宝珠
宇津田宮の庭で男たちが散々騒いでいるものだからだろう、殿舎からひとりの童女が走り出てきて、「あさひ姫がお待ちしております」と丁寧な口調で言う。
一行を先導する童女には見覚えがあった。わらびと同じ樋洗童だった「ふつ」という童女だ。桜の上亡き今、次の勤め先を求めても不自然ではなかったが……。彼女は今、どういう気持ちであさひ姫に仕えているのだろう。
「姫様、橘宮さまと三郎君、沢蟹大将が参りました」
御座所まで通された。御簾はすでに高く巻き取られており、内があらわになる。
ひき丸はうしろの廂ぎりぎりのところに腰を下ろし、あさひ姫の姿を探した。
すると耳元で「ようやっと参ったか。待ちくたびれたぞ」と囁き声がした。
「わっ!」
ひき丸は思わず声を上げ、逃げるように体を逸らせて耳を押さえた。耳に熱い吐息がかかったのだ。気配を感じなかった。
「おぉ、赤くなった。愛い反応をする」
つん、とひき丸の頬をつつくものがある。
「ふふ、睨まないでおくれ、からかっただけではないか」
右隣に目を向けたひき丸は微笑みかけられた。すぐ傍らに黒髪の美しい女人が端座している。扇で面を覆うことなく、居並ぶ男たちを堂々とした視線を投げかける。
「そなたらが騒いだために、起きてしまったぞ」
芯の強さと美しさ。そのふたつが両立する完璧な美人だった。ひき丸が、将来のわらびがこうなるだろうと想像したよりもずっと美しい。ただ、睫毛の先まで美で形作られた女人に、ひき丸は違和感を覚えた。なんといえばいいのか……生きている感じがしなかった。
「あ……さ、ひ姫?」
「さよう。待っていたぞ」
女人はひき丸へ頷き、立ち上がる。衣擦れの音をさらさらと立てながら、御座所に敷いた畳の上に腰を下ろす。
己の前に並ぶ男たちの面を順に眺めながら、女人は脇息に優雅にもたれかかった。
「さぶろう、橘宮、沢蟹。並べてみると面白い組み合わせだな。おのおのが、てんでばらばらな目的のためにここへ集っておる」
「何も面白いことなどございませんが」
三郎君がそっけなく言うと、女人はふふ、とまた笑う。
「では言い換えよう。……懐かしいものだとな」
「懐かしいとおっしゃるのはいささか不思議な気もいたしますが」
「わたしの宝珠がそう憶えているのだ」
それで、とあさひ姫は一同に問う。
「ここに来たのならば、みな、『失せ物探し』を頼みにきたのでよいな? だれから答えてやろうか」
あさひ姫はひとりひとりを白魚の手で指さしていったが、ある者の前で止める。息が止まりそうになった。
「おまえにしてやろう。物欲しげな眼差しを向ける若者よ。名乗りなさい」
「……ひき丸」
「ひき丸」
あさひ姫が己の名を呼ぶ。ああ、別人なのだなという乾いた感慨を抱いた。
あさひ姫は、わらびではない。あの夜、あの女人を池から引き上げた時に感じたことは嘘ではなかった。
「おまえはこの中でもっとも切なる願いをもってここへやってきた。そうだな?」
「はい。あさひ姫にお尋ねしたいことがあり、参りました」
「申してみよ」
「逢いたい人がいます。その行方をご存知ないでしょうか。わらびと言います」
ひき丸はつとめてあさひ姫の変化を見逃すまいと観察する。この邂逅は二度とない機会だ。相手は帝の女人のため、そうそう会えないのが、今のひき丸の立場なのだから。
「わらび……?」
あさひ姫は手元の檜扇を手首からくるくると回しながら思案した。
「わらび、わらび、わらび……」
黒い瞳がどんどん物憂げに曇っていく。そうか、と女人は静かに呟いた。
「不知」
「しらず?」
それはたしか、わらびが親しくしていたもののけの名でなかったか。
「なるほど、おまえは……」
衣擦れの音がして、あさひ姫は立ち上がり、すすすっとひき丸の前まで来ると、腰を下ろして、ひき丸の面を間近で見つめる。感情が見えなかった。
「懐かしいと思ったのは、おまえもいたからのようだ。よしよし」
なぜか肩のあたりをぽんぽんと叩かれた。
周囲の者たちがまるで幽霊でも視たかのような目をしている。ひき丸だってそうだ。
あさひ姫の行動は常に規格外である。
「は、い……?」
「よいか、ひき丸よ。あと一山だ。一山さえ越えればよいところまでもう来ているのだぞ。このあさひが現れたのも、そういうわけなのだ。あの女東宮が描いた画のとおり、ちゃんと進んでいる。糸のように細き狭き道を辿りながら、ようやっとだ」
女東宮が描いた画とは、なんだ。
