別れの笛
夜の宇津田宮では今宵も天上の調べが響き渡る。少年が琵琶をかき鳴らし、少女はその上にそっと龍笛の旋律を添わせる。
瓦屋根に座した童子は彼らの演奏に耳を傾けた。――音色ばかりは昔と同じなのに、今とはあまりに遠く隔たってしまった。
帝と女東宮もああやって心を通わせたものだった。人の知らぬ間にひそやかに育まれた情は、二人の強固な結びつきとなった。
童子は彼らの楽の音が聞きたくて、何度もこの屋根に降り立ったものだ。
ふいに、童子は立ち上がる。剣の衣ががしゃりと鳴る。童子は宇津田宮と他の殿舎を繋ぐ渡殿を睨む。
「……来たな」
彼には黒の衣をまとった青年が暗い顔つきで宇津田宮に入っていったのが見えていた。
「帝が今宵、いらっしゃるとのことです」
御簾向こうに端座した三郎君が苦み走った顔で告げて来た。
「へ……?」
わらびは龍笛の唄口から唇を離した。
――帝。帝ってだれだっけ。
「……おめでとうございます、あさひ姫様!」
素早く御簾の外に出ていたひき丸の大きな声で目が醒めた。静かに控えていた、ふつとくまのも急に慌てたようにばたばたと動き出す。
今のわらびは『あさひ姫』で、帝の妃のひとりだ。帝が伴侶の元に尋ねてくるのは何もおかしなことではない。
だが今さらなんだというのだろう。帝はあさひ姫を「見初めた」とかで妃にしたというが、帝はさしてあさひ姫に関心を払ってこなかったし、訪ねもしてこなかったはずなのだが。
「とにかく、そういうことですので。まもなく到着されます」
「はあ……」
わらびのうすらぼんやりとした返事には構わず、三郎君はさっさと腰を上げて、濡れ縁の端の方へ座り直した。
「わらび! ちゃんと失礼のないようにね!」
焦りのあまり、ふつも以前と同じ口調でわらびに注意を促してきた。わらびは、うん、と頷いておいた。
まもなく。スタスタスタ、と軽快な足音がして、躊躇なく御簾が巻き上げられた。
わらびが見上げた先には、にっこりと笑う秀麗な顔。たしかに一瞬、わらびは「帝《自分》」だと思った。しかし、なんだろう。『違う顔に見える』。
本物の今上帝は、今、わらびとしてこの場にいる。相手が偽物なのは明らかなのだが、それにしたって、どうしてだれにもばれないのかわからない。全然、違うではないか。
「ようやく会えたな、あさひ!」
本物とは違う、朗らかな振る舞い。
彼はつい先日、桜の上という最愛の妃を亡くしているはずなのだが、その悲哀は微塵も感じさせなかった。
わらびは容姿こそ極上の姫君だが、中身はいつもの素朴なわらびのままだったので、変に緊張することも、己を飾り立てることもしなかった。
ただただ素直に。
「だれ」
と、短く疑問を口にした。
瞬時に表情が固まる偽帝。不思議と周囲の音も止んだようだ。夜の静寂が寒さとともに場を支配する。
「……はっはっは!」
相手の男は気を取り直したように笑いだした。
「そうだな。ここまであなたを放っておいた私にも責任がある。顔を覚えられていないのももっともだ。いや、すまなかった!」
帝はわらびの両手を掴む。いささか強引な仕草にわらびの眉間に皺が寄る。なんだか触られるのが嫌だったのだ。
「やめて」
「おお、すまなんだ!」
大げさに偽帝は言いながら、ぱっと手を離してみせる。
「だが機嫌を直しておくれ。そなたの元へ会いにいけなかったのにも、非常に深いわけがある」
わらびがちらと男を見れば、にかりと笑われ、近くに控えていた三郎君を指し示した。
「三郎めがいちいち理由をつけては宇津田宮に来させないようにするのだ。まだ処理していない奏上がございますだの、なんとか言うのだよ? 元々が哀れな男だから、見苦しい嫉妬に気まぐれに付き合ってやっていたのだが、さすがにもうよかろうと思ってなあ」
「……主上」
感情を押し殺したような三郎君の声が、しんしんと今も降る雪にも染みわたるように響く。
