玉の緒よ
人の気配が遠くなる。人の熱もなくなった今、板敷の床から冷えた空気が立ち昇っている気がする。
「こちらへ」
あさひ姫が手招きする。言われるがままにひき丸はあさひ姫の御座所に足を踏み入れた。
すとんと畳の上に腰を下ろしたあさひ姫はひき丸へすぐ正面に座るように申し付けた後、空手を差し出した。
「持ってきているものを出してみなさい」
ひき丸はどうしてわかったのだろうと驚きながらも、持ってきた荷物を包んだ布を解く。絵を描く道具の他に、あるものを持ってきていたのだ。
「おお、それだ」
あさひ姫はまさしく「あるもの」を指さした。
「『おぼろの桃園』に生えた桃の枝が根付いた後に実った桃だな?」
「はい。私の主人の庭に生ったものを持ってきました」
出かける直前にふと思いついたのだ。わらびにあの桃を食べさせてやりたい。食べたなら、ひき丸を想い出すのではないか。甘い希望とともに思い切ってもぎとった小振りの桃である。
「ひき丸よ」
「はい」
「わたしはおまえを知らぬ。なぜならわたしはわらびではないからだ。ただわらびが経験したことはぼんやりながら知っている。その中に、おまえとの思い出はない」
「思い出がない……」
ひき丸は唇を噛む。やはり初めてあさひ姫を見た時に感じた直感は間違っていなかった。
「落胆するものではない。大事であるがゆえに、わたしから視えぬように隠してしまっておるだけだ。忘れられたわけではない」
「……わらびはどうすれば戻ってきますか」
「となると、おまえはこのあさひに消えてほしいというわけだな?」
ひき丸は答えられなかった。わらびを取り戻すということは、目の前にいるあさひ姫を殺すようなものなのだ。
気にするな。あさひ姫ははっきりと言いながら、ひき丸が差し出した桃を手に取る。
「そもそもこのあさひが現れたのは、己を思い出した衝撃のあまりに表に現れたものに過ぎぬ。泡沫のようなものなのだ」
桃をもてあそび、まじまじと眺め。
あさひ姫はがぶりと桃に食らいついた。
「泡沫だからこそ、桃ひとつで魂は震えて揺れる。別のものも浮かび上がる」
何が起こったのかわからないでいるうちに、あさひ姫はひき丸の腕をつかみ、己の胸の上に触れさせた。
「なにを……」
「玉の緒を掴みにいきなさい」
あさひ姫はにやっと笑う。ぼとんと畳の上にかじりかけの桃が落ち、果汁が零れた。
「天人は化人のために生きている。されど同胞を想わないわけではない」
濡れた手で宝珠を顕現するあさひ姫。
「わたしはここで去ろう。だが夜明公の魂は極楽浄土に行こうとも、心は化人へ残している。あとのことは、任せよう」
あさひ姫は手のひらの宝珠を見るように言った。
「よく見つめていなさい。ここに映る――」
最初は眩しかった。だがだんだんと目が慣れていくうち、宝珠の中に何かがちらついた。
揺れている。桃の枝が、何本も……。
桃の林の奥で、人影が見えた。小さな人影が。
よく着ていた白い汗衫。肩で切りそろえた黒髪がひょこひょこ動く。
あれは。あれは……。
丸い月。ぽっかりと空に浮いている。
桃の花がさわさわと夜風に揺れて、小川はかすかな水音を立てながら流れ行く。
奇麗だなあ、と思っていたら、パチン、と澄んだ音がした。
『そなたの番だ』
真っ白な衣をまとった男が目の前の碁盤に目を落として言う。眉間に深いしわが寄り、何かをこらえているみたいだ。
「わかった」
わらびは自分の碁笥から白と黒の碁石を引っ掴んで、パチン、パチン、と碁石に置いた。
碁盤を上からのぞいて、出来栄えを確認する。なかなかよくできたぞ、とご満悦のわらびである。
