82急転
「ぐはあ……っ!」
ヘルゲス神はその真紅の宝石の体もたくましく、左右の雄牛のような角を輝かせた。
『よもや勝てたとか……ちょっぴりとでも思ったりしなかっただろうな? 愚かものめ』
俺は血反吐を吐き、いまや山のように見える敵手を睨みつける。
「こ、この野郎……!」
ヘルゲス神は聞いてもいないことをべらべら喋った。
『言っただろう、この神界そのものがこのヘルゲス神だと。さっき貴様が放った、神をも超える一撃には驚かされたし、燃やされて焦りもしたが……。失ったものは補充すればよい。だから我は、すべての天使たちの命を奪い、この体に注ぎ込んだのだ。くくく、こっちは万全、そっちは疲労と出血。勝負は我の勝ちのようだな』
慈悲深さのかけらもない笑顔を浮かべる。
『お前は神を侮辱しすぎた。今すぐ殺してやる。覚悟するがいい……!』
「くそっ!」
俺はぼろぼろの右手を酷使し、ずたずたの人差し指を向けた。ヘルゲスの奴に爪の塊を連射する。だが『邪閃光』の輝きに弾かれ、まったくダメージを与えられなかった。相手もさすがに口を開けっ放しにするへまをやらかさない。
俺の服の裾を誰かが引っ張る。振り返ればムタージだった。彼は観念したようで、小首を振って俺のあがきをやめさせようとする。
「こ、ここまでだ、少年。小生も一緒に逝ってやるから、じたばたあがくな」
そういって彼は俺を背後から抱き締めた。かたわらにはシモーヌの死体。もう駄目なのか。もう……
ヘルゲス神が『削除』の腕を振りかざした。
『観念したようだな。死ねぃっ! この我に――神に逆らった不届きものよっ!』
『削除』の腕が振りぬかれようとする。すまねえシモーヌ、かたきも取れなくて……。俺は目を閉じて諦めた。
■急転
そのときだった。20代とおぼしき女性の凛とした声が響き渡ったのだ。
『おやめなさい、ヘルゲス!』
俺は目を開けた。ヘルゲスがピタリと止まっている。俺の頭を削ろうとする、まさにその直前だった。まるでさっき俺に食らわされた金縛りのように、ヘルゲスは硬直している。
『その声は……女神ラテナさま!』
女神……ラテナ? 俺は血まみれの腹部を押さえつつ、頭上を見上げた。今やそれだけでも重労働だ。
真上から降りてきたのは、女性のような青い宝石の体だった。後頭部がかたつむりの殻のようだ。
『どうやら上位神の言葉は聞けるようですね、ヘルゲス。そのものを殺してはなりません』
そのすぐ後ろからやってきたのは、空飛ぶじゅうたんに乗った魔法使いケストラと天使長ホイトだった。どうやらホイトは無事に魔族化したようだ。
「ほっほっほ。遅れて済まぬ、ムンチ。女神との交渉に手間取ってしまった。ぎりぎり間に合ったかの」
責めるでもなく俺はつぶやいた。
「遅かったよ、ケストラ。シモーヌが死んじまった……」
「何と……!」
ヘルゲス神はふっと後方へ飛び上がり、くるりと回って地面に着地する。ひざまずいてこうべを垂れた。
『女神ラテナさま、ご尊顔を拝す喜び、この上まさるものはありません。……して、このたびはどのような御用でこちらへご足労を?』
あの傲岸不遜で強力なヘルゲスが、ひどく怯えて震え上がっている。……てことは、この女神ラテナは信じられないほど強いってことか。
女神はふわりと雲を踏んだ。ヘルゲス神同様、その顔は目と口を表すそれぞれの長方形だけだ。それでも女の声と体つきで、淑女と呼びたくなる感じだった。首から黄色い宝石をかけているのもそれを助長する。
彼女は重大なことをさらりと告げた。
『この神界はたった今より私のものとなりました。それを通達しに来たまでです、ヘルゲス』
『なっ……!』
ヘルゲスだけでなく俺も驚いた。ケストラに目をやれば、重々しくうなずいている。ラテナが続けた。
『そちらのケストラなる魔法使いより、一部始終は聞きました。約200年ごとに――神にとってはまばたきにも等しい間隔で――大量の人間の命を食らっていたそうですね』
『それは……』
『事実なのですね?』
『は、はい』
凄い、あのヘルゲスがへいこらしている。
『我が身可愛さに魔王を生み出し、人界と魔界を乱していた罪は非常に深いものです。ヘルゲス、あなたはこれより上位神による裁きを受けることとなるでしょう』
『ひぇっ……!』
『さあ、裁きへの入り口を整えて差し上げましょう』
女神ラテナが指を振ると、空中に魔方陣が現れた。金色に輝く豊かな紋様が美しい。
『この中に入るのです、ヘルゲス。さあ!』
だがヘルゲスは面を伏せたまま、何やらぶつぶつつぶやくのみだ。ラテナが目をすがめた。
『ヘルゲス、聞こえなかったのですか?』
『……てやる。……てやる』
『何ですか?』
『殺してやる!』
ヘルゲスが突如として躍動し、女神に襲いかかった。『削除』の一撃を見舞わんとする。
『誰が裁きなど受けるかぁっ! 死ねぇっ、ラテナ!』
だがラテナは慌てたり動じたりしなかった。
『愚かな……!』
左から右へ、軽く手を振る。その直後、ヘルゲスは急激に縮んでしまった。あっという間に石ころまでに小さくなる。
『な、何だ?』
女神ラテナは慌てふためくヘルゲスを掴んだ。
『上位神への反逆は死罪です。消滅しなさい、ヘルゲス』
女神の手の中で光がまたたいた。小規模の爆発音とともに黒煙が立ち昇る。手を開くと、焦げたそこにはもうヘルゲスの影も形もなかった。
俺はあんぐり口を開けっ放す。
「す、すげえ……」
ムタージも感銘を受けたらしかった。
「あのヘルゲスをあっという間に……。これが女神ラテナか……!」
ラテナは周囲を見渡した。ふっとため息をつく。
『天使室も天使たちもすべて壊れてしまいましたね。後で処理しましょう。「神の城」は大丈夫ですね。……おっと、あなたは怪我していますね』




