67ザノン
他人にあるものが、自分にだけない。俺は悲しくなり、泣きそうになった。
「何で? どうしてお母さんは死んじゃったの? 僕らを残して……」
「それはな、ムンチ……」
突然辺りが真っ暗になる。音さえ消えて、賑やかだった世界が黒一色に封じ込められた。父のけたたましい嘲笑が俺に降り注ぐ。
「な、何?」
ガランはいきなり俺に掴みかかり、笑いながら喉を締め上げた。
「ムンチ、お前が悪魔だからだ! お前がカイを殺したからだ! だからお母さんはいないんだ! がははははっ!」
俺がお袋を――カイを殺したというのか。そんな……!
「が……っ」
呼吸ができない。一方で右手人差し指が熱い。俺は本能的に悟った。これは、この力は使ってはいけない。だがその思いとは別に、勝手に右手が動く。駄目だ!
次の瞬間だった。『鋼の爪』が伸びて鋭い刃となり、横に振られる。ガランの表情が絵画のように静止した。その首から上がずるりと傾いて、ほとばしる血潮の中、地面に転がり落ちる。
俺は気が狂いそうな光景に、腹の底から絶叫した。
「お父さーんっ!」
そこで世界が歪み、何もかも跡形もなく消滅する――
俺は泣きながら起き上がった。ケストラとシモーヌがぎょっとしてこちらを見ている。外はだいぶ明るくなっていて、日差しに照らされた反対側の崖がまばゆい。
え? ここはどこだっけ? いや、というか今の聖誕祭の光景は……
「ゆ、夢か……」
俺はほっと安堵した。涙を指先でぬぐう。シモーヌが心配したらしく声をかけてきた。
「ムンチさん、起きたんですね。何だかうなされていたみたいですが、大丈夫ですか?」
「ああ、何でもない。ちょっとひどい夢を見たってだけだ。シモーヌはよく眠れたか?」
「はい、ぐっすりと」
俺はちょっと皮肉交じりにつぶやく。
「それはよかった」
ケストラが手を叩いて乾いた音を響かせた。
「よし、全員起きたことだし、そろそろ家を拡張していこうかの。ほれほれ、空飛ぶじゅうたんに乗るのだ、二人とも」
ケストラは毛布をしまうと、魔法のじゅうたんを取り出してそこに座る。俺とシモーヌも乗った。
「……ってケストラ、結界の外に出られるのか?」
「ああ、とっくに効果は消えとる。魔族のわしでも問題はない。ほっほっほ。では行こう」
俺たちは岸壁の外へ飛び出す。あまりの高さが陽光で露見して、俺は背筋が凍った。
「こんなに高かったのかよ……。落ちたら死ぬな」
ケストラはそんな俺の心境に興味なさげで、崖をにらみながらああでもない、こうでもないとぶつぶつ独語する。
「とりあえず3階建てにしようかの。となると柱を残して……壁は幅を持たせて……入り口は……」
そのときだった。いきなり頭上に複雑な紋様の魔方陣が出現する。俺は仰天して見上げた。
「な、何だ?」
魔方陣はその数をたちまち増大させる。それらから、剣と鎧で武装した天使たち――背中に白い翼が生えている――が続々と飛び出してきた。
ケストラが厳しい声でつぶやく。
「天使たちだ。……シモーヌ、この腕輪をはめるのだ」
ケストラから『魔法使いの腕輪』を受け取りつつ、シモーヌは鋭い眼光で同類たちを見渡していた。そうしながらパチリと腕輪をはめる。
やがて武装した天使たちの中でも、ひときわ大きなものが一歩進み出た。この頃には、あれだけあった魔方陣がすべて消えている。快晴をバックに、分厚いダンビラを佩いたその天使は、こちらをにらみ殺さんばかりに凝視してきた。
「やはり生き返っていたようだな、ケストラ!」
肺腑にとどろく怒号が、朝の谷間に響き渡る。
「俺の名はザノン! 今貴様を殺しに参った! 観念しろ!」
ザノンは剣山のように逆立つ白髪と、命知らずの猛者のみが有する激しい目力を持っていた。角ばった顔は岩より硬そうだ。鎖かたびらの上に赤い鎧かけを羽織っている。
いつの間にか俺たちは、天使たち約80名に包囲されていた。これは生半可なことではすまないな。俺は右手人差し指を曲げたり伸ばしたりして臨戦態勢を取る。ケストラがザノンへ大声で問いかけた。
「おぬしら、わしだけを殺すのか? この二人も殺すのか?」
「ええと……。それに関しては天使長ホイトさまよりうかがっておる! 天使シモーヌ!」
「はい」
「神界は――天使長ホイトさまはお前の帰還を求めている! 大人しく我らについてこい!」
これにはシモーヌも驚いていた。
「天使長さまが、私の帰還を?」
俺にはその重みが分からなかったので、彼女に小声で尋ねる。
「天使長って、神界の偉い奴か?」
「偉いなんてものではありません。最高位、頂点に立つ天使です」
「へえ……」
ザノンが俺を指差した。大気が震えるようなド迫力を誇示する。
「それから人間ムンチ!」
「何だよ」
「お前は今回の件に首を突っ込むな。邪魔しなければ攻撃はしない。約束してやろう」
「それはありがとよ。嬉しくねえけどな」
ザノンはダンビラを抜いて、その切っ先をこちらへ向けた。
「さあさあ、お喋りはここまでだ。ケストラよ、観念しろ! ものども、奴の命を奪え!」
老若男女、背の高低、体の分厚さなどなど、それぞれ個性を持った天使たちが、剣を抜いて一斉に襲いかかってきた。もちろん俺は邪魔をする。
「死亡決定だな、あんたら」
俺は『鋼の爪』連射で、天使たちを滅多やたらに撃ちまくった。彼ら彼女らは頭や腕、腹や足、翼などを吹っ飛ばされて、血と骨と内臓を撒き散らしながら、次々に墜落していく。
一方、ケストラは『万物意操』により、瓦礫や岩の塊を天使たちに投げつけていった。それによっても天使たちは深手を負って落ちていく。
3分の2ほどが勇戦むなしく散ると、ザノンは顔を真っ赤にして怒った。
「おっのれぇー! 行け、召し使いども!」
大量動員されたらしい召し使いたちが、崖の上からこちら――空飛ぶじゅうたん目がけて飛び降りてくる。俺の爪やケストラの瓦礫に当たっても、かつての召し使いザルフェのように突き抜けて、すぐ元通りになった。




