夜警
しんしんと雪が降っている。月は見えないが、雲の裏でぼうっと光っていた。
白馬に乗った橘宮はひき丸をはじめとした三人の侍と十人の検非違使を連れて都の大路を下る。
狂ヒを狩るための夜警の行列である。都中で狂ヒが出没するため、宝珠を持つ天人へ都の守護を命じる帝の勅命が下ったのだ。
松明の火が四つ、持ち手の歩みに合わせてゆらゆらと動いている。彼ら自身の足運びや咳払い、松明が焼ける音以外、すべてが沈黙していた。
「……狂ヒとはなんなのだろう、と時折考えることがあるのだ」
ふと橘宮は傍らで歩を進めるひき丸へ呟いた。
「狂ヒは人に穢れを振りまく異形のもの。天人の持つ宝珠でしか退治できぬ。これまで都に出ることなど考えられなかったのだ。宝珠が都を守護していると思われていたからだ。しかし、今、それもゆらいでおる」
狂ヒが父の顔に見えたこともあったな、と橘宮は思い出すように言う。
「だが考えてみれば、都に狂ヒが出ないことこそおかしな話なのだよ」
「どういうことなのでしょう」
ひき丸は元からそういうものだとしか思っていなかったので、橘宮に問い返す。
ふむ、と橘宮はつるりとした顎に手を当てた。
「古くからこの地では多くの血が流されてきたのだよ。今ではさほどでもないが、戦や政争が頻発していた時もあった。人の恨みつらみはこの地に染み込んでいる。その証に、魑魅魍魎や百鬼夜行のような話も聞くだろう。人がいてこその穢れなのだ」
「魑魅魍魎や百鬼夜行は都にこれまでも現れていたのに、狂ヒはいなかった。よく考えたら変ですね。都こそ狂ヒが現れそうなものですが」
「さよう。今までがおかしかったのだ」
橘宮は続けた。
「宝珠の力が弱まったわけではないだろう。わしの宝珠であっても、狂ヒは嫌がり、表に出るのを避けておる」
同じように魑魅魍魎や百鬼夜行も宝珠を避けるのだ、と橘宮は言う。
「狂ヒはこれまでも『いた』。われらの目には『見えなかっただけ』なのだろう」
妃たちが殺されてから分厚い雲が空を覆い、日の光も遠くなっている。狂ヒが頻繁に現れ、化人を襲っている。
帝の妃はみな死に、突然、新たな妃として表舞台に出た『あさひ姫』。天人たちに都の守護を命じたまま沈黙をつづける今上帝。
異常があるのはだれの目にもわかっている。異常だという結果だけあるのに、原因がわからないから、不安なのだ。
そして、わらびもいなくなってしまった。
「狂ヒは突然、都に顕われたものではない。今まで見えていなかったのが、何かのきっかけで見えるようになっただけなのかもしれぬ」
「何かのきっかけ……はじまりは、どこにあるのでしょう」
わからぬ、と橘宮は答えた。
「ただ、ひき丸と出会ったころにはもうはじまっていたのかもしれぬぞ」
ひき丸が橘宮と出会ったころ――。
それはずいぶんと昔のようであり、つい最近のことのように思える。
ひき丸の恩人、女東宮は生前に文を残していた。それを預かったひき丸が橘宮に渡したのがきっかけだった。
わらびが現れるより少し前、昨年の晩秋のことだった。
『そうかい。よく来たね。あの子の代わりにそなたの面倒を見よう。本日よりわしに仕えなさい、ひき丸』
いかにも怪しげな風体をした少年だっただろうに、橘宮はあっけなくひき丸を受け入れた。あの子が寄こしたのだからという理由だけで。
ありがたかった。この穏やかで人が好く、切なげに微笑む御方に仕えようと思った。
その決断は今も正しかったと信じている。
「女東宮さまは、先見でさまざまなことを承知していらっしゃいました。このひき丸を宮様に引き合わせたことにも意味があったのかもしれません」
「あの子はなかなか口が堅かったからね……」
橘宮は目を細めた。
「先見をすることで未来が変わることを恐れていたのだろう。己の内にためこんで、じっと耐え忍ぶような子だった」
