五井の姫君
「宮様っ!」
ひき丸が狂ヒの残骸を踏まぬようにしながら急いで駆け寄るが、そのまま立ち尽くしてしまった。
わらびも橘宮を覗き込むが、奇怪な光景に立ち止まる。
女人をかばうように倒れ伏した橘宮は黒い泥にまみれている。泥は生きているように波打っていた。助け起こしていいのかもわからない。
女人は白い襁褓に包まれた赤ん坊を腕に抱いていた。どちらも血の気が失せている。
「宮様、大丈夫なのかな」
夢とも現実ともつかない心地の中で隣の少年に尋ねれば、ひき丸は深刻そうに黙り込んでいる。
「この女たちも無事なのかな。ねえ、ひき丸」
ひき丸はおもむろに己の太刀を地に突き刺すかのように構えた。切っ先は、橘宮の胸にある。刃先ががたがたと震えている。それどころか、ひき丸の全身まで。
「何をしようとしているの」
「宮様をお救いする。わらびはここから走って邸にいる者たちを呼んできてくれ」
あとは俺がやるから。
ひき丸の言葉には悲壮な決意が滲み出ている。心の奥がざらついた。ひき丸をこのままひとりにしておけない。
「救うって何をするの」
「わらびは気にするな。俺に回ってきた役目だろうから」
「ひき丸」
太刀を握る、汗ばんだ手を上から触れて、切っ先を橘宮から離させる。
「変だよ。いつもなら一緒についてきて、道を教えてくれるでしょ? そうすれば早く着けるんだよ。どうして今はそうしないの」
それは、と言いかけたひき丸は諦めたように息を吐く。
「宮様の宝珠を見ろ。右手の近くに転がってるだろ」
小さな玻璃の珠が、言ったとおりに柔らかな草地の上に落ちている。あの朝焼けの光はどこにもない。
「背中に傷を負い、狂ヒの穢れに触れたからああなったんだ。宝珠は天人が生まれ持つものだから、身体から離れることはまずない。――宝珠が力を失わない限りは」
天人の宝珠は、清浄すぎる天人の心身を周囲の穢れから守る役割も果たしているという。宝珠が失われれば、天人は穢れにむしばまれる。
「穢れにむしばまれた天人は、自身が強い穢れと化す。昔の宮中でも何度かそういうことがあって、天人に仕える侍は主人から命じられるんだ。……穢れた天人は、すみやかに極楽浄土へお返しして、お救いするように、と」
宮様もご存知だ、とひき丸は付けくわえた。
「宮様にお仕えする者は俺以外にもいるが……どうして俺に回ってくるかなあ」
「どうにかならないの」
「無理だ。都から離れた山の中では助けられない。ほら、聞かない方がよかっただろ?」
明るく言おうとして失敗した顔を眺めながら、わらびは「なんとかならないのかな」と思った。
できるような気がするのだ。『おぼろの桃園』へ入ろうとして、山神さまにお願いしたように。
わらびは橘宮の宝珠を取り上げた。小振りだが奇麗だ。穢れているということはないのに。
「ん」
触れているうちに気付いた。……温かい。なんだ、まだ生きている(・・・・・・・)じゃないか。
わらびは花のように微笑んで、唱えた。
『……我が御息は神の御息』
ひき丸が驚愕の顔になる。
『神の御息は我が御息』
玉の中心に小さな光が灯る。朝焼けのような光がだんだんと燃えてきて。
『穢れたる者、極楽浄土に至りて泥中の蓮とならん』
光は宝珠を包む黄金の炎になる。わらびの右掌の上で、蓮の花が咲き、その上に宝珠が浮かぶ。
『我が御息は神の御息なり。……散華せよ』
燃え盛る炎が辺りに飛び散った。地面に落ちて黒ずんでいた狂ヒの残骸や、それを浴びた橘宮にも、動かなくなった姫君と赤子にも、わけへだてなく、飛び散った炎は花びらのように優しく落ちた。
泥のようになった狂ヒの残骸は跡形もなく消えた。
「はい、宮様のだから、返すね」
最後に橘宮の掌に宝珠を握らせる。光はすうっと弱くなり、消えた。元の山中に戻る。
暗く静まり返った中で、はじめにぎゃあぎゃあと赤子の鳴き声が響いた。
それをきっかけに、橘宮がふと瞬きをして、起き上がった。背中の傷に顔をしかめつつも、心配そうに己を眺めるひき丸を見るや、いつもの笑みを浮かべる。
「宮様、よろしゅうございました……! このひき丸は、本当に心配いたしました!」
「うむ」
橘宮はひとつ頷いて、己の腕の中を見た。
「済子。……目覚めてはくれぬか」
