Once upon a time.3
門番の詰め所の前まで来て、ジャックは深呼吸をした。
これまで見慣れすぎて当たり前になっていた、重厚感のある漆黒の門。改めて目の前に聳え立つその門を見上げる。
「……きっとこれで見納めだろうな」
これから自分がしようとしていることを、“地獄”の全てを見張るこの門は見逃してくれないだろう。緊張と恐怖で、全身から汗が吹き出す。それでもここまで来たらもう、覚悟を決めるしかなかった。
ジャックは両手の拳を握り、詰め所の前で警備をしている門番の元へ向かう。
いつも通り、いつも通り。
そう思えば思うほど、これまでどんな顔をしてここに来ていたのか分からなくなる。笑っていたのか、怒っていたのか――
いや、多分、何も思ってなどいなかったのだ。
窮屈で不自由な生活が嫌でも続いていくと、
明日と言う日が当たり前にやって来ると、
カルファンやセルナにいつでもまた会えると、そう信じて疑わなかった。
――ジャックは“地獄”の外に世界があるって、本気で信じてる?
――本気かって訊かれると困るがな。まあ、でも――
――あったらきっと、楽しいだろうな!
まだ、外の世界が夢物語だと思っていた昨日の今頃。
あの時のカルファンとの会話が、遥か遠い過去のように感じられた。
一度抱いた小さな疑いは、急速に根を張って成長し始め、もはやその勢いは止められない。水を与えたつもりはなかったのに、無意識に種を育てるための養分を溜め込んでいたらしい。それは嘘で塗り固められた虚構の世界を崩壊に導くには、充分すぎるほどだった。
入り口を警備していた門番に忘れ物をしたと嘘を吐き、立ち入りの許可を得る。建ち並ぶ複数の建物の間を、いつも通り仕事に向かう振りをしながら歩いていく。
ジャックはこの施設の中にある、門番たちの住居や食堂の清掃を主な仕事としている。住居棟以外の建物への単独での立ち入りは固く禁じられており、侵入が発覚すれば命はない。
雪の降り方が激しくなってきた。そのお陰か、外を出歩く門番の姿もまばらだ。周囲の目がなくなった瞬間を見計らって、ジャックは倉庫に繋がる道に身を滑り込ませた。
白く雪に染まった身体は寒くて仕方がないはずなのに、背中に冷や汗が流れる。聞こえるのは雪を舞い踊らせる風の音と、自分の心臓の音。
それ以外は、怖いくらい静かだった。
本当に、怖いくらいに。
やがて突き当りに半円型の大きな倉庫が見えた。
ジャックは何度か門番の立会いのもと、この倉庫に入ったことがあった。つい数日前も物資の移動を命じられて来たばかりだ。その時確か、鍵の調子が悪いから修理するまでは扉に鍵をかけずにいるのだと、話していたはずだ。
「頼むから開いてくれ……」
そう祈りながら扉に手を掛ける。重厚な扉はギギッと音を立てて軋んだ。思ったより大きな音に心臓が飛び跳ねそうになったが、どうにか人ひとり分の隙間を開けることができた。
素早く中に入り、暗がりのなか手探りでランプに火を灯す。
ぼんやりと照らされた倉庫内のそこかしこに、壁のようにうず高く物資が積み上げられている。年季の入った木箱からは、缶詰や加工食が溢れ出し、散乱している。ここにある物資の大半が門番たちの手で消費される。住人たちに分け与えられる分は、ほんの僅かだ。
どうせならありったけ盗んでやろうか。一瞬そんな怒りが湧いたが、ここに来た目的はそんなことではない。
仄かな灯りを頼りに奥へと進む。食糧の壁の向こう、整然と立ち並ぶ棚の元へ転がった荷物を避けながら駆け寄る。その棚に保管されているのが薬草だということをジャックは知っていた。
「……長細い、三枚の葉……黄緑色で……種がついてる……」
棚にぎっしりと詰まった薬草の小瓶一つ一つにランプを近づけながら中身を確認する。
流石に門番にとっても薬草は貴重な資源のようだ。他の物資に比べて丁寧に扱われているのが一目瞭然だった。
