なんじゃないかって思ってる。でもね、私は外の世界のことは信じていなくても、スーのことは信じている。だから一緒に行くの。スーならきっと、私ひとりでは一生知ることのない世界に連れて行ってくれるはずだから」
「……お前はほんと、スーに甘いよな」
「それを言ったら、アンタだって同じよ」
ステファンは何も言わずに静かに笑っただけだった。
◇ ◇
「――来たわね」
まだ薬草の匂いが残る小屋の陰、双眼鏡で門番の動きを探っていたリドラは、苦々しげに呟いた。
複数の気配が、迷いなく丘を登って来る。
興奮状態に陥ったポニーたちは、小屋を飛び出し、丘を駆け下り、騒ぎを引き起こすには十分な役目を果たしてくれた。しかし、想定より門番を足止めする力は無かった。多分今頃丘の麓には、ポニーたちの死骸が無惨に転がっているのだろう。
――小屋の扉が開いている。
――犯人はまだ近くにいるはずだ。見つけ次第、殺せ。
冷酷な門番の声に、リドラの鼓動は早まった。
門番の気配が二手に別れる。視界前方に、門番のくすんだ色の装備がちらついた。
その時だった。
大きな影が小屋一帯を包み込んだ。
雲とは違う、もっと距離の近い大きな影。
それは――
「バム……!」
白い翼を悠然と羽ばたかせ空を舞うその姿に、リドラは一瞬圧倒された。
空を振り仰いだ門番たちの頭上すれすれのところを、白い獣が威嚇するように通過する。巻き起こった突風で、不意打ちを食らった門番が地面に薙ぎ倒された。
「リドラ! こっちよ!」
翼の音に紛れて、張り上げられたスーの声がリドラの耳に届いた。
風に抵抗しながら見上げると、バムの首輪にしがみつきながらスーが必死の形相でリドラに手を差しのべていた。リドラはその手を頼りに、どうにかバムの背中に乗り込む。
「このまま門の外まで一気に飛ぶわよ!」
「待ってスー! まだステファンが小屋の中にいるの!」
リドラの言葉に、スーが大きく目を見開いた。
「何で、ステファンが……?」
「良いから、早く! バムを小屋の前に!」
今は一刻を争う時だ。リドラは驚きに固まるスーに構わず、スーの後ろから手を伸ばして手綱を握り、バムを誘導した。バムはわざと門番を蹴散らすように大きく身体を捻じり、小屋の前方に回り込む。開いたままの扉の陰から少年が一人、姿を現した。
「乗って!」
バムはステファンに近づいて高度を下げる。首輪を掴み、ステファンはリドラより軽々と不安定に揺れる背中に乗り込んだ。スーを真ん中に挟み、先頭にステファン、後方にリドラが位置する。リドラはスー越しにステファンに怒鳴った。
「早く! 急いでここから離れるのよ!!」
門番の声が足元まで迫る。
手綱を握るステファンの背中に、スーは堰を切ったように叫んだ。
「……何で来たのよ? あんだけ無理だって、無謀だって言ったくせに! 何で……!」
「うるせえ! そんなこと今はどうだって良いだろ!」
「良くないわよ! 全然良くない!」
ステファンの背中を殴りつけ、スーは涙声で訴えた。
昨日の別れが、今生の別れだと思っていたのに。
今こうして、スーのそばにステファンがいる。
その頼もしい背中が、スーの前にある。
そのことが、夢のように信じられなかった。
ステファンは「ああ、もう」と帽子から少しだけはみ出た後頭部の髪を掻き毟り、振り返った。その口元には、これまで見たことがないほど清々しい笑みが浮かんでいた。
「良いか、俺がここにいる理由はただ一つ。お前らと一緒に旅がしたかった――それだけだ!」
瞬間、スーは息を呑んだ。
太陽など出ていない。
出ているはずがない。
それなのにステファンの笑顔が、キラキラと輝いて――とても眩しい。
「行くぞ!」
バムはその声を合図に、大空へ向かって羽ばたいた。