「あさひ姫さまはどこで女東宮さまを」
「よく知っておるぞ。わたしの宝珠が恋う相手だ。このあさひにとっても懐かしさを覚える人物でもある」
ひき丸は混乱した。あさひ姫は何を知っている。というより、そもそもあさひ姫とは「何」だ――。
「ふむ。あまり迂遠な言い方をするのも意地悪な気もする。ここでいっそ、正体を明かしてしまおうか――」
どうやら今上帝と会うのはわたしではいけないようだからね、と言い置いたあさひ姫は、実にあっさりと。
「生前に夜明公と呼ばれた男。若き日に当時の帝に代わって雷公を討ち、当代一の宝珠を持つと言われたが、帝位に上らなかった皇子。太郎、二郎、三郎の三名を養子とした鹿毛家の氏長者……。その宝珠の欠片が、このあさひなのだよ」
あさひ姫の正体に、ひき丸以外の男たちが驚愕の表情を見せる。橘宮も、沢蟹も、三郎君もそれぞれが生前の夜明公と親交があったのだ。
この世に比類なき宝珠の君と呼ばれた夜明公。かの人が持つ宝珠は時の帝よりも強く。天人の王、真の摩尼珠王であったと讃えられた天人でもあった。懐深く、慈悲深く、賢明な才人な人柄とも合わさって、その広大な邸には常に人が集っていたのである。橘宮と沢蟹もそのひとりである。まして、三郎君は夜明公に育てられた子なのである。動揺を隠せるはずもなく、
「何をおっしゃっているのですか! この期に及んでまだ人を混乱させるような真似はやめていただきたい!」
「さぶろう」
短く名を呼ばれただけであるのに、三郎君ははっと黙り込む。
「だから昔のようにおまえをさぶろう、と呼んだのに。意外と気づかぬものなのだな」
あさひ姫の手に浮かぶ宝珠が白く光っていた。大きく白の火炎が梁の上まで高く伸びる。
正面にいたひき丸には、あさひ姫がまるで白の炎を背負っているように見えた。宝珠の光をあのように身をまとう者は見たことがない。強い宝珠を持つとはああいうものなのだろうか。
「たしかに、生前の義父上のお身体は炎を宿しているように視えましたが。ですが!」
「おまえが信じるかどうかはいっそこの場では関係ないのだ」
あさひ姫は視線を別の者に映した。後ろ手に手をつき、ぽかっと間抜けに口を開けた大男が、己を指さした。
「わ、わしか」
「沢蟹大将。そなたには託されたものがあるだろう。寄こしなさい」
「な、なにを」
そう言いかけた沢蟹だが、すぐさま「だ、だめです! あれはだめでございますよ!」と慌てだす。
ふう、とあさひ姫はため息ひとつつき、身軽な動きで沢蟹へ飛び掛かった。
「あ、あさひ姫!」
「よいよい。楽にせよ」
髭面男の胸元にむんずと手を入れて、何やら探っている。やがてするりと何かを抜き取った。
あさひ姫は掌を広げて、じっくりとそれを見る。
「それは何でございますか? 白い勾玉のように見えますが」
橘宮が尋ねた。
「久世の三宝のひとつだ。名を魂鎮めの勾玉。本来ならば帝が秘しているはずの宝物だ」
「初めて耳にいたしますが」
橘宮は首を捻りながら、まじまじと勾玉を見ようとする。
「ほんのわずかな天人しか知らされぬものゆえ、そなたにも伏されていたのだ。他に、魂削ぎの剣と魂顕わしの鏡というものがある。三つを合わせて三宝と呼ぶ」
あさひ姫は勾玉を透かし見て、ふと笑い、それをひき丸へ放った。
「うわっ、と」
ひき丸は慌てて受け取る。ぞんざいな扱い方をする。
「ひき丸。勾玉はそなたが持ちなさい」
「は、い……?」
沢蟹がへにゃりと眉を下げてひき丸を見る。気まずかった。
「なんと無体なことをされるのだ……!」
沢蟹が泣きそうな顔を作ってみせると。あさひ姫はぴしゃりと「おまえ自身は横取りしようとしていたであろう」と言う。
「沢蟹よ、過ぎた執着は身を滅ぼすぞ。先だっての米俵の件で骨身に染みなかったか?」
「む……」
あさひ姫はにこりと笑う。生前の夜明公は橘宮以上の美形だったというから、己がどう魅力的に映るのかわかった笑い方をする。
「数十年の昔、これは一度、天人の手を離れ、蛭子国に留まっていたのだ。雷公の魂を鎮めるために。今はその役目を終え、己の居場所に戻ろうとした。沢蟹が都へ戻ったのも、勾玉がそれを望んだからだ。人の形に身をやつし、おまえの気を引くように振る舞ったのだろう」
「は……? つまり、どういうことで……?」
要領を得ない様子を見せる沢蟹に、何やら事情を知るらしい三郎君がこう告げた。