曇り一つない小瓶には、几帳面な文字が書かれたラベルがそれぞれに貼られている。薬草の名前なのか、効能の分類なのか。残念ながらジャックにはその内容を理解することはできない。ジャックはただひたすら、本の挿絵と同じ形の薬草がないか目を凝らした。
「ちくしょう、どこにあるんだよ……!」
種類の多さに焦りながら二つ目の棚に目を移した時だった。
棚の横にひっそりと佇んでいる、埃を被った小さな机が視界に入った。近寄って灯りを翳してみると、そこには古びた大判の紙が一枚広げられていた。積年の埃を手で払うと、紙の上に何やら図形のようなものが現れた。
「これは……」
細い線で描かれた歪な塊。その塊は大きく五つに別れ、紙の上に無秩序に並んでいる。
そのちょど真ん中に描かれた一番大きな形の片隅に、小さな赤い丸印がつけられていた。灯りを更に近づけると、その丸印の中に消えかけの文字が辛うじて見えた。
その文字を、手袋越しに指で撫でる。
それは文字が読めないジャックが唯一知っている、
昔、カルファンが教えてくれた――
「――“地獄”」
確かにそこにはそう書かれていた。
その上、それを強調するかのようにつけられた赤い丸印。
「まさかこれ――外の世界の――」
言いながら、ジャックの中には確信が芽生えていた。
きっとこれは“地獄”の位置を指し示した図に違いないと。
やはり“地獄”の外には未知の世界が広がっているのだと。
夢でも妄想でもなかった。
“地獄”は本当に、狭くて小さな――世界のたった一部に過ぎなかったのだ。
「……はは、そりゃ、そうだよなあ」
ジャックは自嘲気味に笑って、周囲を見渡した。
この倉庫に蓄えられているものは、“地獄”の中で生産できないものばかりだ。きっとどれも、外の世界から運ばれて来たものなのだろう。
分かっていたはずだ。
門番たちが毎晩大量に消費する酒も、並べるだけ並べて廃棄する食糧も、全部全部、この土地では賄えないものばかり。そんなこと、とっくの昔に気付いていた。
それでも、ずっと知らないフリをしてきた。目の前の違和感を押し込めて、見ないフリをしてきた。そうやって無意識に、この“地獄”の理不尽な構造から目を背けてきたのだ。
そうしなければ、この世界の不条理に耐えられなかったから。
寒くて狭くて小さなこの“地獄”で一生門番にこき使われるだけの人生に、どこか諦めを抱いてきた。
外の世界があって欲しいと思いながらも、そんな都合の良い世界など存在しないはずだと否定していた。
もしそんな世界が存在するのなら、これまで“地獄”で過ごして来た自分自身の人生そのものの意味が揺らいでしまうじゃないか――
「……っ」
悔しさと、悲しさと、怒りと。
膨れ上がった感情は、涙の粒となって頬を伝った。
一滴の雫がちょうど赤い丸印の中にポタリと静かに落ち、黄ばんだ紙に染み込んでいった。
「……クソ、泣いてる場合かよ!」
ジャックは乱暴に目元を拭った。
これまでのことが一体何だと言うのだ。
今更過去のことを言ってもどうにもならない。だったら、考えるべきなのはこれからのことじゃないのか。
“地獄”に生まれたことがカルファンにとって運命だというのなら、外の世界の存在はその運命を覆す大きな希望になる。
外の世界があるのなら、きっとカルファンは生き延びることができる。
外の世界があるのなら、カルファンの病を癒す薬が絶対に見つかる。
それこそが今、一番大事なことなんじゃないか。
「薬、見つけねえと……」
ジャックが再び薬草の棚に向き直ったその時だった。
いきなり扉が開いて、複数人が足音を立てて倉庫内に入ってきた。ジャックは咄嗟にランプの火を消して、棚の影に身を潜めた。
門番たちはジャックが隠れている棚のちょうど手前に積まれている物資の中から何かを探しているようだった。あちらこちらの木箱を開け、中身を床にひっくり返し、門番たちは場を掻き乱しながらジャックの方へ近づいてくる。
