正体
「かあさま、かあさま、かあさま、かあさま」
ゆきが、桜の上の胸に飛び込んでも、かあさま、と呼ぶのをやめなかった。うれしそうに、何度も呼ぶ。
わらびは、茫然としながらも、桜の上を見て、告げた。
「桜の上が、殺したんだね。ゆきの首を絞めて殺したんだね」
桜の上は困った顔さえ美しかった。ゆきの髪を優しく撫でながら首を傾げ、夢見るように答えた。
「不思議ね、この子がこうしているなんて」
それは認めたのと同じことだった。榊宮の元にいた柿の君にして、ゆきを殺した母――それがこの美しい妃だったとだれが思っただろう。
「わたくし、この子がいたら、と何度も思っていたの。あの時はかわいそうだからああするしかなくて。かあさまを許してちょうだいね」
ゆきは、うんうんと無邪気に頷いた。
「わらび、子はかわいいものよ。わたくしの幸せに役立ってくれる。だからわたくしは幸せなのだわ」
膨らむ腹をさする妃。その笑顔が、空恐ろしかった。
「以前、わらびに夕占の話をしましたね。あれを聞いて、わたくしは幸せに思ったの。だって、国母になる運命を持つ姫君なんて素敵でしょう? 物語にある姫君みたいでしょう?」
これは内緒よ、と茶目っ気たっぷりに桜の上は唇に人差し指を立てた。もらっちゃったの。
「……もらっちゃった?」
「そう。姫様がうれしそうにお話ししてくださったものだからね。わたくしもほしくなってしまったの」
なら、とひき丸が震える声で問うた。
「だれだ。おまえはだれだ?」
「さあ?」
可憐な仕草で首を傾けた桜の上は、「幸せになりたかったの」と続けた。
「本当に幸いはわたくしへたくさん降り積もってきたわ。……気の毒なことはいくつかあったけれど」
それでも幸せだと、桜の上は毒々しい花の微笑みを浮かべた。
「お話しできてうれしかったわ。わらびなら、本当のわたくしを見せられると思っていたの。それにこの子に会わせてくれた。ありがとう」
桜の上はぎゅっと己の子を抱きしめた。わらびはその光景に吐き気がした。
本当は、まったく力が入らない身体だけど。むりやりに動かして、一歩、階を上る。手のひらを幼子へ差し出した。
「ゆき。帰ろう。へび爺が待っているよ」
ゆきが桜の上の子だろうと、その桜の上が、本物でなかろうとどちらでもよかった。けれど、ゆきが桜の上の元にいるのだけはだめだと思った。ゆきの居場所は佐保宮ではない。ゆきを大切に思っている人は、ここにはいない。
「わらびは、ゆきがいないとちょっぴりさびしいんだよ。だからね、一緒に帰ろうよ。柿、また食べたいでしょ。あれもまだ少しとってあると思うよ」
そうだな、とひき丸も頷いた。
「帰ろうぜ、ゆき! 俺もおまえがこっちにいた方がいいと思うぞ!」
ゆきはしばらく黙って、わらびと桜の上を見比べていた。桜の上は、自分が選ばれると信じているのか、ゆきの言葉を待っていた。
ゆきの手が、わらびへ伸ばされた。
その刹那のことだった。わらびと桜の上の間に、藍色の衣が舞った。
「なんでっ!」
桜の上に襲い掛かったのは、青竹だった。血走った目で桜の上につかみかかり、その首を掴んでぐるぐると回し始めた。
「あっ」
それが唯一の、桜の上の抵抗らしい抵抗だった。
「母様っ! だました、わたくしをだましたのね! わたくしだけだと、信じていたのに! 姉妹を殺した! 許せない、許せないっ、死ねっ、死ねっ」
ひき丸が止める間もなかった。ごきゅりとすぐに厭な音がして、桜の上の手足がぶらりと垂れ下がる。桜の上は物言わぬ屍になった。股の間あたりから、何かが落ちた。
そしてその姿が一瞬のうちに、ぐにゃりと曲がり、ぼとんと板敷に落ちたのは、美々しい衣に包まれた大蛇であった。
化人が本性に戻った時だった。
大蛇の傍らには、桜の上から落ちた何かがあった。それは人の形をしていたが、青黒い肌を持った、まるで小さな狂ヒだった。
