77神との戦い1
「シモーヌ、耐えろ!」
視界の端で、ホイトがケストラから皮袋をひったくった。
「シモーヌに帰還を命じたのは、彼女の『僧侶の杖』の効果がほしかったからだ。怪我や病で自宅に引っ込まざるをえなくなった天使たちを、救ってほしかったからだ。だがシモーヌは『僧侶の杖』を使えず、それどころか貴殿らを神界に呼び寄せる始末だ。おかげで大勢の天使が死んでしまった……」
無念そうに首を振る。
「すべては我の判断ミスだ。我は天使長失格だ。だが失格なら失格で、違う生き方もあるだろう。何も拘泥するものはない……」
ホイトが皮袋をあおった。やはりシモーヌのように甚大な苦痛に襲われたか、その場に倒れてしまう。
「があぁ……っ!」
彼もまた激痛の渦に飛び込み、そこで溺れかけた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。俺は変わらずシモーヌを励まし続けていた。
「負けるな、シモーヌ! 頑張れ!」
「うう……っ!」
やがてシモーヌは峠を越したらしい。その呼吸が急速に穏やかさを取り戻していった。ホイトもさっきまでとは違い、安らいだ表情を浮かべている。彼の外見はがらりと変わっていた。黄金色の頭髪は、その生え際が大きく前進している。頬もふくよかになり、皺が少なくなっていた。
ケストラは指を鳴らして喜んだ。
「どうやらうまくいったようだの。シモーヌも、ホイトも」
ムタージはホイトの若返りに興味津々の声を出す。
「ここまで年齢が戻るとはな。小生も飲んでみようかな、魔薬……」
そして、とうとうシモーヌが目を開いた。か細いが確かな声を、唇の間から撃ち出す。
「ム……ムンチさん……」
「シモーヌ!」
俺は歓喜して、すぐ彼女の記憶を確認する。
「シモーヌ、分かるか? 俺のことが分かるか? 今ここがどこで、何がどうなっているか、ちゃんと……」
シモーヌがくすりと笑ってさえぎった。
「当たり前ですよ、ムンチさん。魔薬のせいでもっとも苦しかったときも、あなたの声が、叫びが、ずっと届いてましたから……。ふふ、記憶をなくすどころじゃなかったです」
俺は目の前がぼやけるのを感じた。涙腺がゆるんだらしい。シモーヌがすぐに指摘した。
「……泣いてるんですか?」
俺は腕で目元をぬぐう。しかし声の震えはごまかせなかった。
「ば、馬鹿野郎。ちょっと両目に汗をかいただけだ」
「じゃあ私も……両目に汗をかきますね」
シモーヌが両腕で俺の首にかじりつき、大声で号泣し始める。
「うぅ……うええぇん……! ほ、本当は怖かった……! 大好きなムンチさんに二度と会えないんじゃないかって……怖くて……! よかった……よかった、ムンチさん……! うええぇん……!」
お互い相手の肩にあごを載せているので、声は横から聞こえる。俺は聞き逃せない言葉を拾い上げた。
「えっ、『大好きなムンチさん』って……本当かよ?」
ぬいぐるみにしがみつく子供のように、シモーヌはしっかりと俺を離さない。
「はい。私、ムンチさんが好きです。大好きです。一緒に料理屋を開かないか、って誘ってくれたときは、本当はもの凄く嬉しかった。でもホイトさまの帰還命令を聞かないわけにはいかなくて、『ごめんなさい』って断ってしまったんです」
ケストラは確信した、といいたげに語を挟んだ。
「ほっほっほ。どうやらシモーヌがその『僧侶の杖』を使えなかったのは、ムンチへの愛を秘匿していたためだの。今のシモーヌなら扱えるはずだ。試してみるといい」
俺たちが抱擁をやめて離れると、彼は『僧侶の杖』をシモーヌに渡して使用をうながした。シモーヌは自分自身に振ってみる。驚くことに、本当に発光した。
「本当ですね! 回復の力で体が軽くなりました!」
シモーヌは記憶喪失もなく、無事に魔族の体になったようだ。これでヘルゲス神を倒すのに躊躇はいらなくなった。
俺は立ち上がり、シモーヌの手を引いて彼女も起き上がらせる。
「行こう、ケストラ、ムタージ、シモーヌ。ヘルゲス神を倒しに」
ケストラはしかし、神殺しを決定した本人なくせに、自分の参加は断ってきた。
「いや、わしはここでホイトの様子を見つつ、女神ラテナ――ヘルゲス神の上位神だ――と交渉するよ。3人で行ってくれ。わしの3大発明――金の首飾り『万物意操』、銀の指輪『鋼の爪』、銅の板『転移』が揃ってるんだ。何も怖いことはあるまいて」
ムタージはそれを了とする。
「そうだな。交渉は難航するだろうし、決裂だってありうるからな。でも小生らがヘルゲス神を殺した後なら、女神も領土欲しさにすぐ引き継いでくれること疑いなしだ」
俺は改めて気合いを入れた。俺たちが頑張らなきゃいけないのは変わらない。虫のいい話はそうそうないのだ。
「よし! それじゃケストラ、頼んだ」
「任せておけ。ほっほっほ」
ムタージがケストラに質問する。
「神の居場所はこの城の中心で間違いないな?」
「老いたな、ムタージ。神の圧迫するような気配を感じぬか?」
「確認しただけだ。では行くぞ」
■神との戦い
俺たちは城の中枢へ、長いはしごを下りていった。先頭はムタージだ。壁のところどころにある緑の石が、道しるべのようにほのかに光っている。一歩一歩、落ちないように。俺は細心の注意を払って魔法使いの後に続く。
やがて、下から素っ頓狂な声が上がった。
「ははっ、ここが『神の城』の中心部のようだな。ここだけ天地が逆さになっている。……少年、お嬢さん、気をつけるといい」
俺は彼に続いて、赤い光が明滅している部屋へ入った。外部の音がこれっぽっちも届かない、静謐に包まれた場所。
「何だこりゃ?」
そこは球形の部屋で、頭上に――つまり真上に――巨大な紅玉が浮かんでいた。俺たちの来訪にもかかわらず不動を保っている。大きさにして下手な農家を超えているだろうか。これが、神界の中心のさらに中心――ヘルゲス神だっていうのか?