乱れた長い黒髪を避けてやり、橘宮は女人の面を眺めているようだった。
「もっと早く迎えにいってやればよかった」
人目もはばからず、橘宮は泣きじゃくった。
宮様、とそこへ割り込む素朴な声。視線を下ろした先で見たのは、泣きつかれて眠る赤子の頬をつつくわらびだった。何を食ったのか、口が動いている。
「その女、生きてるよ」
わらびの言葉どおり、姫君の睫毛がぴくぴくと動いた。ぽっかりと目が開く。
しばらくはぼうっとした様子であったが、ふと目の奥に意志が戻り、橘宮と目が合った。
「済子」
橘宮が万感の思いを込めて名を呼んだ。親しい者しか呼ばない本当の名を。
橘宮は女人を抱きしめようとした。すると、姫君の顔が……凍り付いた。
「いやあぁっ! やめて、やめてやめてやめてぇ……! 来ないでぇ……!」
――姫君が悲鳴を上げた。
いったい、どうしたのだろう。
ひき丸は叫び続ける姫君に驚愕した。
何の前触れもなかった。ただ、橘宮の顔を見た途端に、人が変わったように暴れ出している。
橘宮は哀しそうに顔を歪めた。まるで途方に暮れた子どものようだ。抱きしめようとした手も離し、済子、もういいのだ、と言い募る。
「だいじょうぶだよ」
二人の間に小さな影が飛び込んだ。肩で黒髪を切りそろえた少女が、姫君の手を握り、その目をじっと見つめて、言っていた。
「こわいものはもうないよ。……だれもあなたにひどいことなんてしないんだよ」
不思議なことに、わらびの声を聞いた姫君は途端におとなしくなった。
わらびは花のような笑みを浮かべ、うん、とひとつ頷いた。
そして。
――ぐごおおおおおおおおぅ。
少女は腹から天にも昇る怪音を立てながら、地面にひっくり返ったのである。
ひき丸は血相を変えた。わらびは水精しか食べられないのに、今手元にそれがないのだ。あれがなければ、きっと死んでしまう。
どうしようと慌てて周囲を見回すと。
――ここだよ。
そう言いたげに光る水精が、狂ヒのいた地面に落ちていたのだった。
姫君は、橘宮の邸に寝かされた。錯乱した様子だったが人目から隠すように几帳で囲めばようやく落ち着き、寝入ったとのことだ。
橘宮は忙しいらしい。帰邸後はあちらこちらへ使いを送り、いろんな客人と面会しているようだ。
今朝もまた、橘宮と面会したとおぼしき男が朝日を眩しそうにしながら外へ出ていった。
三日ほど邸に留まっていたわらびが呼び出されたのはそのあとだった。主人の御座所でもあったそこには、すでにひき丸の姿もあった。
「此度の件がようやく片付きそうだ」
疲れの滲んだ秀麗な顔つきがそう切り出した。
「いろいろと思うところがあるだろうが、礼を言う。そなたたちのおかげで最悪なことにならずに済んだ。特にわらび」
橘宮がわらびを見る。
「そなたがいなければ、わしは今度こそとりかえしのつかぬこととなっていただろう。この恩は返しても返しきれぬであろう」
「わらびはとくに何もいらないよ」
「そなたはいつもわしを困らせる返答ばかりだね」
乾いた笑いを浮かべる橘宮。心配そうに奥に立てた几帳を何度も見ている。
「そこに何かあるの」
「あ、いや」
主人は言葉を濁す。そこへ「お話しいたしましょう」と声が響く。
几帳の陰から卯の花色の衣がこぼれ、ひとりの女人が姿を現す。扇で面を隠さず、白粉も付けていない。生まれたままの素顔を晒していた。
「わたくしは世間で五井の姫君と呼ばれている者です。本名は済子。今回のことではあなたがたにも多くの迷惑をかけてしまいましたね。申し訳なく思っています」
低めの声ではきはきと話す姫君。
赤茶けたちぢれ髪に、浅黒くところどころ痘痕のある肌、しっかりと肉のついた頬、小さい目。色男の橘宮が忘れられない相手にしては、凡庸な容姿。五井の姫君とはそういう人だった。
「今回は、わたくしから宮様にお願いして呼び出しました。あなたがたを危ない目に遭わせておきながら、何の事情も話さないままでは納得もできないでしょう。ただ、これから話すことは他言無用です。世間へ表沙汰にならないことですから」
聞いていたひき丸の顔がひきしまる。
「表沙汰にならない」という言い方はまるで漏らしたところで潰されてしまうのだと言いたげだった。