「はい」
先見の内容を告げなかったのは我欲のためでなかった。
望みもしなかった東宮の位につき、男社会に晒されて苦しんでもなお、彼女の信念は揺るがなかった。
「ただ今となっては、わしの元へひき丸とわらびがやってきたことも、あの子の采配だったのではないか。あの子の望みはひとつだけだった」
――「化人を救う」こと。
「はい。あの方はよくそうおっしゃっていました。『天人は化人を救うために在る』のだと」
「さよう。あの子ほど天人であることに自覚的だった子は知らないよ。責任感も強かった。それゆえに損することも多くてね。それを知っていたから昔から妹のように気にかけていた。」
馬の背に揺られる橘宮はまっすぐ前だけを見ていた。松明の火で届かない奥は何かが蠢いてもおかしくない闇が広がっている。
「……失うのはもうたくさんだよ。済子だけでなくあの子までいなくなった時ほど、辛い時はなかった」
すべて諦めて、抜け殻になったころ。ひき丸とわらびがやってきた。
「そなたたちが現れ、済子と一緒になれて。そなたたちが『失せ物探し』をしていた頃は久方ぶりに楽しい思いができた」
橘宮は、ああ、成程、と得心した口ぶりになる。
「そなたらはあの子の代わりに『失せ物探し』で化人を救ってきたのだな。そこにあの子の意思があったのだ。ならばやはりすべての事柄は繋がっているのかもしれぬ」
「繋がっている……?」
「さよう。物事には因果というものがある。原因があり、結果があるものだ。ふむ、だとするならば、そなたの悩みを解決するための道しるべはすでに示されているといえよう。あとは気づくだけなのだ」
ひき丸が望むのは……。
その答えを口にしようとした時、橘宮が自らの白馬を止めさせた。
「宮様、なにかございましたか」
検非違使のひとりが近寄りながら尋ねると、橘宮は「狂ヒだ」と短く答え、自らの宝珠を顕現させた。
検非違使やひき丸も太刀を構える。
冷たい風に乗り、腐った肉の臭いがする。狂ヒ特有のものである。
男たちがそろりそろりと近づいていけば、松明に照らされた青い肌が見えた。黄色い目玉が松明の方へ向くや、一行に襲い掛かってくる。
橘宮を守るため、検非違使らが飛び出した。
宝珠を顕現させた橘宮は祓詞を口にする。
『我が御息は神の御息。神の御息は我が御息。御息吹けば、穢れたる者、極楽浄土に至りて、泥中の蓮にならん……』
黄色の蓮の花の上に浮かぶ宝珠は穏やかな光を放ち、狂ヒをまるごと包み込んだ。
歯をむき出しにした狂ヒの顔つきがふと柔らかい、人間味のあるものへ変わる。光の粒子となって狂ヒが消えた。
ひき丸がほっとしたのもつかの間、「うわああああああ」という男の叫び声がすぐ近くから聞こえた。
「まだ狂ヒがおるぞ! 気を引き締めよ!」
検非違使たちが走り、もう一匹潜んでいた狂ヒがあぶり出される。橘宮がまた祓詞を唱えた。
狂ヒの影にいた男がよろよろと近づいてくる。
「はぁ、はぁ……。助かった! はっ、み、宮様ではございませんか!」
暗がりから現われた男は背丈がたいそう大きく、もじゃもじゃとした髭面をしていた。
橘宮はしばらく相手をまじまじと眺めたが、ふむ、と腑に落ちたような顔になる。
「もしや……沢蟹か?」
「はい、宮様。ご無沙汰しておりますっ。沢蟹でございます! 蛭子国から都に戻って参りましたっ」
大男は嬉しそうに橘宮と話している。
「久しいではないか」
「ふたたびお逢いでき、うれしゅうございます。宮様もお変わりなく!」
周囲を見張っていた検非違使たちもこちらに戻ってこようとしていた。
ひき丸は鼻先をあの厭な匂いがくすぐったのを感じた。はっ、と足元を見ると、青い顔の狂ヒがにたあっと嗤っていた。
