第一話 氷柱の滴
ポキポキ。
スマートフォンから音色が響く。
僕はパソコンの画面から視線を移してスマートフォンを凝視する。
差出人を確認しようとパスコードを入力し、LINEのアプリケーションを起動する。
相手は予想通りの人物だ。
2017年12月10日 19時50分
『昨日会社の忘年会あったぜー。二日酔いガチできつかったー』
内容はこれだけだ。
これにどうやって返信すれば正解なのだろうか、と刹那に困惑が走った。
僕、高林祐太には小さい悩みがあった。
僕は声優になりたいと夢見て専門学校からプロデビューをし、その後はフリーターを軸にオーディションを受ける日常をやりくりしていた。
声優の世界ではプロとして一人前になれるのは一部の層だけ。そのせいか、どこからプロとして名乗っていいのか不安なところがある。
事務所に所属すればプロとして扱われるのだろうが、普通の社会人とはちょっと違うため煮え切らないところがある。
事務所に所属したというていを取り入れるのなら、プロになって5年が経過したことになり、来年の4月から6年目に差し掛かろうとしている。
大した成果や実感も無く、それどこか続けるかどうかも曖昧だ。
これは僕の問題だから一生をかけて向き合わないといけない悩みだ。というか、使命か宿命というべきか……否、大袈裟すぎる表現だからちょっと違う気がするけど、今はこの話はよしておこう。
小さい悩みというのは、同じ高校を卒業してから関係を共にする今年社会人1年目の友人についてだ。
大学卒業後に物流業界の会社に勤めたらしい。引っ越しもやっている。
本人談では、業界的にも最もブラックに近いブラウン会社らしい。
彼の愚痴を聞く限りでは『ブラックだな』と思ったことは軽く10回は突破している。
1年目の新人社員にやらせるような業務じゃないのに押し付けられたり、ろくに引継ぎや説明もされないなど、新人社員以前に常識を疑うレベルの会社だったようだ。
そして本題が、その愚痴についてだ。
僕にはどうすることもできないのに、会うたび+電話のたび+LINEのたびに仕事の愚痴を浴びせてくる。
コチラで施せる手は、一般的な意見を発しアドバイスをするくらいだ。
彼を守ったり導くほどのゆとりは無い。申し訳ないが、コチラにも生活があるんだから差し伸べる手には限度と限界がある。
彼は会社の寮に入っていて、退職する際は家を探すところから始めなければならない。
僕はそれを知っていたので、会社を辞めたが家が決まらない場合。もしくは、金がないのなら暫し宿を提供し居候をさせてあげることを提案していた。
社会人1年目で辞めるのは抵抗があるらしいが、ブラック会社に常識は通用しない。社畜の足元を見てきて、過労死寸前まで追い込まれる。
僕も似た経験があった。自分の心と価値観を歪められ、己の内奥を枉げる自殺行為は二度としたくない。
その話もしたし、転職を恐れることは無いとも言った。
新しい会社の面接のときに、一年で退職した理由を訊ねられたら素直にありのままを説明すればいいのだから。
今のままなら過労死か自殺か……そこまで往かず死は避けられても、うつ病などの危険性だってある。
しかも彼が在籍する部署の一部には、既にうつ病になった人がいるらしい。
危険性は証明されていて、自分の近未来が投影されたみたいだと本人も認めている。
のはずが、気が付けば在籍して9カ月が過ぎていた。
「……」
困った。愚痴が多いのは解っていたが、最近返信に悩む変なLINEが増えてきている。
19時51分
『それはヤベーな、大丈夫?』
と返信することにした。
当たり障りがない方が良いだろう。
ブラック会社に勤めてから半年が経過した頃から、僕は退職を仄めかす言い回しをしていた。
最初は強めに退職を勧めたが、効果が感じられなかったので時間をかけて説得しようと試みた。
だが、結果は惨敗。何故か友人は年を越す時期まで在籍を許していた。
刺激し過ぎてもダメだ。
巻き込まれても嫌だし、恨まれるのはもっと嫌だ。
僕にできるだけのことを最善策で行い、最良の距離感で見守ることに徹しよう。
逆の立場から考えても、親でもないのに執拗に退職を勧められたら、陰謀を画策しているのではないかと訝しむだろう。
近づき過ぎるのは互いのためにも良くないと判断した。
だが、相手はそんな気持ちなど知る由もなく、無邪気な返信がきた。
19時52分
『夜になって平気になったけど、今日1日ずっと寝てたから損した気分だな笑』
と1分で返信がきた。
『唯一の休みがそうだとなー。飲み会自体はどうだった?』
僕は応対と質問を呈する。
彼が勤めている部署では、飲み会が非常に多いそうで酒癖が悪い人の巣窟なのだそうだ。そのせいで荒れに荒れまくっているらしい。
多くの新人社員が辞めていくのも頷ける。彼もそれを知っているのに、なぜかご丁寧に飲み会に参加していた。
20時3分
『飲み会は俺が早々に潰れたから逆にうまく逃げることが出来た形になったんだよね笑』
ん? 潰れた段階で逃げられていないと思うが……そもそも断る言い訳を見つければいいだけではなかろうか。
その日はこれくらいのやり取りで終わった。
男のLINEなんて簡素なものだ。
それに、この友人とは直接会ったり電話だってしている。わざわざLINEで報告をしなくてもいいし、するとしても話を纏めてから連絡をすればいい。
と僕は思うのだが、こと二人の意識は真逆のようで、毎日のように報告のLINEがやってくる。
しかも一癖あり。僕が興味を持つように扇動めいた誘い水LINEだ。
正直、一度目のやり取りに意味があるようには思えない。
最初に本題を入力していれば、僕の返信も一つ分減少して効率がはかどる。彼はそれが解っていないのだろうか?