「おまえの探す空飛ぶ鉢があっただろう。あれは勾玉の化身が気を引くためにしたものだから、おまえの気が引けたのなら役目としては十分だ。米俵をしこたま盗んだ鉢はたちまち地に落ちて粉々に割れたのだ。だからおまえにも『壊れた』と告げたのだ」
「はっ……」
沢蟹は愕然とした顔になる。
だが、慌てて奇麗な布の塊から、鉢を取り出し、早口で言う。
「しかし、ここにはあの鉢がございます。今朝、邸の前に置かれていたのです! 見た目もこの沢蟹が見たものと同じです!」
朝、邸前を掃除していた者が見つけるや、慌てて持ってきたのだ。旦那様がお探しの鉢ではありませんか、と顔を輝かせて。
その若者は前々から目をかけていて、あの鉢のこともよく知っていた。その男が言うからには間違いないし、自らもそうだと信じたのだ。
ふう、とあさひ姫は額を押さえた。
「機嫌のよいおまえはその者にたいそうな褒美をやったのであろうな」
「見つけ出した者には褒美を与える約束をした。それぐらいの約束は守らねばなるまい」
大男は堂々という。
三郎君はしれっとした顔だが沢蟹を見ないようにしているようだし、橘宮はもの言いたげにしている。
ひき丸も思った。
褒美を与えられた家人は、今頃、都を出ているだろう。
あさひ姫はいっそ優しい声で言う。
「その鉢を見せてもらおう」
あさひ姫は鉢の元にいざり寄る。鉢をかかげて、まじまじと見るふりをしながら、おっと、とわざとらしく鉢を取り落とした。ばりん、と鉢はあっけなく割れる。
「ああああっ」
沢蟹が嘆いた。
「あさひ姫さまぁ!」
床ががたがた震える勢いである。あさひ姫はしれっと両耳を押さえてやり過ごしていた。落ち着いたのを見るや、「沢蟹!」と一喝する。
「鉢はすでにないのだ! なにゆえ、都に来た? おまえは守るべき領民を放り出して何をしておる! おまえの知る夜明公は、そのような真似は許さぬぞ!」
その言葉に沢蟹は目を丸くする。
「『領民のためにつくす真摯な心を持て』、と夜明公はおまえに言ったはずだ! おまえ自身が都に置き忘れていた『失せ物』はこれなのだ! なぜここに至るまで思い出せぬのだ!」
沢蟹はしばし呆けた顔をした。だがみるみるうちに、そのいかつい目に涙の玉が盛り上がり、おいおいと泣き始めた。
「たしかにあのお方は沢蟹の執着心を心配されていた。せっかくくださった忠告なのに……」
天下に慕われていた唯一無二の御仁。沢蟹にはおいそれと近づけなかったが、都を下る前にわざわざ宮中で呼び止められて、沢蟹のために別れの言葉をくれた。
沢蟹は人生で一番と言っていいほど感激した。この言葉を胸に刻み生きていこうと思った。
それなのに。今の沢蟹はちっともそうじゃない。それが情けないのだと沢蟹は顔を覆った。
「あぁ、わかった。あの時、鉢が空を飛び、米俵を連れていった時。わしはなぜか清々しかった。心のどこかで己が変われるとも思った。わしは、もう別人となりたかったのかもしれぬ……」
すっかりふさぎ込んだ大男を尻目に、あさひ姫はひき丸を見やる。
「宝珠は、天人の魂そのもの。このあさひ姫は夜明公が持つ宝珠の欠片、すなわち夜明公の魂の一部なのだ。ただし、目覚めたのはごく最近であり、それ以前のことはよくわからぬ。……だがおまえにわらびと呼ばれた時に、この胸の奥がざわついた。だからこの体は以前、わらびという名だったのかもしれぬ」
あさひ姫はちらりと他に居並ぶ男たちを見ると、「さて」と両手を合わせた。
「おまえたちには出ていってもらう。この者の『失せ物探し』をしてやらねばならぬのでな」
間髪入れずに三郎君が口を挟む。
「私は反対いたします。『あさひ姫』がされるべきことではありませんから」
「さぶろうにわたしを止められないよ」
「いいえ。止められます。あなた様は『あさひ姫』。私の養女であり、帝の妃でいらっしゃるのですから」
あさひ姫はくすくすと笑いをこらえた。
三郎君の前までにじり寄ると、すとんと腰を下ろす。その頬に手を当てた。まるで親が子にそうするように。
「もっと素直におなりなさい」
静かな声だった。
「好いていると言えばよかったのだ。そうすれば大事なものを裏切ることも、遠ざけることもせずに済んだというのに。おまえの不器用なところがとても心配だ」
「おっしゃる意味がわかりません」
「前も言っただろう。女東宮と、おまえの嫉妬の話だ」
三郎君はさっと顔を赤らめるが。あさひ姫は「さあ、出ていきなさい」とひき丸以外の者をすべて追い払ってしまった。




