第三話 汚れた水溜まり
「高林さん、あの人ってどうなったんです?」
バイト先の仕事仲間がいきなり切り出してきた。
店内には客が一人もいない。暇すぎて無言のままだと気まずいから話しかけてくれたみたいだ。
「江野さんも気になる?」
「はい」
江野麻実さん。深夜帯で唯一の女性。
大学3年生の21歳さん。
うちのコンビニ歴は3年目で、本来は夕方から夜10時くらいの時間帯だが、夏休み期間ということで深夜時間も入ってくれている。
因みに彼氏が深夜に入っているため、彼女も望んで移ってきたのでコンプライアンス的にもセーフだ。
僕はその彼氏とは仲が良く、その繋がりもあって江野さんとも親しくなった。
彼氏は小坂裕二といって、いじられキャラな明るい男だ。
小さいコンビニのため深夜帯の人が少なくて一緒に働く機会は多く、コミュニケーションへの抵抗は著しく低かった。
この男女には僕の悩みを打ち明けていた。
「誘い水みたいなLINEをしてくるやつがいるんだ」
「「誘い水?」」
僕が勝手に命名したものだから、当然二人とも疑問形で聞き返してきた。
一から説明する。
LINEはTwitterやInstagramとは異なるツールであること、それを踏まえても本題を送信しないリスクとコストをどう思うのか。
「う~ん。そいつ男なんだよな?」
唸ってから小坂が確認してきた。
「なんか女々しくないか? 女ならただ喋るだけってのはわかっけど」
「ちょっと、ユウくん男女差別だよ」
僕のせいで二人が喧嘩するのは嫌だったので、軌道を変えようと「女性としての異見は?」と江野さんに無理やり訊ねた。
「女々しいかは判りませんが、変だなとは思います」
「というと?」
「辞めたいんですよね?」
「どうだろう」
それは本人しか知らない真実だ。
悩みになるだけのことはあり、本音なのかフェイクなのかも判らない。
「だって親友の高林さんが判断できないくらいの状況なのに、ずっとLINEしてくるんですよね?」
親友……なのか? 別にそこまでの感情移入をしていたつもりはないが、俯瞰的に考えれば友人の域を超越していると判断できたのかもしれない。
「多い月は毎日。少ない時は一週間に一度くらい」と素直に状況を述べた。
僕の真剣な言葉に対し、小坂が嘲笑するように「キッモ。男なのに毎日のようにイラねーLINEとか」と吐き捨てる。
「ユウくん、言葉を選んでよね」
江野さんが強い口調でたしなめるように小坂を睨んだあと、すっと表情を戻してから僕の眼を見据える。
「やっぱり変です。行動と言動が一致していません。客観的に解釈しても一貫性がないと思います」
やっぱりそうなるよね。
なんとなく感じてたことを適切で丁寧な言葉で贈ってもらえたのは、僕としては打ち明けて良かったと率直に思えた。
「バヤシよぉ。そいつと縁切ったら良くね」
「……高校からの付き合いってのもあるし、そいつ僕の部屋知ってるからさ。逆恨みして乗り込んでこなくもない」
そんな奴ではないことは知っているが、社畜となり発想が狂っているのはありえなくもない。杞憂ではあるだろうが、慎重に距離を取ろうとは考えていた。
「バヤシ、お前優しすぎんぜ。よく一年以上も愚痴LINEを相手してられんな」
小坂は明るい奴であり、キャラと口調のせいでバカだと誤解されるが、コイツもちゃんと早稲田大学に入学できるだけの脳力がある。
「バヤシに無関係なんだろ?」
「ああ。だから反応に困ってんだ」
「オセロの初手って表現マジでウケるわ。バヤシ、それセンスあんぜ」
〈オセロの初手〉
将棋やチェスは、駒が複数あり戦術も多く歴史も長い。
故に多岐にわたる戦法があり、最初から最後まで予定調和で進めるのは困難だ。
だが、オセロはゲームルール上、初手は二つの選択肢しかない。しかもその選択肢も大きな違いがあるとは思えない。