一秒が、数分にも感じられた。極限まで早まった鼓動を聞きつけられるのではないかと恐怖しながら、その場でジッと息を殺す。
やがて騒々しかった足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
そこからしばらく待ってみたが、彼らが戻って来る気配は無さそうだった。ジャックは大きく深呼吸して、肩の力を抜いた。
「……ん?」
手元のランプに再び火を入れるか迷っていると、少し離れた床の上で何かが小さく光ったように見えた。足音を忍ばせてその光の元へ行くと、棚に並んでいたのと同じ形状の小瓶が一つ、転がっていた。
「これは――」
そこに入っていたのは、小さな種から伸びる三枚の細長い葉。
本に書いてあった通り、暗闇の中、葉の表面に付着している小さな粒子が淡い光を放っている。
「見つけた……!」
それはまさに、ジャックが探していた薬草そのものだった。
すぐさま小瓶をポケットに入れ、ジャックは慎重に出口に向かう。扉の前で外の音に耳を澄ませてみるが、聞こえるのは雪を吹きつける風の音ばかりだ。
ジャックは唾を飲み込むと、一気に扉を開けて外に出た。相変わらず外に広がるのは白銀の世界だ。先程の門番たちの靴跡も、とめどなく降る雪によってその痕跡を消され始めている。
もちろんジャックが来た時の足跡は既に無い。
一瞬、戻るべき道を見失って立ち止まったその時。
どこからともなく大きな音が響いた。
◇ ◇
強い風がガタガタと窓を揺らしながら雪を叩き付ける。
ジャックが出て行ってから、どのぐらいが経っただろう。あれから雪は一層激しさを増した。
セルナはジャックの帰りを今か今かと、数分置きに玄関を見に行っては姿が見えずに落胆した。
カルファンは一向に目を覚まさない。少し前までは熱に魘され浅い呼吸を繰り返していたが、今は完全に血の気を失った顔で辛うじてか細い息をしている。乾いた唇から息を吐く音が、いつ聞こえなくなってもおかしくはない。
セルナは不安で押し潰されそうになりながら、力の入らないカルファンの手を両手で握り締めて額に押し当てた。
「お願い……死なないで……」
お願い、ジャック。無事に帰って来て。
そして、カルファンをどうか、どうか――
◇ ◇
唐突に左肩に走った衝撃に、ジャックはその場に膝を付いた。
撃たれた。
左肩から溢れ出る血の色を見て、ようやく頭が理解した。途端、激痛に襲われる。
倉庫の影から門番がひとり、拳銃を構えて現れた。分厚い防寒着に身を包んだ門番は、皆同じような顔をしている。見覚えのある顔かどうかは、判別がつかなかった。
門番は冷ややかな眼差しでジャックを見下ろした。
――ここで何をしている。
そう問い掛けながらも、門番は容赦なく二発目を撃って来た。弾が足元の地面を抉る。
唇を噛んで、ジャックは門番を睨んだ。門番は表情を変えることもなく、引き金に指をかけ、ジャックに銃口を向けている。
どうする。どうすれば、この状況を打開できる――?
しかし、痛みと恐怖で混乱する頭では、何一つ有効な策は思いつかない。
――もう一度だけ訊く。ここで何をしている。
ここで答えなければ、きっと弁解の余地もなく殺される。だが、正直に罪を告白したところで、結局行き着く先は同じだ。
それなら、自分にできることは――少しでも時間稼ぎをすることだけだ。
「……っ、」
ジャックは奥歯を強く噛み締め、帽子や手袋を剥いで雪の上に放り捨てた。巻いていたマフラーも、履いていた靴も、全て投げ捨てる。
そして――素手のまま冷たい雪の上に両手を付き、同じく頭を雪に埋める勢いで地面に擦り付けた。
どんな屈辱を受けても、どんな悲惨な最期を迎えても構わない。
この場を見逃して貰えるなら、何だってやってやる。
この薬をカルファンに届けるまでは――