偽帝は虫けらを見るような眼をした。
「……恐れながら」
ひき丸が頭を下げたまま、帝の前にいざり寄る。
「今宵はちょうど、あさひ姫は笛の練習をしていたところでございます。主上にも練習の成果をぜひご覧いただきたく」
「だれだ、そなたは」
「ただこの場に居合わせただけのつまらない者でございます。……主上も楽が得意とされていると伺っています。姫様の音と添わせてみせるのも、暗い冬には一興でございましょう」
「なるほど。面白い趣向だ」
偽帝は鷹揚に頷いた。すぐに三郎君に己の笛を持ってこさせ、即席の演奏会が宇津田宮で行われることになった。
偽帝が持った黒光りする笛にわらびの目は釘付けとなった。
あれは……。
「これは『吉祥』という。天下に名だたる名物のひとつ」
偽帝は自慢げに言うのだが、わらびには聞こえていなかった。
ほんのか細い、幼子のような泣き声が、笛に触れる手つきが変わるたびに聞こえてくる。男の手が黒々とした靄をまとっているように視えた。
――なんだ、あれは。
わらびは己の手にある龍笛を見た。元はひき丸が用意した龍笛で真新しいものだ。おそらくは橘宮の倉から持ち出したのだろうが、ごく普通の龍笛である。
「これがかの誉れ高き『吉祥』なのですね。主上、あつかましいこととは存じますが、ぜひその笛の音をお聞きしとうございます」
ひき丸は大胆にも帝にそう話しかけている。あれが偽物だと知っているのに、笛の合奏を提案し、笛の音をねだり、妙にへりくだった態度を取っている。
なぜ。
なぜ……。
「構わぬよ」
帝は上機嫌に唄口を口元に持っていき、息を吸いこむ。
けれども、笛は鳴らなかった。しかし、帝の両手の指はぱらぱらと動く。
――ややあって、帝は満足そうに笛から口を離した。
「なかなか良き音色であろう?」
「……はい」
だれかが何かを言う前に、三郎君が深々と頭を下げた。
「極楽かと思うほどに澄んだ音にございました」
「そうであろう、そうであろう」
「わらびには何も聞こえなかったよ」
「ははははは、あさひよ、面白いことを言う」
わらびの素直な感想にも、帝は笑い飛ばすだけだった。
この場にいるだれもが笛の音を聞けていないというのに、帝だけにはその妙なる調べが聞こえているらしい。そして他のだれもが耳にしたと「信じ込んでいる」。
「あさひ姫」
ふとひき丸がわらびを呼んだ。
「せっかく磨いた腕を帝に披露して差し上げてはいかがでしょう。あさひ姫の笛の腕は、たとえるならば真澄鏡。音色の清らかさにより、その笛の音を耳にしたものは、己の本性を隠しきれなくなるほどです。自信をお持ちになるべきです」
「ほう。それは俄然楽しみになってくるぞ」
「帝もよろしければ合奏を」
「ふむ」
勝手に話を進めるひき丸に釈然としない思いになるが。……わらびはひき丸を信じているから、笛を構えた。
滑り出しは風に舞う羽に吹きかけるように柔らかい息を吹き込む。
曲名はない。思いつくままに奏でていく。心は籠めた。
今目の前にいる帝のためではない。わらび自身のためでもない。しいて言うなら、ひき丸のためだ。そもそもひき丸がわらびに笛を吹かせようとしていたのだから、初めから最後までわらびが笛を取るのはひき丸のためでしかない。
いつしか、わらびは自らの演奏に夢中になっていた。
ひき丸と帝の声が遠くから流れてくる。
「恐れながら、主上。楽の音は神仏へ奉納され、祝い事を寿ぐためのものではございますが、もうひとつ、別の役割がございます」
「聞かせてみよ」
「鎮魂でございます。死した荒ぶる魂を慰め、天にお返しする。そのために楽の音も使われます。楽の音は、鎮魂の場を作り、死した魂を呼び寄せ、その無念を御慰めするのですよ」
「ほう」
