かたさり山
◇
春先は日が落ちると、ぐっと冷え込む。星の瞬き始めた空の下、一行は都の郊外に広がる『かたさり山』に分け入った。柔らかな土の道を踏みしめる。この上りの道は重い牛車には辛いが、馬や徒歩ではするすると進む。
丸い月が薄い雲の裏に隠れ、ほのかに照り輝く。地上の山道にも優しい光が届く。松明ひとつあれば十分に明るい。
前を歩いていたひき丸が地面を指さした。
「まだ新しい轍の跡だ。五井の姫君たちのものかもしれない」
「月が天頂にかかるまでに追いつけばよいのだが」
馬上の橘宮は木々に隠れたほの暗い道の先を睨んでいる。
一行は歩きながら握り飯を食い、残りの道のりは黙々と歩く。
途中、ぐごおおおおっ、と腹の怪音が鳴り、橘宮がまたも大笑いした。
「食ったばかりであろうに。緊張も解けてしまうではないか」
木々が囲む道がなだらかな下り坂となる。そのうち、道の奥から松明の火が二つ、三つとやってきた。
うつむきがちの男たちが牛を牽きながら徒歩で近づいてくる。無地の白張姿で、どこぞの貴族の下仕えらしい。さして広い道でもないので、一行は道の片側に寄ってやり過ごす。
相手の一行に、市女笠を被った女がいた。笠から薄い絹を垂らして、頭と身体をすっぽりと隠し、わらびたちの脇をよぎる。
わらびの鼻先を甘ったるい薫りがくすぐる。
「――ん」
ふと気になって、女の面を確かめたくなった。
「無礼をするでない!」
絹をめくりあげようと手をかけたわらびと件の女の間に、白張姿の男のひとりが怒鳴りながら割り込んだ。女は乱された絹をさっと直すと、足早に去ろうとする。
「待って」
女はわらびの呼びかけに応えなかった。鼻にまとわりつく匂いがまだ濃く残っている。厭な感じがした。
「どうした、わらび」
「匂いが、ちょっと変なの」
「変というのは?」
「昼間に話した女房と、同じ匂いがした」
わらびは女が去った後方を指さした。
どういうことだ、と二人の会話に橘宮が入ってくる。
「香の調合は人により千差万別、家によっては秘伝の香があるぐらいに個性があるものだ。一日に二度も三度も、同じ匂いが嗅ぐこともそうあるまい」
それに、と橘宮は珍しく顔を顰めた。
「あの香は好ましくない。調合の均整が取れておらぬ。悪酔いしそうなほどにくどい。安物の甘松をめいっぱい入れたのではないか」
わしならあんな香は付けぬと言い切った橘宮は、いつも品の良い香りを漂わせていた。
「宮様、いかがいたしますか」
むう、と橘宮は考え込んだのちに言う。
「あの集団はまだ近くにおるだろう。厭な予感がするので、問いただしてみるのだ。わしも行く。よいな?」
「はっ」
一行は、元来た道を戻っていく。木々の奥から松明の火が見えたから、あれだと思い、足を早める。
馬上の橘宮が声を漏らした。
「これは……」
はたして、松明は燃え尽きようとしていた。少しぐずぐずになった地の上で、いくつも。
土にまみれた白張の衣が落ちていた。血に染まっている。
白張の衣をまとった、大きな魚や虫や鳥。生きていない化人だ。死んで、元の畜生に返ったのだ。
「わずかな間に何があったのだ」
橘宮は馬を下りた。ひき丸とわらびに加わって、死体を検分する。死体など見慣れていないだろうに、気丈に振る舞っていた。
「辛いだろうから、下がっていなさい」
「わらびは平気」
言葉通り、すたすたと死体の間を歩いていくわらび。ひき丸は言った。
「わらびははじめ、忌辺野にいたようです」
それを聞いた橘宮はぶるりと震えたようだった。
忌辺野は葬送の地である。洪水が起これば、流れ着いた死体が山となり、都の人びとはここへ死体を捨てにくる。生きている者はめったに寄り付かない死の土地だ。
「殺されちゃっているね」
一時は忌辺野にいたわらびがぽつんと呟く。鼻の頭を擦った。
「変な匂いがする」
白張の死体から離れて、ひとつだけ。女の衣をまとった山女が腹のあたりをざっくり割られて死んでいた。他の死体と比べれば一番ひどい傷口だった。
「さっきすれ違った人たちだね。なんで死んじゃったんだろう?」
しかし、厭な匂いがする。山女の女房の匂いだけなくて、何か、別の、全身で叫びたくなるぐらいにまとわりついてくるものがある。目を凝らした。うっすらと黒いもやがかかっている。細かな蝿のようなものが蠢いて、こちらへじりじりと伸びてこようとしている。
「わらび、あまり近寄るなよ」
なおも死体を覗き込もうとするわらびの身体を引っ張ったのはひき丸だ。
「それは狂ヒの穢れだ。うつると宮様に祓ってもらわなくてはならなくなるぞ」
「狂ヒの? いるの、近くに」
わからない、とひき丸は周囲を警戒しながら言う。
「ちょっと心配だな。これ持っとけ」