〈誘い水LINE〉では、一度僕が反応しなければならないため、オセロの初手みたいだなと例えたのだ。
最初の返信では「ヤベーな」「また何かあったのか」「なになに?」など、当たり障りのない文言になってしまう。
これを連日に送らないように気を付け、前日や一週間の返信を確認するのが億劫で悩みに昇華されてしまったのだ。
二人に相談したのは2017年の12月か、それよりちょっと前だった気がする。
記憶が曖昧になってしまうくらいに、友人からくる新情報が多過ぎるのだ。
そして2018年7月28日の今日、彼女に話していない情報を解説することになった。
「で、辞めたんですかその人?」
「……ははは」
乾いた笑いをしてしまった。
どこから説明していいのか不明確だったからだ。
「やっぱり」
どうやら彼女も予想は出来ていたみたいだ。
「そんな会社に1年いたわけですから、このままズルズル残ると思いますよ」
だよなー。
「ねえ、辞めたいって言ってるのってフェイクだと思う?」
「勇気がないだけじゃないですか?」
「……ははは」
また笑ってしまった。
「本人も認めているんですよね。決断できないって。わたしだって完全に独り立ちしてるわけじゃないですけど、普通に考えれば現実逃避してるだけだと思います。月に2、3回しか休みない時があった時点でおかしいし、それから逃げたいって思ってるのに残り続けて、無関係の高林さんにずっと愚痴してるって変ですよ。しかもLINEで」
「+電話でも対面でもね」
「何がしたんでしょう?」
「それは僕が聞きたいよ。直接会った時に辞めない理由を聞いてみたけど、苦笑いされただけだったし」
言い訳は「業務内容は嫌いじゃない」だった。
係長、支店長などの特殊な上司との人間関係で辞めたいらしい。
けれどその業務内容ですらブラックだったから、僕だって説得を行動に移したわけで……。
言い訳は他にもあった。「車を運転するのが好きだ」だった。
それこそ趣味として休みの日に車を運転する環境にすればいいし、仕事として運転するのだって別の会社でいいわけで、業界を変えたとしても運転をするのは難しくない。
それを彼本人から言われた時、「あ、コイツ一生辞めないな」と確信した。ずっと言い訳し続けて、「1年は辞めない」といい2年くらいやったあと「3年経ったら辞めよう」になるだけだ。
3月は繁忙期で「その周辺で辞めたら迷惑になるから2月~4月は辞めない」とも宣言していた。退職したら二度と会わないかもしれない人たちに気を遣い、本来プライベートに向けられた時間を捨て去る行為だ。
加えて、彼の職場には真人間が少ない気がする。彼は直接会って接触をしているから情に絆されるのだろうが、僕としてはどいつもこいつもダメな気がする。
飲み会への依存率。強引な業務の押し付け。残業の強要と改ざん。
世話になった人がいる? そんな馬鹿みたいな環境から脱出することを勧めない人だらけの職場で、どんな世話をしてもらったんだ?
仮にそれらの世話に感謝していたとしても、恩返しするだけの救いをしてもらえたのか理解に苦しむ。
「ただ変化を恐れてるだけですよ」
正論だ。やっぱり江野さんや小坂に相談してよかった。僕の感覚は間違っていなかった。
「その人も気づいてるんじゃないですか? だから高林さんに弱い自分をぶつけて、そんな自分を許容して欲しいと高望みしてるんですよ」
「江野さん、結構毒舌だね」
「ユウくんも言ってましたけど、高林さんが優しすぎるんですよ。シフトの変更だって、断られたことあんまりないし」
「それは僕の都合に適していただけだと思うけど」
「そうでしょうか?」
「仕事仲間だし、君らが困ったら僕も困るし」
「それが優しいって言ってるんですよ。一歩間違えたら甘い対応ですよ」
なぬ、そうなんだろうか?
