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“地獄”の果てに  作者: トウコ
第二部 ジャック・スキーパーの謎
11/11

Once upon a time.4

 コツン、と玄関の扉に何かが当たった音がした。

 不審に思ったおばばは、足を引き摺って玄関に向かった。外に出て辺りを見渡したが、一面雪景色が広がっているばかりで人影は見当たらない。いつもと変わらず降り続く雪が全てを白に染め上げているばかりだ。

 風の音だったのだろうと、おばばが扉を閉めようとした――その時だった。


「おい、おばば。こっちだ」


 囁くような声がおばばを呼び止めた。その声の主は吹雪で煙る視界の中、幻のように姿を現した。


「ジャック――」


 ジャックは普段通りの飄々とした顔で雪の中に立っていた。だがこの極寒の中、帽子も手袋もマフラーもせず、しきりに白い息を吐いている。おかしなことに、靴も履いていない。雪に埋まった素足が真っ赤になっていた。


「お前、何じゃその恰好は……」


 おばばが咎める前に、ジャックは自分の唇に人差し指を当ててそれを遮った。


「悪いけど、説教を聞いてる時間は無いんだ」


 ジャックはポケットから何かを取り出すと、おばばの手に握らせた。

 手のひらを開いてみると、そこには何かの植物が入った小瓶が一つ。そして、折り畳まれた紙切れが一枚。


「これは――」


 見上げると、ジャックは一つ頷いた。


「カルファンの病気に効く薬草だ。煎じて飲ませてやってくれ」


 近くで見たジャックの顔は所々赤黒く染まっていた。片目が腫れ、瞼が垂れ下がっている。その上、先程から不自然なほどに左手がだらりと垂れて動かない。


「お前、まさか……」


 ジャックは紫色の唇を少しばかり持ち上げて、笑った。頼むからそれ以上何も訊くなと、その表情が静かに訴えていた。


「俺、そろそろ戻らないと」


 そう言って踵を返すジャックの背中に、おばばは咄嗟に手を伸ばした――が、触れることはできなかった。ジャックは振り返らずに右手を振った。


――じゃあな、おばば。カルファンとセルナを頼んだぞ。


「ジャック……!」


 叫んだおばばの視界を、猛烈な風に舞う雪が遮る。目を伏せたのは一瞬だったはずなのに、ジャックの後ろ姿は完全に見えなくなっていた。

 後に残されたのは、おばばの手の中に託された希望の光。

 そして、点々と地面に残された赤い血の跡。


 それもすぐに、降り積もる雪に掻き消された。




◇  ◇




 ゆっくりと目を開けると、霞んだ視界に映ったのは見慣れた少女の顔だった。


「気が付いた?」


 いつも怒ってばかりのセルナが酷く優しい声でそう尋ねる。

 もしかしてまだ夢の中なのだろうか。そんな風に思いながら、カルファンは次第にはっきりとしてきたセルナの輪郭を眺めた。不釣り合いなほど大きな眼鏡の奥、その目は腫れぼったく、隈に縁どられて疲労が滲んでいる。


「僕……」


「覚えてない? 道端で私とぶつかって水を被ったこと。あの後大きな発作が起きて、それからずっと意識が無かったのよ」


「ああ……」


 少しずつ記憶が蘇ってきた。

 そうだ。あの時、セルナの前では絶対に倒れちゃいけないと思っていたのに。身体は言うことを聞かず、結局セルナに迷惑をかけてしまった。


「ごめん」


「……やめて。謝らないで」


 見上げたセルナは悲痛な表情を浮かべていた。


「謝らなきゃいけないのは私の方。本当にごめんなさい。私の不注意のせいで、こんな苦しい思いをさせてしまった……」


「セルナ……?」


「ごめんなさい。本当に、謝っても許されないのは分かってるけど、でも、こんなことにならなければ、ジャックは――」


「ジャック……? ジャックがどうかしたのか……?」


 セルナが漏らした一言に、カルファンはとても嫌な予感を覚えた。

 高熱に魘されていた時、朦朧とする意識の中で確かにジャックの声を聞いた。夢だと思っていたが、もしかしてあれは現実だったのだろうか?