「見て。でぶ猫の顔だよ」
感情の色が見えない男はわらびに釣られるように碁盤を見るや、「でぶ猫とは何だ」と言いたげな目をする。
「かわいくない猫のことだよ」
男は返答をしなかった。わらびはまじまじとその面を眺め、世の中すべてがつまらなく見えていそうな目だなと失礼なことを考える。
「わらびはね」
また月を見上げながら言う。
「毎日が楽しかったよ。毎日毎日、たくさん歩いてね、『失せ物探し』をするんだよ。見つけてくると、みんな喜んでくれるんだよ。ひき丸も手伝ってくれたよ」
また迷子になる気か、と何度首根っこを掴まれたか知れないが、わらびに『失せ物探し』の才があると教えてくれたのはひき丸だったし、『失せ物探し』を始めたばかりの頃に依頼を取り次いでくれたのもひき丸だった。『失せ物探し』と『水精探し』に付き合ってくれた。それだけ、一緒にいたのだ。
別れてきてしまったのは、涙が出そうなぐらい悲しいけれど。
「だから十分なんだ。わらびは、短い間だったけれど、外の世界をたくさん見られたから。本当の『自分』を知ったなら、終わりにしなくちゃいけないよね」
掴んでいた碁石が指先から零れ落ちる。手が輪郭を失い、透き通っていく。
頭上には桃の花がついた枝が幾重にも張り出して、隙間から月が見えた。小川の水音は清々しく、風はどこまでも優しかった。
夜の『おぼろの桃園』で消えるのも悪くないとわらびは思う。理由は「奇麗だから」。それでいいのだ。
「あ、そうだ。お礼も言わなくちゃいけないんだった」
ありがとう。わらびは花のように笑う。
「あなたにとっては不幸なことだったかもしれないけれど、それでわらびが生まれることになったから、「わらび」をくれてありがとう」
すると男は言った。
『子猫よ。消えるつもりか』
「そうみたい。だってわらびは天人でも化人でもないもの」
『貴様には、この世と己を繋ぎとめるよすがとなるものはないのか』
「よすが?」
『玉の緒だ』
魂の緒。それを引っ張ってくれるだれかはいないのか、と男は問うのだが、わらびは首をかしげた。
男はこう歌った。
――片糸を こなたかなたに よりかけて あはずは何を 玉の緒にせむ
(糸でひもを編むように、あちらこちらへ心を動かしていても、逢わないならば、何をもって魂の緒として繋ぎとめるというのか)
『貴様に傾けられた心さえなかったものにするつもりか。また、同じ過ちを繰り返すのか』
貴様に傾けられた心。
ふと、ひき丸を想う。
何事にも意味があるものだ、と男は語る。
『貴様が在ることにも意味があった。我々はたしかにひとつのものだった。だが分かたれた。そして、一度砕け散った珠の欠片を集めても、まったく同じ形とはならぬ』
男の右手に乳白色の宝珠が浮かぶ。ひび割れた痕がくっきり残っていた。しかし、金色が欠片と欠片の間に隙間なく入り込んで繋ぎ合わさっている。
『貴様が、繋ぎ合わせたのだ。宝珠は魂の形。繋ぎ合わせるにも心が必要になる。子猫に注がれてきた心、子猫自身の心の動き。さらにわずかな夜明公の宝珠も混じった』
男の掌の上に咲く宝珠を覗き込む。白く穏やかな光、たまに虹色がきらめいて。金色の継ぎ目があってもなお、丸い形を保っている。
『醜いと思うか』
『ううん。奇麗だよ』
自分が集めてきたものなのだ。どれもこれも美しくて。欠片のひとつひとつが思い出なのだ。
『衣の文様みたい。味があって、わらびは好きだよ』
男はわらびを無言で見下ろす。相変わらず、何を考えているのか読みにくい。
『白の宝珠はこれまでにもあったが、砕かれたことで唯一のものとなった。この繋ぎ目……。この模様は未来永劫、同じものは現れぬ。……決して』