「じゃあこれからは江野さんには厳しくしていく方が良いみたいだね」
「あ、ユウくんだけでお願いします」
「彼氏を売るな」
「だってバイト先の先輩であるユウくんと、わたしの業務レベルが近いってバランスおかしいですから。半年も後輩なわたしにはこのままでお願いします」
高野さんは感情が読みにくい。声の抑揚も薄いから、言葉の意味をそのまま受け取っていいのだろうか……。
「小坂も江野さんも能力高いよ。比べてしまえば江野さんの方が優れてるだろうね」
褒めるというより、ありのままを伝えたつもりだ。皮肉と勘違いされたら困惑してしまうくらい、贅肉のない分析結果を淡々と声にした。
「……ありがとうございます。ユウくんもいっていましたが、高林さんって面倒見良いですよね? 教えるの上手だなって思ったこと多いですし」
あれ? 僕の方が褒められているのは新手の嫌がらせか皮肉か?
「褒めても無駄だよ。面倒見がいいと錯覚してしまうのは、大雑把な人と比べてしまうからだよ。僕は神経質って言われることが多いから、説明する時とか細かくなっちゃうだけでさ」
「はい。わたしが出会ってきた人の中で、高林さんは最上位の神経質だと思います」
凛とした声音で言い放った彼女に微塵も迷いを感じなかった。それが逆説的に本当に神経質だと思われていることが証明されてしまった。
「あ、やっぱりそう思う?」
恐る恐る訊ねた。彼女以外にも近い台詞を言われた経験があったので確認したかった。
「考え方によると思いますけどね。業務量の多寡に限らずちゃんと教えてくれる人って結構少ないですよ。でもまあ、その説明いるのかなって感じたこともしばしば」
「最後のいる?」
「わたし、一言多いってよく言われます」
自己申告するってスゲーな。
「江野さんって、変わってるって言われない?」
嫌味でも皮肉でもなく、純粋な感受を質問にした。
「はい。高林さんも言われますよね?」
「…………はい」
悲しく虚しい終着点だった。
俯いてしまう僕に反し、江野さんはクスクスと小さく微笑んでいる。
なんで笑っているのか訊ねるか脳内で選んでいた矢先、右ポケットに小刻みな震えが生じた。
「っ!」
ギクリと全身が硬直する。
虫の知らせというか、悪寒が走ったような嫌悪感を自覚した。
「高林さん?」
「……江野さん、新しい仕事教えようか?」
話題をブチ切るように彼女の双眸を見つめながら提案する。
絶妙なバランスの顔立ちをしている江野さんが眼光をむけてくる。
初めて彼女と顔を合わせ、挨拶をされたときの第一印象は今でも覚えている。
整った貌と鋭い相貌、そして頬が強張った感じも相まって表情が読みづらいなと思ってしまった。
特に僕は人の眼を見つめながら話すのが苦手で、相手を一瞥しただけで目を見ながら話しするのが得意か不得意か判別できるようになってしまった。
「何かあったんですか?」
ヤベ。バレた。
「高林さんって、仕事を教える時は前もって知らせてくれるじゃないですか。急遽仕事をふる時でも、一度全体の説明をして一緒にやってから任せてくれるんですよ。そこまで丁寧に新人に気を使える人が、そんな提案するとは思えないので」
なんじゃこの人。的確に僕の性格を見抜いてやがる!
「もしかして、誘い水の人ですか?」
この人ってエスパーか?
「高林さん。今日ってものすごく暇ですよね?」
……ん? それがどうかしたのか?