三匹目の狂ヒだ。こんなに近くまで迫っていたのに気づけなかった。油断した。
掴まれた足首が動かない。狂ヒが一瞬で体を這い上がってくる。 体が地面に叩きつけられる。汚い牙が首筋の肌へ沈みこもうとした。
――ああ、だめだ。死ぬ。
刹那、ひき丸はそう考えて絶望した。このまま狂ヒに襲われ、死ぬのだ。
いろんなことを思い出した。ひき丸の持つ思い出は短いがどれも濃密なものばかり。わらびと過ごした時間が一番長かった。
――ここで死んだら、わらびに逢えないなあ。厭だなあ。
やっぱり諦められなかった。わらびがどうしてああなったのかもわからないというのに。わからないけれど、わらびとまた話したいと思う。
ふたりで『失せ物探し』をする。その時間が何よりも楽しかったから、取り戻したい。ひき丸の『失せ物探し』がここで終わるなんて嫌なんだ。
恐ろしくゆっくりと狂ヒが迫ってくる。痛みはまだない。
『ひき丸』
女東宮の声が、した。ほのかに香る梅の香り。女東宮が身に纏わせていた香だ。
視線の先に女東宮の後ろ姿があった。紅の衣にうちかかる絹糸のような白い髪がよく映える。
女東宮は、世にも稀な白い髪を持って生まれてきたのだった。
『おまえの願いは何ですか』
ふわり、と柔らかそうな髪が揺れている。彼女は振り返ろうとしていた。
ふと目の前に白くて細いものがちらついた。どこまでも続く長い糸が宙に浮いている。どこへ伸びているのだろう。
『玉の緒を繋ぐのです。もうそこにあるではありませんか』
「女東宮さま」
少し離れたところで女東宮は糸を指さしている。
『泣きそうな顔をするものではありませんよ。おまえはあの子を連れ戻すのでしょう。今なら少しは力を貸してあげられます』
――さあ、お行きなさい。
「ひき丸!」
ひき丸は現実に引き戻された。橘宮が呼んでいた。
「はい、宮様」
ひき丸は地に後ろ手をついていた。橘宮が差し出した手を掴み、立ち上がった。
橘宮がほっとした顔になる。
「大事ないな。さすがに肝が冷えた」
「ご迷惑をおかけしました。俺は無事です」
橘宮のほかの者たちもひき丸を取り囲んでいたが、安堵と同時に不思議なものを眺める目でひき丸を見ていた。
橘宮が説明した。
「不思議なことがあるものだね。わしが助けるより早く、おまえから光が放たれたように見えたよ。光の筋に当てられた狂ヒがあっけなく消えていったのだ」
「光……」
ひき丸は何もしていない。していたのは。
宮様、と呼べば、橘宮はひき丸へ視線を注いだ。
「女東宮さまが助けてくださいました」
主人は目を見開いた。
「……そうかい。にわかに信じがたいことだが、そなたがそう言うのならそうだろう。あの子はどんな様子だった?」
「お変わりないようでした。俺に、玉の緒を繋げとおっしゃいました」
橘宮は泣きそうな顔をしながら烏帽子を押さえて俯いた。
「玉の緒、か。……魂を繋ぎとめる糸が結べということか」
わらびの。
ひき丸は頷いた。
「はい。もう俺でもできるのだと。――だから俺は今俺ができるだけのことがしたいと思いました。宮様、このひき丸、一生の願いがあります」
「そなたがわしへ望みを言うなど珍しい。よいぞ、何でも言いなさい」
橘宮の厚意に甘えることにした。
ひき丸がやるべきなのは、目に視えぬもののけを漫然と追うことでなかった。わらびが消えた理由を聞くよりも先に、向き合わなければならない相手がいる。確かめるべきことがある。
心のどこかで怖がっていた。取り戻すためには、失った痛みをまざまざと直視しなければならないから。
しかし、もう迷わなかった。二度と会えなくなるぐらいなら、これぐらい耐えてみせる。
「どうか、宮様。俺とあさひ姫を引き合わせてください」
――あさひ姫が何者か、確かめなければならない。