青竹はそれを拾い上げて、摘まんで、大声で嗤った。
まるで悪夢のような光景だ。
「ゆきっ」
わらびはひとまずゆきの手を引っ張って、大笑いする青竹から離れた。だが、その手は透明に透き通っている。
ゆきは、こほんと咳き込んで、覆った両手のひらをわらびへ見せた。水晶の欠片が乗っていた。
にこり、とゆきがぎこちなく笑い、その姿はおぼろげになっていって。……ころん、と欠片が落ちる音がした。
「ゆき……?」
幼子の姿はもうどこにもいなかった。
眼前に白いものがいくつもちらついた。初雪だった。
冷たい風に乗って、上から降ってくる。ひらひら、ひらひら。桜の花びらのようだった。
全部、全部消えてしまえ。わらびは目元が熱くなりながら思う。
この悪夢を、雪が覆い隠してしまうことを祈った。
青竹は異常を知った衛士に捕らえられるまで、壊れたように笑っていたという。
死穢のため、佐保宮も閉じられることとなり、そこにいた者たちは散り散りとなった。わらびは橘宮の住む更級第に引き取られた。
夜を忍んで、もののけがわらびに会いにきた。ずいぶんと、形が変わっていた。前は人の大きさほどのある黒いもやだったのが、今はまるで鼠ほどの大きさとなってわらびの枕元にやってきた。
ゆきの顛末を聞いたもののけは、そうか、と落ち着いた声音だった。
『あの娘は心残りがなくなったのであろう。失せ物は見つかったのだ。母と会い、わらびたちと会ったことは、救いだったのだ』
「不知は、どこまでわかっていたの。ゆきが、だれの子だったのか、知っていたの……?」
へび爺は明らかに気落ちしていた。ゆきが普通でないことはへび爺にもよくわかっていたのだ。ほんの二、三年で子は見違えるほど成長するのに、ゆきの姿はへび爺が知るままだったから。
『知らず。だが、定めのようなものではあったのだろう』
わしはかつて頼まれたことをしているに過ぎぬ。
その言葉に、わらびは頭を持ち上げた。
「どういうこと?」
『宝珠を持つ者の中に、まれに異能を持つ者がおる。帝が千里眼を持つように、その御方は未来を視た。だからさまざまな手を打っておられる。この久世が、よりよいものであるようにと願いながら』
その方が、わしに幼子を拾えと言い、しかるべき者に会わせよと命じていかれた。
空っぽの頭に話の内容だけが素通りした気持ちになる。
『わらび、その手にある欠片で、最後だ。――月が満ちる』
「月が満ちたらどうなるの」
『思い出す、すべて』
「逢いたい人に逢える?」
不知は答えなかった。ああ、そう、とわらびは泣きながら言う。
「女東宮って、どんな人だった? きれいなひとだったのかな」
『不器用な御方だった。懸命に心を押し殺して、辛さを耐え忍ぶ方だ。絹のように、白くて美しい髪をしておられた』
そうなんだね、と答えながら、わらびは欠片を見つめる。これは、ゆきが最期に残していった欠片だ。一度は食べられ、そして戻ってきた水精の欠片。本当はもっと早く食いたかったけれど、できなかった。儚かったゆきの形見だったから。
腹がすさまじい音を立てて、早く食えとせかしているのを、わらびはずっと我慢していた。なのに、今は。
「いや。いやだよ」
手が勝手に動いて、欠片が口元に近づいていく。身体が欲している。止まってくれなかった。だれかが、わらびの身体を操っているようだった。
「不知。わらびはどうしたらいい。まだお別れを言えてないよ」
ひき丸に、橘宮に、へび爺に、ふつに。
わらびがわらびでなくなってしまう前に、話したかった。話したいこともないけれど、ただ逢いたいと思った。
すると、不知はぴょんとわらびの手にぶら下がり、欠片を取った。
『これで、ひとりには別れを告げることができるであろう。それ以上はわしにもできぬ。欠けた宝珠は、元に戻らんとしておるから』