「しかもすることもないですし、やらないといけないことは済んじゃってますね」
「…………なに?」
逡巡しながらも徐に訊ねる。
「LINE、見せてください。お客様が来たら仕事に戻るので」
「個人情報を軽々しく見せるわけないでしょ!」
「わたしと高林さんの仲なのにですか?」
「バイト先の先輩と後輩ってだけでしょ!?」
「ユウくんと喧嘩した時に相談にのってくれる先輩なのにですか?」
冷淡に責めてきやがる。言葉にされると、本当に面倒見がいいじゃないかと思い知らされているみたいだ。
「高林さんには、ユウくんにも話せないようなこと喋っちゃったことあるんですよ?」
「浮気相手に言うような台詞やめてもらえます?」
「やっぱりわたしのことそんな目で見てたんですね」
「誘導尋問には引っかかりませんので」
互いに一歩も引かない素振りだが、完全にアドバンテージは彼女に傾いている。
さっきまでの流れがこんな形で影響してくるとは予想できなかった。
「高林さんから相談されたLINEの件、どこまでが本当でどこまで真剣になればいいのか、わたしにも預からせてくれませんか? 普段からお世話になってるので、ご迷惑でなければですが」
お世話という単語が、回りまわって伏線のように僕の心を抉ってきた。
まさか彼女からそんな言葉が出てくるとは思いもよらず、悩みの種から助けてくれるのではないかと一縷の光が見えた気がした。
「わかったよ。本当は携帯電話とか弄っちゃだめなんだぞ」
「承知しています。でも、今は良いですよね? 着信があったみたいですし」
「良く分かったね、さっきLINEきたの。サイレントモードでバイブ音もしないようにしてるのに」
「そこそこ二人の関係は深く長いので」
「浮気相手に言うような台詞やめてもらえます?」
「ではコチラの作業台においてください」
僕のツッコミなど聞く耳を持たないのか、客からは見えない机をトントンと叩いている。
「しょうがないな。特別だぞ」
からかわれながらも、結局は了承してしまう自分に、やっぱり甘い奴だと自己評価をしてしまう。
まず、彼女にはこれまでの友人とのLINEを見せることになった。
「確信しました。高林さんはイチゴよりも甘いですね」
「あ、お客さん来たみたいだ」
いきなり罵られたので、客が来たという嘘を吐いてまでスマホを返すように手を出したのだが……。
「明日からシフト代わるのやめましょうか?」
「……」
ガッツリ致命傷の反撃をもらってしまう。
声優の仕事はオーディションがあるせいで、予定が変更されるのは珍しくない。
特に売れていない僕は多種類のオーディションを受けているため、バイト先のシフトも変えることがある。大学生である彼らから頼まれることもあるが、こちらから頼むことの方が多い。
江野さんはスケジュール管理をちゃんとしていて、大学での成績も安定しているのか、シフト変更を結構受け入れてくれる。
そうか……世話になっているのは僕もなのか。この娘、したたかだ。
「お客さんいないですよ。もしかして霊感あります?」
辛辣な彼女に、わずかでも僕の優しさを譲ったげたい。でも、逆らうと日中の仕事がぁ……。
「わたしと高林さんの仲じゃないですか」
「だから、浮気相手に言うような台詞やめてもらえます?」
「まずは過去のLINEを全て読むのでスマホ貸してください」
「話を聞け!」
すうっと読み終わる江野さん。読むのが早いのか、ものの10分程度で今月の始めまでたどり着いた。
2018年7月9日 20時28分
『また会社で事件起きた笑笑』
その日は僕がバイトだったので早朝3時に返信をしている。
そして5時間後の、10日 8時23分
『窓ガラス割った人の部屋が何者かに荒らされたらしくて、超怖いっ!』
と送らえてきた。
江野さんがちらりと視線を移してくる。
これまでのLINEを見ても内容が理解できなかったのだろう。
「……ああ、この説明をしないとかぁ」
6月24日に大事件が発生したとLINEがきた。
その内容が窓ガラス事件だ。
まず登場人物が3人いる。1人は僕の友人、2人目は友人が慕う先輩A、3人目は先輩B。
先輩Aは友人と中学校が同じだったそうで、同郷だったこととその先輩が良い人だったらしく、すぐに仲良くなったらしい。
その先輩繋がりで先輩Bも仲良くなり、毎週のように飲み会に誘われることになる。
先輩Bと仲良くなったきっかけが、散々悪態をついていた係長への文句だったらしい。
友人も共通の話題がきっかけで、飲み会に誘われたときは参加できたら絶対にイエスと言ってしまっていた。
そして事件が発生する。
先輩Aの付き合いが悪くなったらしく、Bが何故飲み会にこないのか迫ったそうだ。
結果、Aに彼女ができたため同棲を始めることになって参加が難しくなったとのこと。
けれどBは「じゃあその彼女も飲み会に連れてこい!」なんて無茶なことを言い出し、Aは応えることなく飲み会を断り続ける。
