沢蟹大将
その日、宇津田宮に客人があった。
「あさひさまぁっ! おいでなされるかあっ!」
あまりの大音声に、門前の衛士二人が飛び上がらんばかりに驚いた顔をした。なんだなんだとこちらを見て、すぐさま威儀を正す。内裏の衛士はさすがにしつけが行き届いている。
とっさにした耳栓を解き、隣の黒い髭面男を肘でつく。
「五月蠅い。ここで言ったところで返事するわけがなかろう」
肘でつかれた恰幅のよい大男は、年下の友人の冷めた声などそよ風のように聞き流し、ぽんと太鼓腹を叩いた。
「おっ。そうか! つい心が逸ってしまったぞ。おまえ自慢の愛娘に会わせてくれると聞いては、そうならざるを得まい!」
「形だけでもそうせねばならなかったのだ」
「独り身のくせに娘とは! 娘っ!」
大口開けて笑う男は身体を左右に揺らし、門の内に入ったが、はたと立ち止まり、大きく息を吸い。
「あさひさまぁっ! 沢蟹大将が参りましたぞぉおおお!」
天地が震えるかのような声を上げた。なんだなんだと目の端で門の衛士たちが内をのぞきこむのを手で制した三郎君。耳がずきずき痛むのをこらえつつ、後ろから大男の後頭部をバチン、とはたいた。
「おっ、いてえ」
「どこでそんな大声を覚えた。ゆくぞ」
三郎君は、頭をさする沢蟹大将に顎を上げた。後ろに大男を引き連れて、三郎君は主殿に入る。
二人は廂まで通された。宮の主人が御簾の奥で座る気配がした。その傍には、女房と女童がひとりずつ控えている。この妃には、あまり傍仕えの者を近寄らせないところがあった。
円座に座れば、向こう側からえも言われぬ梅の香が漂った。
三郎君はこの香が好ましかった。この香りを嗅ぎたいがために、ここへ足を運んでいるのだとさえ思う。当の妃は香の調合は秘密だと言ってはばからないが。
「さぶろう。もっと近う寄れ」
露を弾く若草のような、凛とした声音が響く。
「おまえのごとき柔き声ではこの耳に届かぬぞ」
「それは嫌味ととってよろしいか」
妃のからかう声にむっとなって答えれば、御簾の向こうで「そうとも」と笑いを押し殺す気配がした。
「だがよかろう? 口でなんと言おうとも、さぶろうは喜んでおるのだ。わたしの前で嘘は通らぬ」
あさひ姫が傍らの女房に合図を送れば、女房はするすると御簾を上げた。
蓮の花のように清らかな美貌があらわになるにつれ、隣の友の息が止まったのがわかった。
宇津田宮の妃は、伏した目を上げ、膝をついて、男ふたりの前にいざり寄った。
いつ見ても、ぞっとするほど美しく、雰囲気に呑まれそうになる。貴人の女は面をさらすのを好まず、隠すのを美徳とするが、あさひ姫はあえて面を化人に見せるところがある。その面が、帝を捉え、人の心を動かす武器になると知っているのだ。
見目は極上、中身は性悪な女。これが己の「娘」かと思うと、眩暈がする。
沢蟹大将は胡坐の膝をぽんと叩く。
「ほほう! これまた、絶景かな! 長年鄙びたところにおりますれば、眩しくてかなわぬ次第でございまする!」
大将へあさひ姫の視線が注がれたのを見て取って、友はピッ、と背筋を伸ばした。
「あさひさま。お初にお目にかかる。わしは沢蟹と申す。沢蟹と呼ばれるのは、沢蟹から似たこの面のせいでござる。大将と呼ばれることがあれど、それは父の官位にて。わし自身は蛭子守にて、長年田舎住まいをしておりましてなあ!」
ガハハハッ、と頬まで髭を蓄えた大男は大声で笑う。傍に控えた女房も女童もさすがに大音声に耐えきれないで、耳を塞いだ。あさひ姫は顔色ひとつ変えなかった。
「宇津田宮におはす主の噂は、蛭子国まで届いておりまする。これはご挨拶せねばと思い、はせ参じた次第でごさいます」
自己紹介する沢蟹に、あさひ姫は目を細くし、じっと見上げていた。それは沢蟹を見ているようでもあり、そうでない何かを視ているようでもある。
やがて妃は小さく口を開く。
「失せ物はもう壊れておるぞ」
「あっ?」