「ありがとう」
ちょっとだけ自由を取り戻したわらびは、外へ飛び出した。
ひき丸、ひき丸、と寝ていた少年を揺り動かす者があった。薄暗い中で目を凝らすと、ひき丸に覆いかぶさるようにして、美しい少女がいた。中身はともかく、顔だけは相変わらず息が止まるほどの絶世の美少女だ。
「あのね、お別れを言いに来たの」
「あ? 何言ってんだよ」
「お別れなの。拾ってくれてありがとう。わらびはうれしかったよ。ひき丸と一緒にいられたのは宝物だった。忘れないよ」
「え……」
わらびが、ひき丸に抱き着いた。わずかに、梅の香りがした。次にひき丸の目に飛び込んできたのは、泣き濡らした面。
おい、どうしたんだよ。普段ならそう言えるはずだった。だが、もどかしくも口が開かない。
わらびがさっと踵を返して外へ去ってしまい、一瞬の間があった後に、我に返った。
何があったか知らないが、今すぐ追いかけなければならないと思った。今行かなければ、手の届かないところに行ってしまう。
ひき丸は草鞋だけ急いで履いて、わらびの背中を追った。
冴え冴えとした冬の満月が忘れられない夜だった。
以前、ある御方からかけられた声が、耳奥でこだました。
――おまえは大事な者を失くすでしょう。酷なことをさせてしまいますね。
その時は「まさか」と笑い飛ばしたのだ。
――女東宮様以上に大事な方は現れませんね。ええ、その時になったら、はい、さようならと潔くお別れです。深入りもしませんよ。
女東宮が、痛ましいものを見る目をし、ゆっくりと首を横に振ったのを覚えている。初めから、視えていたのだろう。
ひき丸は歩くわらびを懸命に走っておいかけた。なのに、不思議と追いつけない。背中までの距離がちっとも縮まらない。
わらび、わらび、と何度も名を呼んだ。
少女がようやく振り向いたのは、宇津田宮にある池の前だった。
わらびが、ゆっくりと口元へきらりと光る欠片を持っていく。ごくりと呑みこむ音が聞こえそうだった。
「わらびっ!」
わらびの目が、つい水面へ注がれる。じゃぶじゃぶと冷たい水の中に入りこんでいく。普通の様子ではなかった。
足首、脛、膝、太もも、と水に浸けていく。水面に映る何かに魅入られているようだった。
「おい!」
ひき丸も池の水へ飛び込んだ。凍えそうな寒さがあっという間に体の熱を奪うが、ついに頭まで水に浸かったわらびを引き上げた。
陸まで引きずるうちに、気づいた。
「あ……」
さっと月明かりがひき丸の抱えた身体を照らした。
髪が、長い。肩までの髪が背丈より長い。
顔つきが違う。幼さが抜けている。
背丈が大きくなった。着丈の短い袴からふくらはぎから先がすんなり伸びている。
肌がおぼろげな光を放ち、神々しさがある。
陸に、見知らぬ人影があった。
剣を衣のようにまとった童子だ。小さな雲に乗り、まるで百年を経た老人のように理知的な目をしている。明らかに化人ではない。
この童子が陸に引き上げられたわらびを見るや、膝をつき、頭を垂れた。
『お戻りをお待ち申し上げておりました。久世に生きるあまねく畜生を代表し、真の摩尼珠王にご挨拶を申し上げまする』
明らかに人が出す声の響きでなかった。深く、低く、年経た声だった。
女人の睫毛が、童子の語りに反応したのか、ふるふると震えた。
ぽっかりと、絶世の美女が目を覚ます。
その視線がひき丸と交差するやいなや、ひき丸は唐突に理解してしまった。深い絶望を味わうこととなったのだ。
……わらび、と池の端で何度も名を呼ばれた時。まだ遠くでひき丸の声が聞こえていたけれど、水面に映る面を見て、納得した。
そうか。これがわたしの、本当の顔だ。
それきり、わらびという少女の意識が途切れた。
――わらびは、もうこの世のどこにもいない。
《水面の鏡編》完。次章がまとまるまでお待ちくださいませ。