 だとすると、ジャックは――



――カルファンは俺が絶対に助ける。



「ジャック……!」


 カルファンは身体を跳ね起こし、ベッドから飛び降りた。しかし、寝たきりだった身体がついていけるはずもなく、呆気なく床の上に崩れ落ちる。


「カルファン駄目よ! まだ熱があるんだから、安静にしてないと……!」


 セルナに身体を支えられながら、カルファンは眩暈と吐き気に耐えた。硬い床から這い上がる冷たさが、嫌な予感を増幅させていく。心臓が早鐘を打った。


「教えてくれ……ジャックに、何があったんだ?」


 セルナは口を一文字に結んで目を背けた。余程言えないことが起こったのかと、余計に不安が募る。


「頼むから、何があったのか言ってくれ……!」


 肩に回されたセルナの腕に縋りながら、カルファンは懇願した。セルナはやがて、絞り出すようにぽつりと話し始めた。

 ジャックが薬草を探しにひとりで出て行ったこと。

 向かった先が、恐らく門番の詰め所だということ。

 そして、薬草をおばばに渡して、ジャックは再び姿を消したということ――


 最後まで聞き終えるや否や、カルファンは衝動に任せてセルナに掴みかかっていた。


「どうしてひとりで行かせた!? どうして止めてくれなかった!? 僕なんかのために、何でジャックがそんな目に遭わなきゃいけないんだ……!」


 カルファンに胸倉を掴まれたセルナは、弱々しい力に揺さぶられながら唇を噛んでジッと床を睨んだ。


「……私だって、止めたわよ。行っちゃ駄目だって。でも、ジャックは絶対アンタを助けるからって……」


「どうして……! どうしてもっと強く引き留めてくれなかったんだよ……、っ!」


 胸倉を掴んでいたカルファンの両手を、セルナが鋭く掴み返した。反動でカルファンは床に倒れ込んだ。後頭部を打って顔を歪めたカルファンの頬に、一滴、ぽつりと雫が落ちた。


「……じゃあ私はどうすれば良かったの……? あの時ジャックを引き留めていたら確かにジャックは危ない目に遭うこともなかったかもしれない。今も私の隣で笑っていてくれたかもしれない。でも、そうしたらアンタは? ジャックが薬草を取って来てくれなかったら、今頃アンタは死んでたのよ……!?」


 覆いかぶさるようにカルファンを見下ろすセルナの目から、大粒の涙が零れだす。それは降り始めの雨のように、カルファンの頬をとめどなく濡らした。


「……私にとってはジャックもアンタもどっちも大事なの。どっちも失いたくないの。どっちかを天秤にかけるなんてことできなかった。でもどっちも助かる道は無かったの。そんな奇跡は起こらなかったの! どうにもならなかったのよ……!」


「…………」


「馬鹿! カルファンの大馬鹿……!こんなこと、言わせないでよ……」


 次から次へと降り注ぐ涙が、カルファンの頭を急速に冷やしていく。

 ジャックが薬草を持ってきてくれたお陰で、自分は何とか命を繋ぎ止めることができた。

 だが反対に、もしセルナがジャックを引き留めていたら、きっと今頃自分は死んでいた。

 セルナはあの時、究極の選択を迫られたのだ。

 そんなことにさえ、気付いてやれなかった。


「ごめん、セルナ。ごめん……」


 カルファンは、自分の不甲斐なさにただ謝ることしかできなかった。


 ごめん。

 本当に、ごめん。


 二人は冷たい床の上、手を繋いだまま泣き続けた。




◇  ◇




 数日後、カルファンとセルナはジャックの行方を追って“地獄”じゅうを探し回った。

 この寒くて狭くて小さな世界の隅から隅まで歩き回り、それでも手掛かりの一つも見つけることはできなかった。


 生きているジャックも、死んだジャックも見つからない。

 この狭い世界から、ジャック・スキーパーという存在自体が忽然と消えてしまった。



「一体どこにいってしまったのだろう……」


 ジャックと最後に話をした東の丘の上、カルファンは眼下に広がる雪景色を見下ろした。

 数週間、数か月経っても、ジャックの行方は分からずじまいだった。

 ジャックが住んでいたあばら家は門番の手で解体されて、少ない持ち物は全て処分された。ジャックが存在した痕跡は跡形もなく消し去られた。まるで、初めから存在していなかったかのように。