沢蟹がぽかっと大口を開けた。
「わたしに『失せ物探し』を頼みに参ったのではないか。その答えだ。失せ物は、もうない。覆水盆に返らず、と言う。諦めよ」
男の面が赤くなり、青くなる。
「な、なぜそのことを」
「わたしのこの目には、この世のことがすべからく視えるのだ」
姫は己の眼を指さす。吸い込まれそうな混じり気のない黒色。見つめていると、己の居場所さえわからなくなりそうな危うさがあった。姫はこう告げた。
「……土器の鉢。少し、端が欠けている」
ガタッ。沢蟹が驚きのあまり立ち上がった。
「座れよ」
三郎君が友のふくらはぎを軽く叩いて冷静に諭す。
「だ、だが、しかしっ! おい、三郎! いったい、なんなんだっ! わしはまだ一言も話しておらぬのにっ! 三郎が話したのか!?」
「まさか。夜半過ぎに突然訪ねて来たおまえの相手をしていたのに、いつご注進に行けるというんだ」
これぐらいで驚いていたら身が持たんぞ、と三郎君は言ってから、妃へ向き直る。
「なぜ、土器の鉢を探していると。こう見えてもこの沢蟹はとんでもない大金持ちな上、金にがめついのです。金の鉢ならともかく、なぜ壊れた土器の鉢を探す必要があるのか」
「ただの土器の鉢ではないからだ」
姫は淀みなく答えた。
「沢蟹の邸はたいそうな大豪邸であるようで、中には穀物を納めた倉も五つも並んでいる。盃は、その倉にあった米俵をまるまる盗んだのだ」
「……盗んだ。鉢が? そんな馬鹿なことがあるものか」
「あったのだから仕方がない」
あさひ姫は肩を竦めた。
「沢蟹は、盗人探しをしたかったのか」
三郎君が尋ねる。
米は人びとの腹を満たす大事な食物である。特に白米は高価であり、縁のない庶民は雑穀の飯を食べるのだ。すなわち、米俵は富の象徴であり、財産の一部である。それを盗まれたのであれば、守銭奴には耐えがたいことだろう。
「盗人だからじゃないさ」
沢蟹が口を挟む。
「あんな不思議なものがあるなら、欲しくなるのが人の常ではないか!」
男が言うには、鉢はある老人から渡されたものだという。道端で米を分けるよう突然言われたのだが、故もないので断った。すると老人は言った。
『ではこの鉢を差し上げましょう。この鉢は、わしの代わりに米を運んでくれるのです。もし嘘だと思うなら、夜に枕元に置いてくださいませ』
半信半疑だった沢蟹だが、言われたとおりにした。すると三日目の夜、鉢がひとりでに宙に浮かび、倉の戸を開け、次々と米俵を持ち去ったのである。月夜に浮かぶ鉢と、その後ろに連なる米俵の列。その光景があまりに奇異すぎて、沢蟹はひっくり返った。
気を利かせた家人が、どうにか米俵の列を夜中に追いかけたところ、米俵は途中で方々の村へ飛び散った。どこも昨今の飢饉に苦しんだ村だった。村人たちはどこからともなく落ちた米俵を驚きつつも、感謝して食っていたという。
しかし、鉢の行方は知れなかった。鉢を渡してきた老人もまたしかり。
「さすがに喜ぶ領民どもから米を取り上げようという気にはならん。この沢蟹、米俵などいくらでもくれてやるわ。されど、あの鉢! あれは欲しい。気に入ってしまったのだ!」
沢蟹の目が欲で爛々と輝く。
沢蟹は都にいた頃から、物に執着するきらいがあった。地方へ下り、大金持ちになった今は、めったに手に入らない珍奇なものに心惹かれるのだろうか。
「どうだ、あさひさま! この沢蟹、一生の願いでござる! あの鉢を探してもらいたいっ」
「できぬ」
「どうしてだあっ!」
沢蟹が頭を抱え、板敷に叩きつけんばかりに嘆いた。
「壊れたなら仕方があるまい」
しかし、あさひ姫はにべもなかった。それどころか、用がなければ去れと言いたげに右手をひらひらさせる。
「そ、そこでござるっ、そこをご説明くださりませっ!」
「説明する必要があるのか?」
「ぜひ! ぜひともっ!」
