今上の巫女
久世鏡という宝物がある。
日頃は宮中の奥深くで祀られており、大晦日に行う大祓の後、帝の手により外へ持ち出されることとなっている。
この時、鏡の面は真っ黒にすすけているというが、年が改まってすぐの日の出を浴びると、鏡面は澄み渡り、この世のすべてを映し出す。これにより映し出された世は『真』となる。前年に起こった過ちも穢れも『真』となる。やり直しが利かないということになり、たとえ本来は清らかなものでも、前年の穢れが落ちなければ、穢れた状態が『真』、すなわち本性だと固定されてしまう。まず覆らない。
もし、穢れた世が『真』だと定められれば、本来清らかなものが世の『偽』になる。天人が『偽』となり果てれば――久世は滅びるほかない。
『儚く年があらたまる』などという言葉もこの久世鏡あっての言い方なのである。
――そもそも、この久世とは、《救世》。地獄の中にあって、衆生を救うためにある世界でございます。地獄で苦しみに喘ぐ亡者たちを極楽浄土へ導くため、世尊大君がほんの一本だけ垂らした救いの糸でありました。
久世に生きる者は生前に罪を犯し、畜生に堕ちた者たちでございます。わたくしたち天人の持つ宝珠により人に化けることができるようになりました。化人という呼称もそこに由来しております。
では天人は、と申しますと、元は世尊大君が地獄へ投げ落とされた宝珠でありました。宝珠が人の姿を取ったもの、これが天人であるのです。地獄にあって、天人はゆっくり、ゆっくり、と地獄を清め、久世という世界を創り出しました。その世にあって、化人たちは何度も何度も生まれ変わり、徳を積み、極楽往生を目指すのです。
しかし、これを気に入らぬのは、地獄の鬼でございます。天人が自分たちの領域を奪い、横から罰するべき罪人たちを掠め取っていく恰好になるのですから、久世というものは邪魔でございました。そこで鬼どもは久世を監視し、少しずつ久世を壊せるように干渉してゆきました。古来の戦乱も、鬼どもの仕業であったことが幾度もございます。
狂ヒも、元は地獄の亡者が姿を変えたものに過ぎませぬ。むしろ、あれこそが化人の正しい姿やもしれませぬ。
――主上。今となっては、先見の才を持っても、未来がまったく視えぬのです。ふつりと糸が切れたように、真っ暗なのです。これはわたくしの先が長くないからかと思っておりましたが、近ごろの様子を見ますと、そうでもないようでございます。近い未来に、鬼どもの気配が色濃く感じられて仕方ないのです。どうか、お気をつけて。
目の醒めるような白い髪が、さらさらと流れて。
――わが背の君。後世でお逢いいたしましょう。
面影を掴むことなく、消えていった。
後宮の殿舎のうちのひとつ、冬の宇津田宮。主殿の畳の上には、琴、琵琶、龍笛、笙、篳篥など、多様な楽器が扇状に並べられていた。
扇の要に当たる場所にいるのは成人を迎えてさほど経たぬ若い女人である。紅の袿が目に眩しい女人は、いっそ神々しいほどに美しく……はあったが、眉間に皺を寄せ、唇をへにゃりと曲げていたので、年端の行かぬ童女にも見えた。
世の中の人に「これが宇津田宮の主、あさひ姫である」と告げても、何か納得がいかない顔をされるに違いない。
「おい。眺めていても何も進まないぞ」
あさひ姫の傍らでため息交じりに苦言を呈したのは、侍姿の青年、ひき丸である。胡坐をかいた膝をぽんと叩き、楽器たちを指し示す。
「今のおまえは『あさひ姫』なんだ。ぼろが出ないよう、何かしら楽器を弾けるようになっておかないと」
『あさひ姫』は帝の妃である。女人としてこの上もない名誉ある地位なのだ。
ただわらび自身として己のあずかり知らぬうちになっていた身の上であり、正直捨ててしまえばいいんじゃないかと思わないでもない。ひき丸を初め、宇津田宮に仕えるわずかな人びとが『ぽんこつあさひ姫』をどうにかまともな姫君に見せかけようと苦心しているのである。
「ぼろが出ないように、と言うけれど。元々ぼろぼろだもん」
「開き直るな」
「だったら、えらそうにしてるひき丸は、何かできるの。ひき丸がやるんだったらわらびもやるよ」
ふふん、となぜか胸を張るわらび。
「なんつー、わがまま姫なんだ……」
ひき丸は額に手を当て、おおげさに天を仰ぐ。おもむろにある楽器に手を伸ばす。
「俺自身ができるというわけでもないが。……いいか、前言撤回はなしだぞ」
びしっと、撥でわらびを指し示したひき丸はすうっと息を吸い。
その楽器の弦に撥を当てた。
束の間、わらびは呼吸を忘れた。
――すごい。
琵琶の良し悪しなどわからないが、撥が滑らかに動き、深い音が心に染み入るように響き渡る。音色の世界にここまで感動するとは思わなかった。
「奇麗だね」
琵琶から手を離したひき丸に、わらびはうきうきしながら言った。
ひき丸は頬をちょっと赤くしてつんけんと、
「俺はやったぞ。次はわらびの番だぞ」
「聞くだけはだめ?」