 この“地獄”のどこにもジャックがいないというのなら、残るはあと一つ。

 カルファンは、遠く向こうに聳え立つ漆黒の門を見据えた。


 “地獄”の外の世界――


 ジャックが薬草とともに残してくれた一枚の奇妙な図。

 あれはきっと、外の世界を描き表したものだ。

 ジャックもそのことに気付いていたはずだ。だからカルファンにそれを託したのだろう。



――本当に外の世界があったとしても、俺の頭じゃ証明できない。だから、お前が調べてくれよ。あの門の向こうに、あの壁の向こうに一体何があるのか。



 そう言って笑ったジャックのことを、今でも鮮明に覚えている。あの屈託のない笑顔をもう二度と見ることができないと思うと、胸が締め付けられた。

 ジャックがいなくなったあの日から、カルファンはずっと後悔の念に苛まれてきた。

 もし自分が病気じゃなかったら。

 もしあの時、発作が起きなければ。

 もしジャックが自分と出会わなかったら、きっと今頃どこかで穏やかに暮らし続けていたかもしれないのに。

 僕のせいで、ジャックは――


 無意識に握った拳に、そっと何かが触れた。

 見ると、セルナが拳を解くように小さな手を添えていた。セルナはそのままカルファンの肩に頭を預け、同じように門を眺めた。


「……ジャック、どこに行っちゃったのかな……このままもう、会うことはできないのかな……」


 まだありがとうもごめんねも言えてないのに。

 セルナはそう言って、白く染まった息を細長く吐き出した。元々小柄だったセルナは、あれ以来一回り小さくなったようで、大きな眼鏡が更に不釣り合いになっている。


「……大丈夫。きっとジャックは生きてる。きっとまた会えるさ」


 励ましの言葉は、カルファンが思った以上に虚しく地面に落ちて消えた。

 ジャックが生きていると信じたい。

 一方で、もうずっと音沙汰がないこの状況では、生存は絶望的だと冷静に感じている自分もいる。ましてやジャックが薬草を盗んだのが門番の詰め所だということが、余計にジャックが生きている可能性を疑わせた。


「もし門番に捕まってたらどうしよう……」


 カルファンの心を読んだかのように、セルナが不安げに言った。


「門番に捕まったら最後、誰も生きて帰っては来られないわ。殺されるか、門番の下で一生働かされるか、もしくは……何だか怪しげな実験に使われるか……」


「……そんなこと言うなよ。きっとジャックは帰って来るから」


 ジャックはまだこの“地獄”のどこかでほとぼりが冷めるまで身を隠しているかもしれない。

 もしくは、あの漆黒の門の外にうまく逃げたのかもしれない。

 きっといつかまた、ひょっこりと僕らの目の前に現れるに違いない。


――よう、カルファン、セルナ。久しぶりだな。


 なんて言って、笑って。

 そうだろう? ジャック・スキーパー。


 君は絶対にこの世界の何処かで生きている。

 僕は死ぬまでずっと、君が帰って来るのを待っているから――




◇  ◇




ステファンは長く息を吐くと、手元の本をパタンと閉じた。


 読んでいたのは父親が書き記した日記だった。

 まだ幼い頃、父親が話してくれた物語の一部始終が日記の中に詳しく綴られていた。


 父親の命を救うのと引き換えに、忽然とこの“地獄”から姿を消してしまったひとりの少年。

 ジャック・スキーパー。


 彼の名こそ知らなかったものの、父親は繰り返しこの話をステファンに話して聞かせた。

 きっといつか、彼と再会することができると信じて。

 だが、その時は二度と訪れなかった。

 ステファンの両親は――カルファンとセルナは、ステファンが物心ついた頃に門番に殺されて死んだ。


 椅子の背に掛けていたコートを掴んで部屋を出る。居間に入ると、見知った少女が我が物顔で暖炉の前を占領していた。


「おはよう。遅かったわね。もうお昼よ」


「スー……」


どこから見つけて来たのか、スーは見たことのない表紙の本を読み耽っている。自分の家のように寛ぐスーに、ステファンは顔を顰めた。


「お前なあ、自分の家で読めよ」


「嫌よ。持って帰るの面倒だもん」


 本から目を離さずに、スーはしれっとそう言った。

 スーの背後からチラリと覗くと、紙面には難しそうな文字がびっしりと書かれていた。植物の挿絵も描かれている。どうやら薬草の本のようだ。一体この家のどこからこんな本を見つけて来たのだろう。