業を煮やしたBは、6月24日に友人と二人で飲んだ帰りに、Aの部屋の窓ガラスを酔った勢いで割ったらしい。
酔っ払ってるからと言うのは理由になっていない。器物損壊で犯罪行為はそんなことでお咎めなしにはならない。
しかも殆どの社員は寮に住んでいるため、その窓ガラス事件はすぐバレた。
当然、責任者である支店長がことの事件を調べることになり、友人が素直に事情を話した。
勿論Aは激怒。同棲をしていたが寮に住んでいるていになっていたそうで、割られた日は彼女の家にいっていたそうだ。
それからAはBと仕事だけの関係になった。しかしBは未練があったのか、たびたび飲み会に誘い断られ逆ギレからの逆恨み。
二人の関係はズタズタになり、友人はますます飲み会に誘われる機会が増えたとのことだ。
数日後、このBの部屋が荒らされていたらしく、Aの仕返しなのではないかとも噂されることになる。
けれどAの人間性を考慮すると、そんなことをするような人だとは思えないということと、以前から別の部屋で似たような事件があったそうだ。
服や家具もバラバラにされ、布団に尿までかけられていた。外部の人間ではないかと噂になり、社内で調査をしているらしい。
しかしBの人間性を考慮すると、自作自演をしている可能性は高い。以前の事件との繋がりは定かではないが、Bがその事件を利用して外部の仕業に見せかけたのではないか、と僕は推理したがBと会ったこともなければ見たことも声も聞いたこともないので空論に過ぎない。
最終的にBは窓ガラスを割ったことを認めなかったらしく、会社が修理代をだすことになったそうだ。
「なんてことがあったんだって」
かいつまんだ説明を江野さんにしたが、彼女の表情には変化が見られなかった。
「なんですかそれ? 普通に器物損壊と不法侵入で事件確定じゃないですか。この人、変じゃないですか?」
友人よ、これが一般人の見解だ。
2018年7月13日 20時47分
『やばい俺が白状したこと等々バレた笑笑。まだ直接は会ってないけど、めっちゃキレてるらしい。明日はとあるイベントも重なって面倒くさいことになりそう。本当に逃げ出したい笑』
「とまあ、予想通りの展開になり過ぎて笑えなかったよ」
江野さんもため息を吐き、次の僕の返信を指さしながら「修羅場になってますな」と音読した。
21時11分
『ウルクススがここにきてめっちゃいい感じで間に入ってくれててさ、俺はただ謝るしかなさそうな感じらしい。しかも明日飲み誘われてて、支店長からも誘われててダブルブッキング状態だからさー。もう全てをぶち壊したい笑』
江野さんとまた目があう。
「ウルクススってのは女性事務員のこと。なんかのゲームのモンスターらしいけど、僕はやったことないから知らん。体格が似てるんだって」
「最低の例えですね」
「まあ、愚痴だからね……」
江野さんはウルクススというモンスターを知っているみたいだ。友人の口調的には褒めている表現ではないことは判っているため、どのようなものなのかは想像できる。
「高林さんの返信は『謝るもなにも、自業自得なんだけどね。最悪、逃げ場所は提供するぜ』ですか。甘ちゃんさんですね」
「“ちゃん”か“さん”のどちらかにしてほしいんだけど」
ってかなんで音読すんの恥ずかしいんですけど。
「この人、本当に辞めない理由がなくなってますよね。人間関係の悩みが尽きない現場で、逃げ場所は高林さんが準備してくれている。これだけの素材があれば、結論は定まっていると思うんですよ」
「つまりは勇気がないって言いたいわけね」
「はい。その次の言葉が証拠になっています」
21時15分
『てかそもそもなんで俺が謝らなきゃいけないんだよ笑。てか先週支店長に詰め寄られた時もそうだけど、俺が悪いみたいになってるのおかしくね? 俺が白状した時点で早めに謝ってれば良かったのかなとは思うけど、でもウルクススはそういう問題でもないんじゃない? って言ってくれた。なんかめっちゃいい女に見えてきたウルクスス笑』
『俺も先輩もなんも悪くなくね?笑。先輩に至っては完全にブチ切れてるからなー。俺とは普通に話してくれるけど。まず彼女が出来て窓ガラス割られる意味が分からない笑』
「高林さん。この人どうしたいんでしょう? 相手が異常だと認識しているのに辞めないなんて」
「僕に聞かないでくれ」
その翌日もLINEがあった。
勿論、誘い水だ。
2018年7月14日 15時55分
『仕事でもクソ最悪なこと起きた。高速走ってる最中タイヤがバーストしてしまい走れなくなった。今常磐道ひたちなか付近で身動き取れない状況笑』
「っぷ」
驚愕だった。
あの江野さんが笑っているなんて。
バイト先で愛想がないと陰口をたたかれ、夕方の時間帯の人たちに距離を置かれていたくらいの人が笑ったぞ!