「話は少し飛びますが、夏の菩提講もそうした鎮魂の場でございました。ふとした時にありし日の菩提講に迷い込んだこともありましたが、あそこではかつての夜明公の鎧の力を借りてもなお、『欠片』しか捕らえることができませんでした。雷公の怨霊……その本体は別のところにあったのです。何者かの手によりかの怨霊はとうに宮中の奥深くに入り込んでいたのですから」
「はははは。何とも物騒なことを言う。……ところで、そなた、その太刀はなんだね」
わらびの意識はにわかに覚醒した。ぼやけた視界が、太刀を抜いて振り下ろさんとするひき丸と、ひき丸を睨む偽帝の姿を映し出す。
「わらびっ、演奏を止めるなっ!」
おろそかになった指がまた動き出す。
わらびの目にははっきりと視えた。
偽帝の姿が、いまやはっきりと変わっていることに。
優美さなどまったくないぎょろついた赤い眼に、青白い肌、みるみるうちに伸びていく爪。口元は裂け、怒りで逆立った髭と眉毛。
『狂ヒ』のようであり、そうでもない、人と『狂ヒ』の間の化け物。それが今やどったんばったんと床が転げまわっているのだ。
「雷公! かつて朝廷に仇なし倒れた、東方の偽帝よ! 鬼の道具と成り果て、ふたたび世を乱した罪は、これ深く! 覚悟せよ!」
ひき丸が偽帝へ太刀を振り下ろす。ぶつりと肉と骨が絶たれる音が聞こえるような気がした。
ごろん、と首が転がった。化け物から上げた血しぶきが宇津田宮を赤色に染め上げた。
そう、思った。
「……え?」
わらびはごしごしと目をこする。……血はなかった。
それどころか偽帝はおらず、持ち主を失った『吉祥』が無造作に転がっている。三郎君は伏した姿勢で顔を蒼褪めさせており、宇津田宮にいた人々は悲鳴を上げて泣き叫んでいる。
「ひき丸……。ひき丸……?」
わらびは四つん這いになりながら相棒を呼んだ。見渡してもいないから、外へ這いずる。
外は一面が雪だった。まだ、降り続けている。このまま雪にすべてが塗りつぶされて、世界が滅びるかと思うほどに。
ひき丸の姿は暗がりにある松の下にあった。抜き身の太刀を握りしめながら、夜闇の向こうを眺めていた。
「ひき丸」
「おう」
ひき丸は返事をしても、振り返ってくれなかった。
「どうしてそんなに寒いところにいるの。こっちに来てよ」
「ごめんな、それは無理だ」
「どうして?」
「ここでの俺の役割は終わったからなあ。やれやれ、もう疲れたから休もうってわけさ」
「どういうこと?」
「わらびは疑問ばかりだなあ」
ひき丸がちょっと笑う気配がした。
「俺がやるべきことは女東宮様の復讐だ。女東宮様を陥れた桜の上と青竹が死に、女東宮様から愛しい男を奪った偽帝の正体を暴いて退治した。俺はそもそも女東宮様の『影』だから、これ以上は役不足だ。他にふさわしい者がいるし、そいつを宇津田宮に連れてくる役目も果たすこともできた……わらび、俺からの一生に唯一、一度だけの願いなら、聞いてくれるか?」
「なに」
「この世を救ってくれ」
少年はきっぱりと告げた。
「ひき丸」
「今のままだと、この世に先がないんだとさ。それだと女東宮様が悲しむ。俺も嫌だし、おまえもなんだかんだ言って、ここが嫌いじゃないだろう?」
「だったらひき丸も傍にいて」
「残念ながら俺には時がないんだ」
そういうひき丸の姿は先ほどよりもずいぶんと儚げに見えた。このまま雪に溶けて消えてしまいそうな……。
「この先は、ひとりで進むんだ。世を壊そうとする鬼を引きずり出してやれ。それができるのは、おまえの持つ宝珠しかない」
ひき丸は己の胸を指さしてみせた。
「泣くなよ、わらび。その涙、俺はもう拭いてやれないからな」
わらびは己が泣いていることに気付いた。ちっとも止まってくれる気配がない。
ひき丸もごしごしと自分の目元を拭うが、それでも晴れ晴れとわらびに笑いかけた。
「わらび。後世で逢おうぜ」
――わらびが目を瞑って開いた時。そこにひき丸はいなかった。
大晦日。大祓がもう目前に迫っていた。