それに彼のLINEは会社の愚痴ばかりだ。別の話題をしていても、「話は変わるけど」と急に愚痴に遷移するのは珍しくない。
話を変えるのは良いが、せめてちょっとは関係のある話をしてほしい。もしくは僕が聞いて得する話とかね。
さらにはこんなLINEも。
2017年12月18日 23時43分
『以前にもう少し続けようかなって話したと思うけど、今日1日だけでその考えを覆されてしまった笑』
僕の返信は『辞めたら宿出すから、身を守る選択は大丈夫さ笑』だ。
『あざす。ちょっとガチでお金計算してみよ笑』
というやりとりもあった。
会社を続けようと考えたが、結局退職を考えたと言っているが、このような話は既に5回は越えている。
今月のLINEはこのような感じだった。
さらに次の月も大きな進展はなかったようだ。
2018年1月6日 3時16分
『会社の飲み会でキャバクラ行ってもうた』
キャバクラの帰りかな?
脈絡がなさすぎる。上司がキャバクラ好きだっていう話は聞いたことがあったが、この日初めてのLINEでこれは困る。
勿論、僕の返信は『どやった?』なんて興味ある風を装った当たり障りのない返しだ。
その僕の返信に対する返信が『そんな大したことしなかった笑』だったので、「じゃあ送ってくんな!」と叫んでしまった。
2018年1月17日 19時23分
『今日の仕事はとある理由でやたらおもろかった笑笑』
とある理由をなんで入力しなかったのだろう?
これの返信も『仕事って?』と無駄な返しをさせられる。
特定の上司の悪口を他の人が言っていたことがやたらおもろかったらしい。
2018年1月28日 14時59分
『俺、会社の携帯ポケット入れたまま洗濯しちゃった笑』
知らねーよ笑。
このように誘い水まくってくる。
愚痴を聞いて欲しいのは良いが、せめてもう少し僕の負担をなくして欲しい。
君の会社がブラックなのは知っているし、僕には一切合切関係がない。聞くことはできても、それ以外できることがない。
加えて特定の上司の愚痴が多かった。
直属の上司である係長らしい。
12月から1月だけでなく、2月にも愚痴が止まらないどころか増加していた。
2018年2月7日 19時16分
『係長マジ殺してぇ笑』
このあと係長の愚痴だけで9回はLINEをした。
僕は当然相槌LINEになっていた。
まだ彼の熱は冷めていなかったのか、
2018年2月8日 18時50分
『完璧に俺は係長シンドロームになった笑笑。今そいつがキーボードを打っている音にすらイラっとして休憩室に逃げてきてしまった笑』
もういいわ笑笑
2018年2月13日 20時17時
『今日係長関係ないけど、またネタが発生した笑笑』
係長関係なく知らん笑笑。
ここでも返信は『スゲーな笑笑』とお決まりの返答。
2018年2月21日 20時12時
『係長ぱねーってなることがまた今日も発生した笑笑』
誘い水がぱねー。これにどうやって返信したらいいのか悩む。
さらには係長だけでなく、別の上司である支店長にまで飛び火する。
2018年2月24日 13時2分
『支店長もだいぶクソやなーってことに気づいた』
支店長は不倫をしているらしい。
ただそれが判明しただけで僕に知らせたかったとのことだ。
会社や人間関係の愚痴が多かったこともあり、『3月で辞めないの?』と揺すってみた。
「1年は辞めたくない」なんて言っていたから、もう1年経つことを知らしめるためだ。
13時22分
『5月、6月を目処にするかなーちょうどその時期に貯金が目標額に達する予定だし。結局3月もバタバタするからさー』
引っ越しシーズンの3月だと忙しくて退職どころではないと言いたいのだろう。
よし、もっと揺すろう。
『辞めるのは確定してるクソ会社なのか』
『辞めるのはマジで確定してるよ』
どうやら決意はあるらしい。
5月と6月で愚痴LINEも幕を引くことになると思うと、ちょっと嬉しい。
『絶対早めに辞めるよー。1年目でこんなやらされてたらいつか死ぬわ笑笑』
と念を押してきたことだし、さすがに辞めると思われる。
2018年2月25日 11時2分
『今日は久々に休みや^_^ てか2月休み2回しかなかったんだけど笑笑』
じゃあ辞めればいいのに。
2018年2月26日 7時44分
『朝からさっそく殺意がわいてくる笑笑』
誰にだよ笑笑。
いつものように『どった?』と相槌LINEをしてあげると『係長笑笑』と返信してきた。朝からさっそく一回で内容を送ってこい。
2018年2月28日 21時56時
『今仕事おわた。この時間に終わって早く感じるってヤバくね笑笑』
これで5月まで続けるって言ってるってことは、ボケなのだろうか?