ひき丸が小刀を渡した。桃園で枝を削った時に使ったものだ。
わらびは犬のように鼻をうごめかして、うん、とひとつ頷いた。
「少し遠くにいる気がするね」
「わかるのかね、わらび」
橘宮の問いにわらびが頷く。
「この匂いが狂ヒの匂いならわかるよ。宮様、追いかける?」
「行こう」
「わかった」
少女は駆け出した。木々の隙間を縫い、まるで羽が生えたように軽い足取りで。
先行するわらびの後を、ひき丸が追いかける。ごつごつした石の多い斜面も危なげなく登っていく。
最後の橘宮は愛馬にまたがっていた。昔から鍛えていた乗馬の腕前で器用に馬を操り、細い獣道も難なく進む。
幸いにも夏草が生い茂る季節でないので、ふたりはわらびの後を見失わずに済んだ。
やがて視界が開けた。山の中に忽然と、池が現れた。月に照らされた水面が静かな光を放っている。
その池の脇の繁みに、大きなものが見えた。横倒しになった牛車である。
「あれだ」
あれが一番、狂ヒの匂いがひどかった。腐った肉の臭いがする。近寄ろうとしたけれど。気になるものを見つけた。牛車の傍にいるあの青黒いものは何だろう。
すると、わらびと「それ」は目が合った。ぎょろついた黄色い目。真っ赤な口、鋭い犬歯。四つ足で駆けてくる毛のない、化人のような体躯。
あれが、狂ヒなのだ。
「わらびっ!」
わらびと狂ヒの間に太刀をもったひき丸が滑りこみ、狂ヒの口へ太刀を突き刺した。
ぐぎゃあ、と狂ヒが閉じられない口のまま歯をカチカチと鳴らした。尖った前足の爪で襲おうとしたが、器用に体勢を変えたひき丸がそれを許さない。
「宮様、宝珠を!」
わらびの隣に馬を下りた橘宮が来ていた。右の掌を上にしていた。宙に朝焼けに似た光が浮かんでいる。まるで小さな炎に包まれた玉のよう。
「奇麗」
時を忘れたわらびが呟いた。
橘宮が唱えた。
『我が御息は神の御息。神の御息は我が御息。穢れたる者、極楽浄土に至りて泥中の蓮とならん』
ゆっくりと、宝珠の光が一筋、狂ヒへと伸びた。狂ヒに到達したそれは、青黒い体の表面を伝う。ぼろぼろと乾いた土が剥がれるように、狂ヒは姿を崩して消えていく。
風が吹いた。最後の塵さえ消えてなくなった。
橘宮が少し疲れた様子で、「これでよい」とふたりに告げる。
「狂ヒが祓われた。あとは」
橘宮の目が牛車へ向けられる。やや足早で近づき、破れた御簾の奥を覗き込んでいる。
あれ、とわらびは思った。まだ厭な匂いが残っている。――か細い声がした。助けて、と。
「済子!」
橘宮が何かに気付いた様子で、暗がりの奥に駆けていく。わらびとひき丸も慌てて、主人を追いかけた。
見えにくい池のほとり。水がそこまで迫った際に生えた木の根元に、女人が座っていたのがわかる。
橘宮は迷いなく女人を助け起こしていた。
「済子! 済子!」
切羽詰まった男の声がこだました。
その時だった。すさまじい匂いが急に辺りに漂った。
「宮様っ!」
橘宮は反応が遅れた。背後から迫る狂ヒ。すぐそばに隠れていたのだ。
橘宮が女人を抱き寄せる。背中に狂ヒの歯が深々と刺さったように見えた。
「ぐうっ!」
橘宮が呻いている。走っていったのでは間に合わない。わらびはすかさず持っていた小刀をびゅん、と投げた。
それは狂ヒの脇腹の辺りに飛んだのだが、跳ね返って落ちた。だがそれで十分だった。狂ヒは醜い面をわらびたちに向けた。
空に少しかかっていた雲が晴れ、もう一匹の狂ヒの面があらわになる。
それは、あまりにも不思議な光景だった。ふたり、いたのだ。
橘宮の秀麗な顔つきが、もうひとつ。怒りの形相を浮かべているが、わらびとひき丸がよく知る顔だった。
「宮様……?」
わらびの素朴な声を聞いた狂ヒは、何かを思ったのか、己の顔を隠そうとした。膨れた腹に、骨ばった背中、がりがりの手足。その上についた頭だけが橘宮のものなのだ。
狂ヒは悲しげに啼いた。啼いて、啼いて……血の涙を流して、身体をよろめかせた。
「ああ、なんという姿をされて……」
苦しむ狂ヒを見上げる橘宮は何事かを語り掛けた。すると狂ヒはくるっと背中を向けて逃げようとする。
橘宮は振り絞る声でまた唱えた。
『……我が御息は神の御息。神の御息は我が御息。穢れたる者、極楽浄土に至りて泥中の蓮とならん』
さきほどよりもか細い光が狂ヒに届く。ぼろぼろと狂ヒが崩れ落ちようとした。
だが、その時。……狂ヒが最期の力を振り絞り、吠えた。金物をふたつ激しくこすり合わせたような耳障りな音だ。ただ、身体が途端に、砕け散る。びちゃびちゃと黒い泥のようなものをまき散らす。
少し離れたところにいたわらびたちはかろうじてよけられたが。橘宮は浴びた瞬間に、雷に打たれたように倒れ伏した。