76魔薬
「そうはいかぬ! 神がいなくなれば天使もいなくなる。摂理の破綻や、それにともなう『世界の綻び』の発生に対処できなくなるのだ!」
「摂理? 綻び?」
「摂理とは、世界を創世から終末まで構成する、無限といっていい演算のことだ。世界の綻びとは、演算の間違いで生まれる時空の破綻だ。何もかも破壊する災厄として、絶対に生じさせてはいけないものなのだ」
「よく分かんねえよ」
「要は天使たちの活動あってこその神界・人界・魔界というわけだ。そしてその天使たちを生み出すのは神だ。神が死ねばいいなどと、口が裂けても言うな」
「だからって人間たちを殺していいわけがあるかよ! 何とかしろ!」
ムタージが間に入る。熱くなるな、と俺に目顔で伝えてきた。
「ホイト殿、貴殿はさっき神の名を奏していたな。ヘルゲス、と」
「それがどうした?」
「人間食らいのヘルゲス神を倒し、もっと良心的な別の神さまを招くというのはどうです? ヘルゲスより上位の神であれば、この神界を引き継ぐこともできるでしょう。いや、できるはずだ」
ホイトは哀れむような瞳を向ける。
「ムタージ殿よ、馬鹿げたことを申すな。さっきも言ったように、もしヘルゲス神が崩御すれば、我もシモーヌも他の天使たちも消滅する。我々はあくまでヘルゲス神の加護のもとに生み出された存在なのだからな。他の神がそこまで引き継げるわけがあるまい」
ヘルゲス神が死ねばシモーヌも死ぬ、か。なら俺にはそんな選択できないな――と思っていたら、ケストラがここぞとばかりにしゃしゃり出てきた。
「ほっほっほ。それならいい方法があるぞよ」
中年の魔法使いが指を振って、宙に不可視の線を描く。そこから小さな皮袋を取り出した。口は木の枠で閉じられ、中身は水でも入っているのか、たぷたぷと音を立てる。シモーヌが尋ねた。
「それは何ですか、ケストラおじさま。飲み物ですか?」
「これは魔薬さ。人間だったわしを魔族にした、禁断の秘薬だよ」
確かケストラは老衰死を回避するために、魔薬を飲んで魔族モーグとなったんだっけ。って、おいおい……。ホイトもピンときて愕然とした。
「まさかケストラ殿。我とシモーヌにそれを飲め、と?」
ケストラは莞爾と笑う。よくぞ正解した、といいたげだ。
「そのまさかだよ。ちと不味いし苦しい目に遭うかもしれないが、天使から魔族になれば神の影響力を受けなくなるはずだ。どうだね?」
ホイトとシモーヌは絶句する。ようやく声を――しゃがれていたが――絞り出したのは前者だ。
「無茶を言うな。そんな冒険に付き合う我ではないぞ」
ケストラはすっと息を吸い込む。生真面目な表情で吐き出した。
「いいかホイト殿。ムンチの言うとおり、人間の命を食らって生きる神など、わしは神とは認めない。二度と人界に魔王を出現させないためにも、わしはムンチとムタージとともに、ヘルゲス神を討伐する。これはもう決定事項だよ」
俺はその意見が嬉しくて、ぐっと拳を握る。
「さっすがケストラ! 話が分かる」
「ほっほっほ。魔薬を飲むか飲まないかは、ホイトとシモーヌ、それぞれで考えよ。時間はないぞよ」
ホイトはそれまでのやや威圧的な態度はどこへやら、見るも無残に狼狽していた。
「そ、そんなことを言われても……。我は死ぬのは嫌だ。でも魔族になるのもごめんだ」
「そうか? わしは魔族の体を得て健康そのものだよ。まあ、副作用で記憶をほぼ失ってしまったがの――今は取り戻しておるけれど」
それまでうつむいていたシモーヌが、面を上げて一歩進み出る。その唇はきりりと引き締まり、両目は決然たる光に満ちていた。
「私、その魔薬をいただきます!」
俺は全面的には賛成しかねる。ヘルゲス神を倒せばシモーヌは消えてしまう。なら飲む以外の選択肢はないのだが……
「分かってるのか、シモーヌ。ひょっとしたら記憶を失うかもしれないんだぞ」
「でも、ヘルゲス神が倒れれば私も存在ごと消えてしまいます。そんなの嫌です! 大丈夫です。魔王モーグ時代のケストラおじさまや、ムンチさんに勇者一行。鳥人グレフさんに『円柱』のキュリアさん。みんなとの思い出は絶対に、しがみついてでも手放しません。すでに一回記憶喪失になってる私ですから、説得力あるでしょう?」
「シモーヌ、お前……」
「大丈夫です、ムンチさん。私はちゃんと帰ってきますから」
俺とシモーヌは見つめ合った。それで通じ合うものがある。俺はため息をついて了承した。
「やれやれ……分かったよ。頑張れ、シモーヌ!」
「はい!」
ホイトはケストラをいまいち信用できないらしい。腰を屈めてうさんくさげに皮袋を観察した。
「この中身は本当に魔薬とやらなのだろうな? 単なる毒ではあるまいな?」
ケストラが苦笑したのは、天使長という地位にふさわしくない小心が滑稽だったからだろう。
「そう思うなら飲まなければよいさ。あるいはシモーヌが飲み終えた後、彼女の様子を見て判断してもいい」
「む……。わ、分かった」
シモーヌは皮袋のフタを開けた。匂いをかぐ。
「ふんわりいい香りがします。ケストラおじさま、これはどれぐらい飲めばいいんですか?」
「ひと口で十分だよ。ほっほっほ」
「では、いきます……」
彼女は皮袋を少し傾けて、中身をわずかに飲んだ。その喉がごくりと上下する。
――その途端。
「うぅ……っ!」
シモーヌは胸にナイフを刺されたように苦しみ始めた。皮袋を必死のていでケストラに返すと、床に崩れ落ちて苦悶する。俺は居ても立ってもいられなくなって、彼女のそばに片膝をつき、その上半身を抱きかかえた。
「頑張れ、シモーヌ!」
「うぐうぅ……っ!」
シモーヌは奥歯を噛み締め、額にあぶら汗を浮かべている。今彼女を襲っている苦痛がどれほどのものなのか、まぶたを閉ざした表情からは察せられない。ただ好きな子の苦境に、俺は声をかけてやることしかできなかった。自分の無力がもどかしい。