「何、アンタどっか出掛けるの?」


コートを羽織りマフラーを首にまいていると、スーがようやく顔を上げて尋ねてきた。


「ああ、ちょっと。俺が帰ってくる前までにはちゃんと片づけとけよ」


スーが散らかした本棚周辺を鬱陶しそうに見やってから、返事も聞かないままステファンは玄関を出た。


外は珍しく穏やかで、控え目な雪が間隔をあけてちらついているぐらいだった。ステファンは空を見上げた後、門番の詰め所に向かって歩き出した。

今日は薬の配給日だ。通常物資とは別に、ステファンは門番から薬の配給を受けている。

 ステファンの病は、血とともに親から子へと伝わるものらしい。おばば曰く、父親もまた、同じ病に冒されていた。

 父親は病気が治ることもなく死んだが、ステファンには病が発症し始めた数年前から薬が支給されるようになった。それは決して病気を完治させるものではないが、ある程度症状を抑える効果はあった。

 この薬のお陰でスーに病気のことを勘づかれずに済んでいるが、素直に有難いとは思えなかった。

 聞いた話によれば、どうやら他にも薬の配給を受けている住人がいるらしい。門番が気分に任せて住人を殺すせいで、いよいよ病人すらも生かしておかねば立ち行かなくなったのかもしれない。門番の身勝手ぶりには、怒りを通り越して呆れるばかりだ。


 この“地獄”では、勝手に生きるのも、勝手に死ぬのも許されていない。

 その窮屈さに、時々すべてを投げ出したくなる。


「……でも、今はまだ、死ぬわけにはいかないからな」


 今はまだ、何も知らないスーをひとり置いて逝くことはできないのだ。

 


 大通りを真っ直ぐ歩き続けて、やっと詰め所の前までやって来た。

 ここには何に使うのか分からない大きな建物がたくさん建ち並んでいる。その大きな建物より更に巨大な漆黒の門――“地獄”の門が、建物の背後でここから誰一人逃すまいと目を光らせている。ステファンは間近に聳え立つ門を見上げたが、その天辺が見当たらないうちに首が痛くなってやめた。

 向かった配給所に人影はなかった。どうやら門番の交代時間らしい。扉が閉まったまま配給所の前で、ステファンは人が現れるのを待った。

 しばらくして、不意に扉が開かれた。中からひとり、年老いた男が訝しげに顔を出した。


「おい、ボウズ。ここで何やってんだ。今日は食糧配給日じゃないぞ」


 薬を受け取りに来たことを告げると、男はああ、そうかと何かを思い出した様子だった。それから、そこで待っていろ、と言い残して再び扉の向こうに消えた。

 いつもなら配給担当の門番が、冷たい態度で薬を投げて寄越すだけだが、今日は何故か違った。その男は門番とは違う貧相な身なりをしていて、酷くやつれていたが、その態度は門番より幾分も柔らかい。血の通った人間にこんなところで出会うとは、何だか妙な気分だった。

 男はすぐに戻って来た。汚れた手で小瓶をステファンに渡すと、そのまま何も言わずに扉を閉めようとして、一瞬手を止めた。

 男は振り返って、ステファンの顔をまじまじと見ると、


「ボウズ、お前――」


 そう言いかけて、口を噤む。ステファンが続きを待っていると、やがて男はゆるりと首を振って扉の向こうに消えて行った。

 一体何だったのだろう。

 不思議に思いながらも、ステファンは踵を返した。詰め所に背を向けて歩き出しながら、今しがたのやり取りを思い返す。

 苦労が滲む見た目のせいで老年かと思っていたが、男の声は意外と若かった。そう、ステファンの両親と同じぐらいだろうか。

 はたとその場に立ち止まり、ステファンは今来たばかりの道を振り返る。既に配給所の扉は固く閉じられ、再び誰かが現れる気配はない。


「まさか――」


――ボウズ、お前――


 あの時男は、ほんの僅かだがステファンを見て懐かしそうな表情を浮かべたような気がした。

 門番とは違う、その温かい眼差し。


「まさか、な」



 彼の瞳の色が鮮やかなコバルトブルーに見えたのは――


 きっと、気のせいだろう。








“地獄”の果てに END

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