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蓮の花

 宇津田宮は竜田宮の真北。すぐそこなのだ。猫がいるかを確認するぐらいはしてもいいはずである。

 ふつはしぶしぶついてきた。勝手にして、と言わないのは、そういったところでわらびが聞かないのをわかっているからだと思う。あと、今日はわらびについていくと決めたから。自分との約束は守ろうとするのがふつなのだ。

 宇津田宮には人気がない。主人がいなければ仕える者もいないからだ。

 主殿の傍らに老木があった。以前、見上げた時と同じように梅の花がついている。


「わらび、何をしているの」

「花を見ているんだよ」

「どこにもないわよ」


 わらびと顔を見合わせたふつには、花が視えていない。本物の花ではなく、幻の花だ。この枯れ木がかつてかくも咲き誇ったのだと視える者に見せている残り香なのだろう。


「ねこ……」


 ふと、でぶ猫が近くにいるような気がした。首につけた鈴の音が聞こえた気がした。

 招かれるように、ひとりでに主殿の戸が開く。

 前と同じように、中へ飛び込んだ。

 一面、闇だった。手入れもほとんどされない板敷の床は埃っぽく、足を踏み出すたびに砂を踏むようにざり、ざり、と音がした。

 奥に進むにつれ、梅の香りが鼻をくすぐった。以前よりも強く、薫ってくる。香りの先にあるものを見たくて、足が向く。


『わすれじの 命みじかし 梅のは 今ぞかぎりに にほひたちぬる』

(忘れないでください。梅の香りは命が短いですが、今この時をもって精一杯に香っているのです)


 どくん。心臓がひとつ、大きく鼓動を打った。

 わらびは、囁きかけるようなあのかすれ声を知っている気がするのだ。

 あの、女の声の主は。


『大空を かよふまぼろし 夢をだに 見えこぬたまの 行く方たづねよ』

(大空を自由に翔ける幻術士よ。夢でも姿が見えぬあの人の魂の行方を探してきておくれ。……逢いたくてたまらないのだ)


 別の声も重なった。血を吐くような願いを込め、男は呟いたのだ。失われたひとを偲びながら。

 目の端を白い何かが横切った。目で追いかけたのに、わからなかった。代わりに、でぶ猫がちょこんと暗闇の中で座っていた。姿がおぼろげに光っていた。

 でぶ猫がこっちへ来いよと言わんばかりに尻尾をふりふり、どこかに行こうとするのを追いかけた。

 すると、猫はするりと器用に戸を開け、出ていった。わらびも続いて戸を開くと、眩しさで一瞬、何も見えなくなった。

 光に慣れた目が見つけたのは、こじんまりとした池だった。

 わらびは別の出入り口から主殿を出ていたらしい。宇津田宮の正面からはちょうど垣間見えない裏にある池だ。

 池の中央にはきれいな蓮の花が咲いている。蓮の季節はとうに過ぎているというのに。

 引き寄せられるように、身体が動く。池の淵に辿り着き、膝をついた。この世のものとも思えない幽玄の美を遠くから眺めようとして、池の水面にさざ波が立つのがわかった。

 目が下に吸い寄せられる。波立つ中に、わらびの面が映るはずだったのだが、静まっていく水面に映るのは、わらびの面ではない。

 それは。あれは。……きっと。


「おいっ!」


 バチン、と頬がかっと熱くなり、横向きざまに倒れたのはその時だ。反射的に見上げると、滲んだ視界の奥に男の影が映った。


「……三郎君」


 怒り肩の男が、右手の拳を固く握りしめながらわらびを見下ろしていたのだ。

 ああ、わらびは殴られたのだと思った。口の中が痛い。唇の端を指で拭えば、血がついていた。


「どうしてわらびを殴るの。わらびが、なにかした?」


 三郎君は、ただ無言で睨んでいた。わらびが身体を起こしながら尋ねる。


「またここに来たから怒っているの。それとも」


 ――()()()


 男がたたらを踏む。しかし、青白い顔のまま、わらびにこう問うた。


「何を、知っている」

「ううん。なにも。わらびはどうしてここにいるんだろうね」


 折よく、にゃお、と啼き声がした。気づけば、わらびの膝元にすりよるでぶ猫がいた。相変わらず、悪そうな面構えをした猫である。

 でぶ猫をよいしょと持ち上げた。おとなしくされるがままの猫。のんきにあくびなどしている。


「そうだった。でぶ猫を探していたんだよ」

「でぶ……ねこ?」

「また迷い込んだみたい。ここが気に入っているのかもしれないね」


 三郎君とはこの宮でよく顔を合わせているが、わざわざわらびを待ち構えているわけではあるまい。それだけ三郎君がここに来ているということだ。

 以前、三郎君はこの宮で絵の蛙を見せた。ひき丸が描いた蛙だ。その少し前、三郎君が自身の足で潰したのは、女東宮が描いた蛙だった。ひき丸が女東宮の真似をしたと怒ったがゆえの行動だった。

