68ムタージ
「水の体だ!」
ケストラは空飛ぶじゅうたんをきめ細かく操作し、召し使いたちを何とかかわしていく。だがそれもいつまでもつか分からなかった。彼は魔王モーグ時代の養女に要請する。
「シモーヌよ、奴らを『魔法使いの腕輪』の力で蒸発させるのだ! 早く!」
シモーヌは逡巡しなかった。
「ごめんなさい、召し使いのみなさん!」
彼女は火炎球の連射を叩き込み、召し使いたちを焼き尽くしていく。20を優に超える彼らは、大半が空中で散った。残りははるか下に墜落した後、そこからこちらを見上げるばかりだ。
ザノンは怒髪天を衝いて、顔を激しく歪めた。
「うぬぅっ、シモーヌ! 貴様神界を裏切ったな!」
「はい! 裏切りました!」
シモーヌは高らかに宣言する。気おくれした様子はかけらもなかった。
「私は神界の天使たちより、召し使いたちより、この二人の方が大事なんです! 撤退してください、ザノンさま!」
ザノンはわなわなと震え、歯軋りの音高く目を剥いている。凄い憤慨ぶりだった。だが戦況が好転しないことに焦れたか、やがて仲間たちにわめく。
「退却だ、退却!」
彼が宙に印を結ぶと、空中に巨大な魔方陣が浮かび上がった。赤く輝くその中央へ、ザノンも生き残りの天使たちも引っ込んでいく。ケストラがそのさまを厳しい目つきでにらみつけていた。
しばらくして神界の兵士たちが全員逃げ帰る。すると魔方陣は音もなく縮小して閉じてしまった。俺は空飛ぶじゅうたんの上で腰を下ろす。
「あのザノンってやつ、結局自分では戦わなかったな。偉い奴は結局部下を見殺しにするんだな、どこの世界でも……」
ケストラがじゅうたんの下を覗いた。
「何にせよ……」
眼下には天使たちの死体が多数横たわり、無残なことこの上ない。取り残された水の体の召し使いたちは、下から怒声と石を投げつけてきた。この高低差ではどちらも意味がなかったが。
「何にせよ、ここに研究施設を作る気にはなれんわい。適当な場所を探しに行くからの、二人とも。さあ、出発だよ」
シモーヌが言いづらそうに口を開いた。
「あの……天使さんたちのお墓を作らないと……」
「その必要はないよ、シモーヌ。あの召し使いたちが何とかしてくれるだろう。それとも、邪魔な彼らを焼却しておくかい?」
「わ、分かりました」
ケストラは空飛ぶじゅうたんを飛翔させると、次の候補地に向かって加速させた。
■ムタージ
じゅうたんは快調に朝の世界を飛んでいく。
「ん?」
俺は目をこすった。目にゴミでも入ったのかと思ったのだ。シモーヌが俺に質問してくる。
「どうしたんですか、ムンチさん?」
「いや、何だか空に黒服の老人が浮いていたような……」
「どこにですか?」
「いや、左側の遠くに。見えないか?」
「見えませんよ、そんな人」
「おかしいな……。やっぱりゴミが目に張り付きでもしたのかな」
あるいは疲れているのかもしれない。でも、ぐっすり眠って天使たちを軽く撃退して、そんなに疲労困憊というわけでもなかったのにな。
シモーヌが突如声を上げた。
「あっ!」
「どうした?」
「右側の空に、老人がいました! 確かに黒い衣装……」
俺は彼女が指差す方へ視線を向けた。だがそこには誰もいない。シモーヌが不思議そうに首をかしげる。
「あれ、本当にいたのに……!」
何がおかしいのか、ケストラが豪快に笑った。
「ムタージだの? 子供相手に戯れ事をするな」
ムタージ? 誰だそいつ。……と思っていたら。
「きゃあ!」
シモーヌが仰天して俺にすがりついてきた。
「う、後ろです、後ろに老人がいますよ、ムンチさん!」
俺は背後を振り向く。いた。今度は空飛ぶじゅうたんの後ろについて飛んでいた。黒い服の老人。彼は愉快痛快そうに大笑いした。
「はっはっは! いかにもムタージだとも!」
ムタージはきつね目で隈があり、木製のパイプを咥えている。垂れた筋肉、白髪の多い頭部で、いかにも老けてみえた。何となくとっつきにくそうな感じがする。黒いローブに黒い『羽のある靴』を履いていた。あの靴が空を飛べる魔道具なんだろうか。
彼はパイプを吹かしながらケストラに問いかけた。
「お前は何者だ? この趣味の悪いじゅうたんは、ケストラが20年前に姿を消すときまで、ずっと奴の愛好していた乗り物に違いない。もう一度聞くが、お前は何者だ?」
ケストラは苦笑した。それ以外の反応はなかっただろう。
「わしはケストラだよ。こんななりだがの。魔族になって若返ったのだ。まさか魔王にまでなるとは思わんかったがの」
「魔族だと? 魔王だと? こいつは面白い!」
ムタージは心底おかしいとばかりに哄笑した。
「ケストラよ、近くに小生の根拠地がある。ぜひともこの20年間のお前について、積もり積もった話を聞かせてくれ」
「いいだろう」
「ではついてこい!」
ムタージが空飛ぶじゅうたんの前に移動し、ケストラはその後を追いかけるように操縦する。周囲は再び緑豊かになり、前から近づいてきたかと思えばあっという間に後ろへと流れ去っていった。
やがて高台の上を覆う森林に到着する。ムタージはその中でも少し開けた場所に着陸し、俺たちも続いた。俺は首をひねらざるを得ない。
「ムタージとかいうじいさん。ここは森だぞ、家なんかどこにもないじゃないか」
ムタージは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「何を言う。座りたいと思って中腰になってみろ」
「座りたい? 思う? 中腰?」
「いいからやってみろ」
「んじゃ……座りたい」
言い終えると同時に、俺の足の長さに合った葉っぱの椅子が、地面から生え出てきた。膝の裏を押された俺は、そのままどかりと座る。折れるのではないか、と思われた葉っぱは、しかし予想に反して全体重を支えてくれた。座り心地はフカフカだ。