「宮様と引き離された後、父の命でわたくしは玄家に仕える家司の息子と結婚したのですが、結局、うまくいっておりませんでした」
家同士の政略結婚だった。しかも、相手方では当初、美人の評判があった姫君の妹と結婚する心づもりだったから、妹が死んで代わりに姉が差し出された時の落胆がひどかった。
「夫はほどなく恋人を作り、そこに入り浸るようになりました。わたくしとしても気持ちはなかったので、さして不満はありませんでしたが。父が亡くなってから状況が変わりました」
亡き父の財産を受け継いだ彼女につけ込んで、夫は好き勝手に妻の財産をむしりとった。邸宅も荘園も、家人たちもぜんぶ取られた。夫は平気な顔をして、妻の邸宅に女を連れ込んだ。
「黙っておれず、当時の鹿毛家の氏長者でいらっしゃった夜明公に訴えようとしましたが、夫は何度も力ずくで言うことを聞かせようとしてきたのです」
姫君が袖をまくりあげた。滑らかなはずの肌には小さなやけどの痕や黒痣が点々とついているのだ。
橘宮が痛ましげに目を伏せた。
「わたくしの周囲にいたのは夫の息がかかった者だけでした。頼れる家族もいないわたくしはだれかに助けを求められません。……たとえ宮様でも。別れはわたくしから告げたのですから」
橘宮は静かに「だから心配していたのだよ」と呟く。
「近頃、夫はますますわたくしを邪魔に思うようになっていたようです。国司赴任を機にわたくしを殺すつもりだったようです」
「最近、なにかあったの?」
わらびの問いに、姫君は頷いた。
「夫をそそのかす者がいたようです」
「だれ」
「わかりません。ただ女人のようです。酔った時に言っておりました。『殺してくれなくては一緒になれない、と言われた』と」
眉間に皺を寄せる姫君は続きを話し出す。
あの日はよくわからないまま粗末な牛車に乗せられた。
赴任地へ行くというわりに、夫の同乗もなければ、大荷物を持っていく様子がなかったから、不審に思っていたという。
同乗したのは赤子の世話に必要な乳母ではなく、にたにたと笑う女房ひとり。夫に取り入るためには何でもやると評判の女だ。
「夜になり、疲れて眠っている間に牛車ごと山の中に置き去りにされていたようです。……狂ヒは」
姫君は思い出したのか、自分を抱きしめるようにして、カタカタ震えた。
橘宮は手を伸ばそうとした。なのに、やめてしまう。
「あれには、知恵がありました。わたくしを散々怖がらせ、弱らせてからじっくりと殺そうとしたようです」
「どういうことでしょう」
じっと聞いていたひき丸が声を上げる。
「狂ヒは本能だけで襲い掛かってくるものです。ねぶるような食い方をするとは聞いたことがありません」
「そうとしか言いようがないのだ、ひき丸」
橘宮が口を挟む。
「だがおかしなことではない。あの狂ヒは特別なのだ……」
見た者ならだれもが疑問に感じたであろう、あの狂ヒの顔。まるで人のように反応し、涙を流していた。
わらびが切り込んだ。
「宮様に、そっくりだったね」
そうかい、と橘宮は曖昧に笑う。
「わしの顔は、父上にとてもよく似ているのだよ」
この対面において、五井の姫君はずっと面をわらびたちへ向けていた。一度たりとも、橘宮を見なかった。
それでも橘宮は気にするそぶりも見せず、「我々が来るまで時間を稼げたのは、桃の花のおかげでもあったようなのだ」と話す。
橘宮が袂から小さな布袋を出して、中身を出す。そこには黒ずんだ花びらが。
「桃は破邪の力がある。花びらにもその力が宿っていたということだ。少しだけ、隠し持っていたらしい」
「宮様からいただいたものですから。……あの時は傍に女房もいましたから、ああするほかなかったのです」
――頼ってはいけないと思いながらも、宮様の心が嬉しくて。わたくしの意思を伝えたかったのです。
最後に姫君が話を終えた。
「わたくしはとても運がよかった。あの時、宮様が花を送ってくださらなかったら。そして追いかけてきてくださらなかったら。ひとつでもたがえていたら、ここにわたくしとあの子がいることもありませんでした。
わらび。貴方がこの命を拾ってくれたようなものなのです」
あかざりし、桃の花。千代までかざせよ、桃の花。
愛する人との合言葉を口に出し、姫君は優しげな微笑みを浮かべていた。