 だとしたら、三郎君にとって女東宮は、だれにも触れられたくない大事な人でなかったか。

 しかし、そのひとはいなくなってしまった。それでも忘れられずに来るのなら、涙ぐましい片思いだと思う。思い出の地にわらびが侵入したぐらいで「怖がる」のだ。健気で純情、かつ繊細で多感な男心なのだ。

 ちょっとだけなら、優しくしてやってもいいのかも。

 そう思ったわらびは猫を片腕に持ち替えて、ごそごそとたもとを探る。


「あげる」


 不器用な手つきで柿を取り出すや、三郎君の面が引きつった。不審者を見る目つきである。


「いらん」


 そう言われたものだから、自分で食うことにした。三郎君の前でもしゃもしゃと柿を咀嚼するわらびである。

 曇り空の下にある水面は平らに凪いでいた。わらびが手を伸ばそうとした蓮の花も忽然となくなっている。梅の香も、さっぱり消えている。

 わらびぃ、と己の名を呼ぶ声が遠くから聞こえた。


「ふつが呼んでるから、もう行くよ。じゃあね」


 でぶ猫を抱えたわらびは踵を返した。三郎君には引き留められなかった。

 冷たい風にさらされて、頬と唇の端がしくしく痛んだ。

 ふつの姿は宇津田宮の門の前にあった。わらびを見つけるや、ふつは小走りに寄ってきて、何があったの! とまっさきに訊ねてきた。


「あのね、三郎君がね」

「そうじゃなくて!」


 わらびは、ふつが普通の様子でないことに気付いた。興奮して、泣きそうになっていた。


「いったい、どこに行っていたのっ、一刻(およそ二時間)も! 一刻もよ!」


 ふつは叫んだ。

 はて、とわらびは首を傾げた。せいぜい四半刻ほど過ぎた感覚しかなかったのだ。


「中をいくら探してもいなかったのよ! 宮の中に入ったとたんに消えたのよ! わたし、すぐ後ろにいたはずなのに、まばたきしたらいなくなっていたの。神隠しに遭ったんじゃないかって、わたし……」

「え、ごめん」


 涙目のふつに気圧され、謝る。やっと気持ちが落ち着いたのか、ふつははっと我に返った様子で頬を赤らめた。


「……いいわよ。帰ってきたんだから」


 ふつはわらびの顔についた傷に気付き、ひとしきり騒ぎ出したのだが、傷をつけた相手が三郎君だと知ると、


「どうせわらびが何かしたんでしょ。そうに決まってる」

「決まってないよ」


 ううん、とふつは心底そう思っているような口ぶりで続けた。


「だって、三郎君はわらびを探すのを手伝ってくれたもの。お優しい方よ」

「あ?」


 まさか、あの無慈悲で冷酷な三郎君が、と驚いた。


「間抜けに口を開けないでちょうだい。痛いでしょ」


 わざわざ手を伸ばしてわらびの口を閉めさせるふつ。


「本当よ。わたしがわらびを探してうろうろしていたら、声をかけてくださったの。初めは恐かったけれど、事情を話したら、主殿の中も一緒に探してくださったわ。心配するな、と声もかけてくださってね? 女人にはそっけない感じの方だと思っていたけれど、お優しいところもあるのね、とわたし、ついうっかり……」


 さきほどとは別の意味で頬を赤らめたふつは、白けた顔をしたわらびを見ると、さっと視線を逸らせた。


「ほ、ほら。でも見つからなかったから、今度は二手に別れて探そうとなってね? そうしたら、わらびが現れたものだから、ね?」


 三郎君はいい方なの、とすっかり魅力にやられたふつは力説した。


「お礼を申し上げなくちゃいけないわね。ちょっと行ってくるから待ってて」


 わらびが指した方向へ駆けるふつ。すぐに「いなかったわ」としょんぼりして戻ってきた。宇津田宮にある別の門から出ていったのだろう。

 いい加減、でぶ猫が重くなってきたので佐保宮に戻ることにした。

 でぶ猫という戦利品を手にしていたので、青竹に怒られることもなかろうと思っていたのだが、実際にはとんでもなく怒られた。どうも機嫌が悪い時に行き会ってしまったらしい。


「わらび。しばらく佐保宮から出ることを許しませんよ。失せ物探しなどもせずともよろしい。そこらの土とともに紛れていればよいでしょう」


 そんなことを言われても、わらびにまったく響きはしなかったのだが。

 佐保宮に働く人びとは、青竹の剣幕に恐れを為したらしい。青竹の命じた通りにさせられた。

 ひき丸に逢いにいくどころか、佐保宮で始終見張られている始末。ひまだひまだとあくびするほかない。

 ただ、それでも腹は減ってくる。胸にあるまだ欠けた珠がわらびへ存在を訴えてくる。あと少しだけ食うものがあるのだと。




 三日後、わらびは濡れ縁の板敷の上で派手に転び、動けなくなった。体中の力が入らず、指一本が重かった。

 ここまで空腹がひどいのはひさびさだなとわらびは冷静に思った。まるで初めてひき丸に会った時みたいだ。

 傍でおろおろしていたふつに、わらびはわずかに動く口でこう伝えた。

 『ひき丸に、逢わせて』。

 泣きかけのふつがこくりと頷き、慌てた様子で立ち去った。


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