2018年3月4日 15時7分
『試験終わったー』
会社で何かの試験を受けていたらしい。
知らんけど。
挙句の果てには『受かったら辞めようかな笑笑』なんて送ってきた。
受かるも何も今すぐ辞めればいいのに。
2018年3月9日 14時46分
『俺また事故ったー。もう嫌やこの仕事』
今すぐ辞めればいいのに。
なんで僕が『何があった~⁉』と反応してやらないといけないんだ。
2018年3月13日 23時22分
『今仕事終わったぜー笑笑』
知らんわ。深夜まで仕事させられてるなら5月とか言わず辞めなさい。
その日はオーディションもあって疲れていたので『おつかれー』とだけ送った。
2018年3月15日 12時17分
『高林先生! 他人のデスク勝手に荒らす人ってどう思う?』
先生じゃないです。
僕の気持ちも考えずに勝手に誘い水LINEしてくる人ってどう思いますって送りたい。
2018年3月16日 7時14分
『俺辞めたら二度と物流行かない笑』
あっそう。
2018年3月20日 16時7分
『やーっぱり田舎者だなうちの会社ってことが今日あった笑。もうネタだわ笑』
『なになに?』って興味ある風に相槌LINEすんの疲れるだけなんですけど。
『なんか今日から4月上旬まで繁忙期の期間なんだけど、その間だけ現場リーダーは紋章をつけなければいけないんだけどさ、そんなの普段からやれよ笑笑』
え? これだけのためにLINEしてきたの?
なになにって送るために動かした指のカロリー返してください。
2018年3月26日 0時29分
『やっぱ係長クソだなーってことを再認識した日だった笑笑』
……知ってるって。『また何かあったのか笑』って相槌LINEしとこ。
それに対する返信が『もう次会った時に口で話すね笑』だった……ならLINEしてくるなよ。それに『もう』ってなんだよ。コッチの台詞だよ。
2018年3月27日 20時30分
『今仕事終わったー。やべー今終わるのがめっちゃ早く感じるって感覚狂ってるな笑』
あれ? 仕事のタイムカード切ったら僕に教えてって言ったっけ?
さらに、21時19時
『昨日も係長から仕事押し付けられて精神ぐちゃぐちゃになって本当に発狂しかけたからね笑。深呼吸して落ち着いたけど、精神的にも結構きてるよ。今日も超むかつくこといわれたし』
内容を割愛すると、自分は朝の7時に出勤して23時前後に帰宅。なのに係長は朝の9時に出勤して17時に帰宅したとのことだ。
まだ悪態は続く。
『それで役職ついてる分俺らより高い給料貰って、俺たちは残業時間改ざんされて笑笑。マジで辞めてー』
マジで辞めればいいじゃん。
2018年3月28日 16時2分
『やばいわ。今日本当にストレスやばい。精神的に限界きたかもしれない』
やばいわ。今日本当にストレスやばい。このLINEで精神的に限界きたかもしれない。
相槌LINEで『どした?』と相手をしてあげたら、
29日 1時5分
『まあ、話すと長いからまた会った時話すね笑笑。しかし今日飲み会連れてかれてダルかった笑笑。でも女性事務員の人が飲み会で係長のことクズの極みって言ったのはクソ笑った』
……………………勝手にLINEしてきて勝手に話変えた。
2018年3月30日 0時11分
『やっぱり俺、自分の頭フル回転させて考えても、楽してる奴は徹底的に楽して、負担押し付けられてる奴は徹底的に仕事量増えていく会社のシステム理解できない笑。どう納得させようともゆるせねー笑』
2018年3月31日 20時36分
『もう係長マジで死ね、死んでしまえ笑笑』
相槌LINE『また何かあったか笑』と対応してあげる。
『今日繁忙期の慰労会兼ねて、事務のおばちゃんが豚汁作ってくれたんだけどさ、全員出勤してる中、係長1人だけ疲れたからって理由で休んだくせに、豚汁パーティ始まった途端、事務所に顔だしてくるというね笑。しかも豚汁俺に盛れとか言って器渡してきたし笑。てめーが全員分盛れよ。しかもマックのコーラ片手にきやがったからな笑』
明日も早いし寝よう。
僕が寝た後もLINEは届いていた。
『いちいちイライラしてる自分にも嫌になる笑。人生の中で視界に入れる価値もねーからさ笑。クズの極みはマジで吹いた笑』
こうして友人は1年間在籍した。
何故退職しないのか、僕にも理解も納得もできない。
そして、彼の愚痴LINE&誘い水LINEは続いていくのだった。