佐保宮
どのくらい経ったかわからないが、ふつがひき丸とともに現れた。ひき丸は、ゆきをおぶさっていた。少年がわらびの元へ走り寄ってきた。まっすぐと階を上り、わらびの傍らに膝をつく。
「わらび!」
よく知った顔が近くにいるから安心した。にこっと笑ってみせた。
「欠片はまだ少しだけある。とりあえず、外に行こう。おぶってやるから。ほら、ゆきは下りるんだ。あとは自分で歩けるな?」
ゆきは、こくりと頷き、ひき丸の背中から離れた。
三日ぶりにあったゆきは、前よりも丸みのおびた頬をしていた。まるで普通の幼子のようで、わらびは自分のことのように嬉しかった。よかった。ゆきは大事にしてもらえている。もうひとりではないのだ。
あら、とつんと尖った声が、安堵の場に霰を降らせた。青竹が背筋を伸ばし、戸をくぐって現れた。檜扇で口元を隠しながらも、冷たい一瞥をわらびへ注ぐ。
「わらび、外へ行くのを許した覚えはありませんが」
「お、お許しくださいませ、青竹さま」
わらびが言う前に、ふつが板の上で平伏し、震える声で訴えた。
「わらびは体の調子が思わしくないのです。どうかここはご容赦くださいますよう……」
「そんなわけがないでしょうに。ふだんから馬鹿みたいな子ですから。病まで馬鹿にして近寄ってこないでしょう」
佐保宮の筆頭女房が周囲にいる野次馬たちへ去るように告げると、蜘蛛の子を散らすようにだれもいなくなった。
ふつもどうにかその場に踏みとどまっていたが、青竹が「おまえ」と呼び掛けたものだから、頭を垂れて引き下がるほかなかった。
残ったのは、青竹、わらび、ひき丸、ゆきだけだった。
ひき丸に肩を支えられていたわらびは、少年の眼が青竹に向いていることに気付いた。怖い顔をしている。わらびは悲しくなった。
青竹も、ひき丸が己を見ていることに気付き、目を弓なりに細めた。
「あぁ、よく出入りしている者ですね。今日、そこの者は外へ出られないので帰るように」
そこの者、でわらびを見る青竹。少年は淀みなく答えた。
「いいえ。恐れ入りますが、この者は俺が引き受けます。我が主、橘宮様が後見人でして、ここ数日来ないのを心配しておりますので」
「……橘宮様の」
青竹が少し考え込むように目を伏せた。
青竹という女房は、本来、計算高い。だれに従い、だれを動かし、だれを排除すべきか心得ている。今、青竹の頭はめまぐるしく回転し、橘宮を秤にかけている。
橘宮は、桜の上に好意的な立場をとっている。だからこそ橘宮に拾われたわらびは桜の上に仕えることとなった。桜の上にとって、帝の寵愛だけを支えにしていた時期からの恩ある人である。
青竹は灰色が重く立ち込めた空を見上げる。
「橘宮へお伝えください。この者をお引き取りくださいませ、と」
暗に「わらびを追い出せ」と青竹は告げたのだった。
「この者は宮仕えが向かぬところが多々ございます。わたくしが注意しようと直す気配もございません。それでは宮の統率が乱れます。これだけ申せば、橘宮様も納得していただけるはずです。おまえはもう気にしなくてよいので、さっさと連れて帰りなさい」
ひき丸が、厳しい顔で青竹をまっすぐ見ていた。今にも何かを言いたげ、怒りをこらえた表情だ。
「あなたは、以前、女東宮さまにお仕えしていたと耳にしておりましたが」
「……それが?」
青竹が不審そうに尋ね返せば、ひき丸の口の端が上がった。
「いえ。ずいぶんと、変わられたようだと思いまして。女東宮様にお仕えしていた時は今ほど熱心な女房でなかったという噂でしたので」
「桜の上がそれだけ素晴らしい方だということですよ」
青竹はかすかに微笑みを湛えながら語った。
「それに引き換え、あの方と来たら、よろしくない方と密通されたものだから評判を落としたでしょう? 残念でしたね」
「まるで他人事ではありませんか」
「わたくしは、泣き虫なくまのとは違います。仕えるべき主に巡り合っただけです」
あぁ、だから、とひき丸は皮肉げにこう言った。
「女東宮さまを嵌めたんだな。桜の上は、あの方には絶対に勝てないから」
さっと青竹の顔色が変わった。
「何を言い出すのですか!」
反応に確信を得たひき丸がふたたび語り出す。
「ほんの一年ほど前、帝が秘密裏にふたりの女人を呼んだそうだ」
帝は妃の資質を知るため、試しを行った。氷を持たせ、より長く耐えられた方を妃にすると告げた。
すると、ひとりの女人は席を立ち、もうひとりは残って、耐えた。
帝がその訳を尋ねると、その女人は小さく言った。
初恋でした、と。
『昔、ほんのわずかにお目にかかった時、恋い焦がれてしまったのです、どうかわたくしの気持ちを受け取ってくださいませんか』
帝は、そんな女人にこう告げた。『初恋だということが、余の妃になる理由にはならぬ』。
「我が妃になることは、この国の母になること。意志強く、余に諫言するぐらいの肝がなくては務まらぬ。言われるがままの女人に興味を持つはずがなかろう――。帝は、桜の上を拒絶したのさ」
青竹は押し黙っていた。
ぼんやり話の行方を聞いていたわらびは驚いた。
それでは、まるで違う。桜の上は帝の寵愛深い妃だ。だれもがそう思ってきたし、それが事実のはずだ。
「女東宮さまは東宮の地位を下り、代わりに今の帝の妃となるはずだった。だが実際に入内の内諾が下りたのは桜の上だ。女東宮さまは醜聞に見舞われた。その裏側には政のさまざまな駆け引きがあったんだろうさ。だが、青竹様。あんたの存在はあまりにも怪しいだろ」
青竹は醜聞が起きた後、すぐに桜の上に仕えるようになり、またたくまに筆頭女房としての信頼を得た。
それは女東宮の宮での目立たない働きぶりとは明らかに違っていた。
「だから、何だというのです。証も何もない妄言を連ねたところで、だれもそれを信じないでしょうに」
青竹はひき丸の言葉の衝撃からすぐに切り替えたようだ。
「桜の上も、元はひっそりとお山で育った御方ですから、さまざまな方が勝手なことを言うのです。何も知らないくせにさも嘘を真実のように並べ立てる輩が多いのですよ。桜の上から世間の雑音を遠ざけ申し上げなければなりません。あの方が、もうすぐ皇子を御生みあそばされ、国母となられるのです。この青竹は、桜の上をお守りするのがお役目だ!」
青竹が力強く言い放つ。その意気は戦場の武人となんら変わらない。桜の上を守る忠臣だ。
あおたけ?
儚い声が場に春の風を呼び込んだ。
大きなお腹を抱えた桜の上が、楚々とした仕草で青竹に近寄っていく。
「大声を出して、どうかしたのですか? 他の者が怯えているようですよ」
「何でもございません。少しこの者たちと話していただけです」
青竹はすぐさま桜の上の身体を支えるように立った。寄り添いあう主従はまるで一帖の絵画のように美しい。
ひき丸が、眉間に深い皺を寄せている。詰問がうまくいかなかったからだと思い、ひき丸の手をきゅっと握った。
桜の上は、ひき丸に支えられたわらびを見て、少し離れてぽつんと立つ幼子を見た。そのまま瞠目した。
わらびは、ゆきの目に光が宿ったことに気付いた。ゆきがよろよろと歩き出した。無邪気に、かあさま、と呼んだ。