やがて男は宝珠をわらびへ差し出した。
『貴様が持て。貴様は、消えるために生まれたのではない。生きるためにここにいる。……化人を救うために、天人は在るのだ』
わらびは、両手で宝珠を受け取った。触れると、しっくりくる。わらびのものだという実感がふつふつと湧いてくる。
歪なままでもよいのだと。わらびがいてもよいのだと男は告げている。
「わらびのことが嫌いだと思っていたよ」
『今でも嫌いだ』
男は即答した。
『しかし、侮るなよ。大勢を見てとれぬほど、愚かではない』
男は引っかかる言い方をした。言葉の裏に何かがあるような気がした。
「ねえ、帝」
呼びかけると、男はものすごく嫌そうな顔をした。
「あのね、帝がわらびを作ってくれたのはわかるの。だけどね。だったら、今、あの清涼殿にいる『帝』は、だれ?」
男は答えなかった。代わりに、こう言った。
『気を抜けば、地獄が来る』
男は踵を返した。背中が桃園の奥に消えていく。
風の音に流れて、わらび、と呼ばれる声がした。だれが呼んでいるのだろうと耳を澄ませば。
――わらびっ。
知った声だった。
わらびの玉の緒だ。
「わらびっ! おい、わらび!」
ひき丸は暗闇で手を伸ばした。目の前で揺れる汗衫の袂を、掴んだ。
「ん?」
聞き覚えのある間抜け声。くるりと振り向いた面は白く、奇麗で、けれど生気に満ちている。
「ひき丸だ。迎えに来てくれたの」
いつものようにわらびは言う。佐保宮へ行ったひき丸にわらびがよくそう言っていたように。
「当たり前だろ。ひとりで勝手にどっか行こうとするなよ」
わらびの調子に釣られて、するりと言葉が出て来た。
「さびしく思うのは、俺だけか?」
「わらびだって、さびしかったよ。本当だよ」
わらびは後ろ手を組んで、にこにこ笑う。
「また会えてうれしい」
「……なら、帰るか」
「うん、帰る」
ひき丸が差し出した手に小さな温かい手が重なった。
「わらびの玉の緒は、ひき丸だったんだね」
「……当たり前だろ」
暗闇を歩くうち、遠くに小さな光を見つけた。
ふたりで手を繋いで進んでいく。
さあ、帰ろう。現実へ。
この先待ち受けているものはわからない。だが一緒なら。
互いが互いの玉の緒ならば心は共にいられるだろう。
夜の宇津田宮。うっすら雪の降り積もった檜皮葺の屋根に童子がひとり胡坐をかいていた。剣でできた衣をまとった童子である。
童子は遠く東を見ていた。老人にも子どもにも思えるような不思議な眼差しである。
『摩尼珠王が去られた。新しい摩尼珠王はいまだ幼く、不安定である。今度こそ、食いに来そうではないか』
童子は眼下に広がる夜の都を思う。
ここに己が守らなければならないものがある。この姿を与えた者と約束したのだ。
新たな摩尼珠王にご挨拶申し上げなければ。
今こそ何が起こっているのか話すべき時だ。
『――この久世を滅ぼそうとする者は、清涼殿にいる』
年の暮れは近づきつつある。大祓はその年の穢れを祓うために宮中で行われるのだ。もしそれがふたたびきちんと行われなかったとしたならば、この世に地獄が訪れる。
女東宮と本物の帝が命がけで描いた画でここまで来たが、この先は大きすぎる『失せ物』を探し出さなければならない。
「不知」
夜風に紛れて、己を呼ぶ声がして、童子は屋根の端から下を覗き込む。濡れ縁にいた少女が童子をまっすぐ見上げていた。
「わらびに話があるんだね。聞くよ」
汗衫をまとった少女は優しい月のように微笑んでいた。
第6章完結。次章までお待ちください。