面を一瞬だけ上げた沢蟹が、三郎君に目くばせをする。あさひ姫にとりなしてくれということだろうが、叶える義理などないではないか。
むしろ、十年近くも無沙汰にしておいても、昔と同じように振る舞ってやっているだけマシというものだ。
「さぶろっ、さぶろーっ」
「さぶろう、呼ばれておるぞ」
あさひ姫まで三郎君に返答を急かしてきた。三郎君は深々とため息をつき、言った。
「この三郎にも、よくわかるように告げてください。あなた様にはいつも言葉が足りない」
あさひ姫は不思議そうに首を傾げた。まるで幼い女童のようである。
「しかし、壊れた、としか申せぬのだ。そも、あの鉢は神仙の力を帯びたもの。人の手に負えるものでなく、それを持とうという欲を持ったところで、災いにしかならぬだろう」
米俵で済んだだけまだよかったではないか、と妃ははっきりと言い切った。
「では、その鉢が壊れたとわかったのは?」
「米俵を運び終えた時、空飛ぶ鉢は神通力を失い、山へ落ちた。その際に砕け散った。だからもうない」
「老人は何者だったのだ?」
姫は蝙蝠扇の先を己の顎に当て、静かに告げた。
「何者であったかというより、何故現れたか、を考えねばならぬ」
「何故?」
「あれはおまえを戒めるためにやってきたのだ」
おまえ、と言った視線が沢蟹へ注がれる。大男が勢いよく髭面を上げた。
「と言いますのはっ! この沢蟹にはちっとも身に覚えがござらぬぞっ」
「わからぬのか」
沢蟹はあさひ姫の眼光に気圧されたように胸を押さえた。
妃の眼差しは実に心臓に悪いと三郎君は思う。自ずと頭を垂れなくてはならない気分にさせられる。そして神妙に話を聞く姿勢を取ろうと背筋を伸ばすのだ。
「沢蟹よ。おまえは蛭子国の国司でないか。国司は、帝に代わり、国を司る者である。さきほどから見聞きする限り、おまえの頭の中には領民よりも金や物しかないようだ。おまえが領民に分けてやったという米俵も、元は領民が汗水垂らしてやっとわずかに収穫できたものを、必要以上に取り上げただけ」
三郎君はさもありなんと納得の息を吐く。
沢蟹は、三郎君の友である。出世の見込めぬ朝廷に見切りをつけ、受領となって地方に下る道を選んだ。
国司は、時折現れる狂ヒや賊の危険もあるが、代わりに徴税の裁量は自身に委ねられていた。要は、名誉を捨て、富を得られる道なのだ。
沢蟹の所業は当世の受領なら当然のことをしたに過ぎない。ただ、そうだからと言って、手を緩める妃ではないだろう。
「今年はどこも飢饉の年であったから、どこの民も飢えていたはずだ。蛭子国の民は、少ない食い物を取られて苦しんでいたというのに、おまえだけはたんまり米俵を蓄えておる」
さぞや、恨まれていただろう、と妃は言う。沢蟹はきょとんとした。三郎君でさえ思い至るのに、沢蟹にはわからないのだ。
「おまえは運がよい。取られたのが米俵だけで済んだ。場合によっては、替えの利かぬ大事な命を奪われていただろう」
「なんと……!」
沢蟹は胸を押さえて絶句した。
沢蟹は、友としては付き合うのに快い。ただ、知恵が足りず、腹芸もできない。出世を諦めざるを得なかったのも、本人がそもそも世渡り下手なのだ。己というものに気付けない。三郎君も、沢蟹の国司としての横暴ぶりは耳にしていた。年々ひどくなっていく有様を眺めていた。忠告したところで本人がその気にならねば何も変わらないのだ。
『わしは、恵まれておらぬからなあ』
おまえみたいに。そんな口ぶりで言われては、何も届かないのだと三郎君は知っていた。
沢蟹大将は、大柄な身体を左右に揺らしながらよろよろと宇津田宮を去った。
あとには三郎君がひとりで残った。夜の帳がだんだんと室内に入り込み、妃の面に影が差す。
「さぶろう。まだ足りぬぞ。もっとだ。もっと持ってくるがよい。――『失せ物探し』だ」
あさひ姫は傲然と顎を上げ、尊大な目で三郎君を見下ろしていた。
「あなた様は、おかしい」
三郎君は「娘」を睨み返した。
 




