もんだいそのさん 優生学思想と老人福祉
私は私の住まう城のお庭で咲き誇っている薔薇を眺めていました。
外壁や大型のアーチに蔓を伸ばす蔓樹形薔薇も記念碑や小型のアーチを彩る半蔓性樹形薔薇も、花壇で美しく咲く木立性樹形もそれそれ素敵です。
薔薇の世話、つまり水やりや施肥、そして剪定などを行うのは庭師の仕事で、今もお礼肥えをほどこしていますね。
「お仕事に精が出ますわね」
私が庭師の男性に声をかけると彼はぱあっと笑顔になりました。
「これはお嬢様、これが私たちの仕事でございますからね」
「ええ、あなたたちの腕が確かなのはありがたいことですわ。
剪定もお上手ですし」
「薔薇は、適した時期に枝やシュートを切らないと花が少なくなったり、咲かなくなったりしますからね。
それに切るところを多少間違えても枯れることはないですから」
薔薇はその美しさだけではなく比較的育成が簡単な部類に入る植物でもあるので人気があるのですね。
「ではこれからも頑張ってくださいませ」
私は薔薇の園を離れ、休憩用の西洋風東屋の椅子に腰かけしばし考えます。
「適した時期に枝やシュートを切らないと花が少なくなったり咲かなくなったりですか……。
ある意味それは人間も同じですわね」
そんなことをつぶやいている私の所へお父様がやってまいりました。
「ふむ、いったいどうしたのだ。
何か深刻な悩みでもあるのかね?」
私はお父様の言葉にうなずきます。
「はい、お父様。
薔薇に剪定が必要なように人間にもある程度の間引きが必要なのでしょうかと」
「いやいや、それは駄目だ。
世界的に19世紀末から20世紀初頭にかけて優生学から派生した優生思想がはびこった結果どのようなことが起こったかは知っているであろう。
父の重々しい言葉にわたくしは答えます。
「はい。
ドイッチェラントでの、アルコール依存症患者、性犯罪者、精神障害者、遺伝病患者などに対して不妊手術のが40万件ほど行われたことやT4作戦と呼ばれる、精神的または肉体的に障害を持つとされた人々が記録に残っているものだけで7万人、そうでないものも含めると最大20万人が殺されたり、人体実験に用いられたこと。
それがコメリカにおいて行われていた、精神障害者の結婚を制限する法律成立や、精神障害者の強制不妊手術が参考に行われたことや、コメリカでも記録に残るだけで6万人が強制的に不妊手術を受けさせられたこと。
有色人種は劣等種であるため白人との結婚は禁ずるという法律を制定したことなどですわね」
「う、うむ」
「このこれらの法律では最上位に西欧・北欧、その下に南欧・東欧などが位置づけられ、東アジアの人間は不適格とされ、移民から完全に閉め出されたのが当時のヤパン人でした」
「うむ、それも戦争の原因の一つであったといえるな」
「そして、ヤパン王国でも1940年には遺伝性精神病患者に対する強制不妊手術などを定めた国民優生法が公布され、戦後の混乱期には人口抑制を目的として優生保護法が1948年成立。
ハンセン病患者、精神障害者、知的障害者、視覚障害者などは断種対象とされ、強制的不妊手術が行われそれは1970年代まで続きました。
最終的に1996年に優生条項を削除する法改正がなされるまで放置されていたのですわ」
「お前が詳しすぎてむしろドン引きだよ」
「しかしそれがゆがむのが1970年代に興隆した障害者解放運動です。
障害者差別糾弾を掲げた急進的な当事者団体が「優生思想」という言葉を叫んだことにより、人道的に考えてどんなコストを払っても健常者と同一に扱わなければならないとされてしまったわけですね。
またこれは老人医療などにも同様のことが言えます。
平均寿命世界一を維持するために自分の口で食事をできなくなった高齢者に対して、胃に直接栄養を送る胃ろうなどで延々と生きながらえさせることを行ったりするわけです」
「それはいけないことかね?」
「北欧などでは、介護士たちはできるだけ高齢者が自立した生活を送り、自分の口で食事をできるようにサポートしますが、それが難しいときには無理な食事介助や水分補給を行わず、自然な形で看取りを行います。
そしてそれが人間らしい死の迎え方だと考えられていて、胃に直接栄養を送る胃ろうなどで延々と生きながらえさせることは、むしろ虐待だと見なされているのですわ」
「うーむ」
「単純に延命治療や介護だけの話で言うならば、健康寿命と平均寿命の差であれば日本が特別健康寿命が短いわけではなくほかの国々との寿命差は3年から5年ほどですが、その3年から5年を伸ばすために動けるようになる見込みのない老人を無理に延命させ、高齢者となり年金生活者となった親世代を介護目的で暮らす家庭が70万世帯以上になっているにも関わらず、その大半は仕事を辞めたり、生活保護を受けながら貯金を取り崩して生活し、それを支援する介護業界の費用もかなりの割合が国庫に依存しているわけです。
ちなみに女性では80代前半の25%、80代後半の50%、90代以上の70%以上が認知症患者ですわ。
もっとも、単純に労働人口に比べて高齢者が多すぎるという超高齢社会の問題でもあるのですが」
「ではどうするべきだというのかね?」
「正直に申し上げますが老人向け予算よりも、子供・育児世帯向け予算を増やさなければ超高齢少子社会はますます進み、いずれは財政的に何らかの実をとらねばならないと思います。
実際後期高齢者の医療費負担も2022年10月に2割に上がりますし、おそらくすぐに3割に引き上げられるでしょう」
「では老人は見殺しにしろと?」
「そういう言い方をされるのを嫌がって問題を先延ばしにしてきたのが現状ですわ。
ヤパンの王都トーキョーの合計特殊出生率は、1.15。
これは出産可能な年齢、およそ20台から40代の40人の男女から23人の子供しか生まれてきていないことを示しております。
更に付け加えるのであれば、母親の年齢別出生数の年次推移で、1998年からは25~29歳に代わって、30~34歳の出生数が最多となり、2009年からはさらに35~39歳の出生数が25~29歳の出生数を上回っている状態ですので、数年で合計特殊出生率がガクンと落ちる可能性も高いでしょう」
「うーむ、そこまでか」
「ええ、そこまでなのですよ。
お父様」
そしてお父様は左右をきょろきょろ見渡しながら言いました。
「ところでそろそろ何らかの暴力的なオチが付くころだと思うが……」
しかしながらお母さまが現れる気配は特にございません。
「今回はそういうものはないようですわね」
「そ、そうか」
お父様の表情がほっとしたようなものであるようにも残念がっているようにも見えるのは私の気のせいではないでしょう。
・・・
今回は状況が深刻すぎるのもあってギャグテイストにできませんでした。
弱いものをどんなコストを払っても保護しなくてはならないというのは、弱いものは経済的負担になるので切り捨ててもいい、殺してもいいと同程度に間違っていると私は思います。
ただ、その線引きは難しく、ドイツのT4作戦などは医師や看護婦などの医療従事者がむしろ積極的に関与して不妊手術や安楽死を進めていたという事実もあるので何とも言い難い所です。