友人よ、君のバラエティーセンスは相当レベルが上がっているみたいだ。
「江野さん?」
心配になって声をかける。
「本当に相槌みたいですね、高林さんのLINE。『マジか!?』って送ってるじゃないですか」
「……ああ、それはまあね。車のことは詳しくないから反応の仕方も知らなかったんだ。だからテンプレートの返信をね」
くすくすと小さいけれど、こんな感情を漏らしたのは初めて見たかもしれない。
江野さんとはそこそこ長い付き合いになるが、大袈裟な表情、表現、動きすらしない娘だったのに、もしかしたらこれが彼女の素なのだろうか。
彼女がこのバイト先に入ってきたのは人手不足の時期だったなぁ。
あのときは既に小坂と付き合ってたらしくて、江野さんもお小遣い稼ぎもしたかったからということで、従業員紹介の勢いで入社したんだっけ。
でもまあ……入社後は不評だったけどね。僕個人としては真面目だしスキルも高いから助かってるけど。
まじまじと彼女を凝視しそうになっている自分に気付き、僕は焦るように彼女に先を促す。
「で、結局『今無事に仕事終わったので行ってきます。飲み会という名の乱世に笑』って飲み会に行っちゃってるんだよね」
飲み会を強制され、加えてタイヤまで故障。泣き面に蜂とはこのことだ。
『今飲み会終わったー。思ったほどやばくはなかったけど、でもやばかったー』
「この人、文才ないですね」
「LINEなんだから文才なんてあっても発揮できないでしょ」
「高林さんも文才ないですよ」
「事実でもやめてください」
愛想がないだけなら不評は買わない。というか売ることにはならない。
彼女が職場の人から距離を置かれているのは、人見知りと発言が原因だ。
両方ともそこまで酷くはないが、無自覚にキツい言い方をすることが最大の元凶になっている。
小坂はちょっと変わってる女の子が好きらしいが、接客業的にも彼女はむいていなかった。
首の皮一つ繋がったのは、賢さと生真面目な性格のおかげだ。接客はダメだったが、それ以外の仕事は新人にしては覚えも早く正確だった。
……まてよ。
何回か同じような経験があったような気がするぞ。
小坂は江野さんの真逆で、愛想は良かったのだが複雑な業務を覚えるのに時間を要した。レジでの計算などは得意だったが、用品管理などは苦手で嫌いだった。
小坂も問題児とされ、店長に面倒見てくれって言われたな。
で、江野さんのときは「高林くん、夕方の子と時間被るよね。数時間だけなんだけど、レジ業務の面倒を見て欲しいんだよね」と頼まれたな。
記憶の道を戻るたびに他の人の顔も浮かんできた。
少なくとも覚えがあって江野さんで5人目だ。
おいおいおい、みんな僕のことをなんだと思ってんだ……んまあ、教えるのは嫌いではないが時給という評価はそのままってどゆこと。
「高林さん?」
「ん? なに?」
「なにじゃないですよ。この人、1日に2つの飲み会に行ったってことですよね?」
また彼女が画面を指さしている。
2018年7月15日 1時32分
『なんかやっぱ言っちゃったことに関してめちゃくちゃ怒られた笑。お前は仲間を売る奴という烙印までついてしまった。もう意味不明すぎてこの問題どうでもよくなってきたわ笑。支店長との飲みにも顔出したし、間に挟まれてめんどくさかったー笑』
「みたいだね」
「なんでそうなったか聞きました?」
「もう意味不明すぎてこの問題どうでもよくなってきたので聞き忘れました」
「……っち」
「舌打ちすな」
「だって気になります。この人、どれだけウジウジしてるのか。ダブルブッキングだったのならどちらか断ればいいだけじゃないですか」
「知らんよ。友人の職場での派閥なんて知らん。断る勇気がないか、飲み会を断れないように洗脳されてるか。どっちにしても僕には助け舟を出すことは無理だ」
そして次の誘い水LINE。
2018年7月17日 19時59分