「だめだ。これでも後がつかえているんだぞ? 楽器を決めたら、宮様に稽古をつけてもらう予定なんだ。あと四半時で選べ」
選ぶまで俺は帰らねえ、とこのまま居座りそうな青年に、わらびも折れた。選ぶだけなら選んでやろうではないか。上手くできるかは保障しないけれど。
「お、龍笛か。さすがだな」
「さすがって?」
「宮様曰く、英雄の楽器なんだとさ。ちなみに宮様がもっとも得意とされる楽器でもある」
「へー」
後半はまったくいらない情報であった。
「初心者だと一月ぐらいは鳴らせないこともあるそうだぜ? 挑戦だな! ……お、構え方がわかっているじゃないか」
なんとなく楽器を構えたわらびに、ひき丸が感心した様子を見せる。
わらびはこうだろう、というふうに笛へ息を吹きかけてみた。
――ピィー。
鳴る。鳴った。
わらびは既視感を覚えた。もしかしてこれは……。指が勝手に動き出す。自由自在に、まるで魂が覚えているかのごとく、名前も知らない曲を弾く。
――あ、そうか。帝が得意な楽器なのか。
つい先日わかったことであるが、わらびは帝だった。記憶をすべて思い出したわけでもないが、帝だったことは思い出した。帝ができたことは、わらびにもできることらしい。
拍子抜けなのは、過去を思い出したところでわらびはわらびだったということで、わらびが帝に戻ったわけでもなかった。
わらびは少し成長した姿になっていたものの、ひき丸とのやりとりは以前のままだし、今の状態になってから『偽物の帝』に会ったこともないので、何か変わったという自覚はない。――まあ、偽物の帝が誰か、ということもよく知らないが。
『今上帝の宝珠は、鬼どもにより砕かれ散ったのだ。宝珠を奪われれば、天人は天人にあらず、消えゆくのみ』
剣の衣をまとった童子――不知と名乗っていた者は、つい先日の夜に現れた時、『わらび』のことを語った。
『今上はやむなく禁忌を犯さねばならなかった。天人に禁じられた肉食を行い、畜生の皮を借りた。今上は深い眠りに落ち、砕けた宝珠を集めるため、何も知らない無垢な化人が目覚めた。『わらび』とは元々、帝の分身であったのだ』
そう言われたところで、わらびは何の感慨も抱かなかった。前から、普通の化人とはなんか違うな、とは感じていたし、元々うっすらあった疑念が、そのまま真実だったと告げられただけのことだ。
『わらびは宝珠の欠片を集めたよ。だけど、帝は表に戻ってこなかった。わらびに宝珠だけ託してどこかに行っちゃった』
『今上も、容易く久世に戻ってこられるわけではない。今もわらびの中で傷を癒しておられる。今上の半身でいらっしゃった巫女もいなくなってしまったからだ』
『巫女?』
『……女東宮と呼ばれていた御方が、巫女として今上をお守りしていたのだ。千里眼を持つ今上、先見ができる女東宮。表が今上であれば、裏は女東宮。ひそやかに、互いに互いを支えとしておられた』
『それなら』
帝にとって、女東宮という女は。
わらびはすとんと納得してしまった。わらびの目がじんわりと熱くなる。知らぬうちに、はらはらと零れ落ちるものがある。
『わらびが逢いたかった人は、もう久世にはいなかったんだね……』
もう立っていられなかった。
胸に灯る希望の火が容赦なくかき消され、どうしたらいいのかわからなくなった。
帝にとって大事な人であったように、何もなかったわらびにとって、『逢いたい人』はわらびの目的だった。生きるために必要で、胸の中で燦然と輝く宝物であった。
『女東宮もまた、鬼によって命を奪われた。策を弄して、女東宮に醜聞の濡れ衣を着せて心を弱らせた。最後は偽物の手紙で外出させ、そのまま牛車ごと、荒れ狂う川へ落とした。半身の女東宮がいなくなれば、今上が『落ちる』のも必定である。わらび、おまえがすべきは』
『いやだ。聞きたくないよ』
わらびは耳を塞いだ。
『世を救うとか、よく知らない。鬼が何しようが知らないよ。もう、女東宮もいないのに。……何のために救わなければならないの?』
おい、わらび。おい……おい。
「ん? どうしたの、ひき丸」
わらびが意識を戻すと、ひき丸の顔がすぐ目の前にあった。そうだった、今は楽器の稽古をしろ、と言われるところだった。わらびは、ごめんね、と言わんばかりに、ひょろろ~と笛を鳴らしてみせる。
「いい。わかった。おまえに楽器の特訓が必要でないことはしっかり理解した。ならば次は合奏の稽古をしよう。耳を澄ませて、俺が出す音に合わせるように吹いてみるんだ」
「それもやらなくちゃだめなこと?」
「そうだ。……いつ、帝がお見えになるかわからないからな」
帝なんて来なくていい。
わらびが心からそう言うのだが、ひき丸はきっぱりと首を振る。
「人にはそれぞれ役目がある。俺ができるのは、おまえの行く道を示してやることだ」
「女東宮のために?」
「俺のためでもある。……俺の『運命』だからな」
ひき丸が隣にいればそれでいいのに。わらびは何も言えなくなって、そっと龍笛の唄口に息を吹き込んだ。