『今日も別の人から誘われた。さすがに断った笑』
「知りませんけど」
僕と一緒のこと言ってる江野さんに好感が持てる。
2018年7月21日 12時44分
『尾崎が「俺たちの中をお前らが引き裂こうとしてる」と謎のクレームを言い出した』
「尾崎って人なんですか?」
「ニックネームだよ。尾崎豊の曲にちなんでね」
窓ガラスを割った先輩Bのことを尾崎と呼称している。勿論、友人のネーミングだから僕に不満を持たないで欲しい。
2018年7月25日 13時15分
『今日久々に寝てる時うなされた』
とだけ送られてきて、相槌LINEとして『それ危ないよ』と送ったら、
『シュークリームが夢に登場してきやがったからな。てめーは何もやらずに高みの見物で人を嘲笑う。クソだなー本当に』
シュークリームとは係長のことだ。
いなくなった係長のことをまだ根に持っているらしく、無関係の僕に愚痴ってきていた。
係長がシュークリームと呼ばれるようになった由来は、客がクレームを入れてきて菓子折りをもって謝罪しに行ったことがあった。
課長からお金を渡され菓子折りを買うはずだったのに、なぜか係長はコンビニでシュークリームを購入し、ビニール袋ごと「どうぞ」と渡したそうだ。
当然クレーマーは「これがあなたたちの誠意ですか?」と逆撫でされたと思ったらしい。
そして今日送られてきたLINEに到達した。
2018年7月28日 0時51分
『今日また飲み会でしたー。また地味に説教されましたー。めんどくせーし難しいよな人間関係って』
「江野さん、どう返したらいいかな?」
「相槌LINEでいいんじゃないですか。『マジか』って送っときますね」
フリック入力で勝手に返信する江野さん。
何故か微笑みながら流麗に打ち込んでいる。
「そんなに面白い? 内容のないLINEのやり取り」
素朴な疑問だった。
確かに相談をしていただけで、実際のLINEを見せたのは初めてだった。面白いものではないと思うが、彼女の笑い基準が理解できない。
まだ笑っている江野さんが、僕の携帯を両手に包むように握りしめ、ゆっくりと画面をスクロールし始めた。
「ん?」
すると無言のまま江野さんが画面を見せびらかしてくる。まるで時代劇の印籠をかざすような見せ方だ。
すうっと、僕と友人とのLINEの一部を指さした。
「っ!」
声にもならない悶絶が出そうになる。
大失態をしてしまった。
友人の誘い水LINEなんて見せてもいいだろうと軽んじていたせいで、見せてはいけないやり取りを見られてしまった。
6月のとあるLINEの内容を抜粋。
『色んな支店の人と話できる機会はめったにないからいいけど、超めんどくせーわ』
『だろうね。まあ、都会は自分の価値観や見聞を広めるのには都合が良いよな。色んな人がいるってのは一長一短』
『それはいえてるね。そっちは声優とコンビニのバイトだし、たくさんの人と会えてるもんね』
『そうそう』
『最近の声優界にはアイドル声優ってジャンルがあるんでしょ? 可愛い人と会えてウラヤマ』
『会うことはあるけど、雑談できるだけの時間も余力もないな。オーディションは1人で演技して監督とかに見てもらうことが多いから。コンビニのバイトの方が可愛い人と仲良くなれそうだよ』
『いいなー。こっちは男しかいない業界だからさ。そういえばコンビニで一緒に働いてる女の子に可愛い人がいるんだよね? どんな娘?』
『一言では表せないけど、真面目で人見知りだけど良い娘だよ。自他共に接客が苦手だけど、最近は和やかになってきてるから成長してる。僕としては助かってるし好きな子だな』
『おお! 狙ってる!?』
『まさか。同僚の彼女』
『なんだ。でも、それの方がもえない?』
『昼ドラじゃありません笑』
「これ、わたしのことですよね?」
ニヤリと口元を歪ませる江野さん。
ヤバい。完全に厄介な解釈をされてしまった。このままではバイト先での人間関係がマズいことになる!
「ヤダな江野さん。勘違いしないでよ。本気で言ってるわけじゃないよ、それ」
「浮気相手に言うような台詞やめてもらえます?」
ヤベーマジで面倒な流れになった。
しかも僕のスマホの画面を、江野さんのスマホで写真撮ってるし。
「これ、ユウくんに見せたらどう思いますかね?」
「何が言いたいの」
「わたしの奴隷になってください」
「……」
冷や汗がつぅーと流れた。
背中に不気味な感覚が走り、全身が硬直しどうすればいいのか脳を酷使させる。
「な~んて、冗談です」
緊張した空気を弛緩、というかブチ壊すように江野さんがスマホを返してきた。
「な、なに?」
真意が測れない。これまでの行動と言動に統一感がなさすぎる。
「脅すような真似はしません。ただ、高林さんがわたしのことをそんな風に見てたんだなって関心しただけです」
「関心って、純粋な評価だよ。この現場はラフというか、脱力した人が多いから。それに悪影響されずにちゃんと仕事してるからね」
「いえいえ、そこではなく。わたしのこと可愛いって思ってたんですね。『可愛い人がいるんだよね?』ってご友人が送ってきてるってことは、前からその話はしてたってことですよね? 違います?」
嫌な洞察力だな。
江野さんの見た目は初めて会った時から惹かれてはいた。でも、性格や表情など趣味などを総合すると“彼女”にしたいとは思えない。
でもまあ、彼女の方から申し出があったなら考えなくもないが……現実問題では僕と彼女では不一致な性質が多い。
「話を盛り上げるためだよ。しかも江野さん以外にもレベル高い人、朝番にいるしね」
「ふふ~ん。そんなこと言うんですね」
また不気味な、もしくは意味深な笑みを浮かべている。
「でもこのLINEの履歴をユウくんがみたら勘違いするでしょうね」
「え? さっき冗談って言ってたじゃない?」
「奴隷の箇所だけです。ユウくんには見せます」
「それは困る! 小坂にはこのLINEを見せてないんだ」
焦燥感がさらに増し、大きな声が響いた。
「じゃあどうすればいいか分かりますよね」
「……」
奴隷という表現は冗談でも、僕になにかしら要求してくるのか。脅すような真似はしないってのは冗談の範疇外だったと。
「このあとご飯奢ってください」
「え?」
最悪の事態を想像し過ぎて、あまりにも稚拙な展開になったことに驚いてしまった。
「そ、それだけでいいの?」
「言ったじゃないですか、脅すことはしないって。先月急にオーディションが入ったからって、わたしがシフト変わってあげたじゃないですか。そのお礼をするからって言われてて、タイミング今しかないなって思ったので」
「……ああ、そうか。そうだった。ごめん、すっかり忘れてた」
そのオーディションはおかげさまで受かり、原作の漫画を念入りに読破してたせいか完全に頭の隅からも蒸発していた。
「わたし明日休みなんですけど、夜にレポート書くので朝ならご飯食べて帰っても大丈夫なんですよ」
「そうなんだ。じゃあバイト終わったらファミレスにでも行く?」
「はい。高林さんとならどこでも大丈夫です」
「いや、だから浮気相手に言うような台詞やめてもらえる?」
「でも二人だけでご飯行くのは初めてですよね」
言われてみればそうだった。ご飯行くのは極めて珍しいわけではなかったけど、その時は小坂が同伴してたっけ。
「江野さん、からかうの楽しんでない?」
「どうでしょう。ご飯に行くのは楽しみですよ」
「やれやれ」
暖簾に腕押しって感じだ。
「じゃあこのあと、楽しみにしてますね」
不敵な笑みをむけられて僕は諦めることにした。
もし小坂に暴露されたら予知できない状況になりそうだったからだ。
このあと、僕はたった一食のために五千円も消費することになる。